病児・家族支援研究室 Lana-Peace(ラナ・ピース)
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アート・歴史から考える死生観とグリーフケア
深鉢と共に眠っていた縄文時代中期の少年
(北海道 大船遺跡)
 
品名:
少年の歯
 
出土:
北海道函館市 大船遺跡
時代:
縄文時代中期
 

北海道函館市の噴火湾(内浦湾)沿いを走る国道278号線を北上し、市立大船小学校を過ぎて左折し、坂道を上ったところに大船遺跡があります。以前Lana-Peaceのエッセイで取り上げた垣ノ島遺跡(A遺跡B遺跡)からは3.5kmほど北北西に向かった位置にあります。昭和59(1984)年、北海道教育委員会が行った所在確認調査により、大船遺跡は縄文時代中期・後期の遺跡であることが明らかになりました。その後、このあたりに町営墓地が造成される計画が起こり、北海道教育委員会の依頼を受けた南茅部町教育委員会は平成6(1994)年、範囲確認調査を行いました。その結果、大船遺跡は千年にもわたる集落跡(※1)と判明したのでした。写真1は函館縄文文化交流センターにあった大船遺跡の復元ジオラマを撮影したものです。大船遺跡は高台の遺跡で、集落の南側には大船川も流れています。大船遺跡では炭化したクリが約200点も検出された住居が見つかっており、更に住居の柱材の80%がクリ材(※2)であったことも明らかになっています。また計測可能な68個の平均値は縦横が1.3×1.74cm、小さいものだと 0.7×1.1cmほどだったそうです。現代よりも随分小さいものですが、北海道の寒冷な気候といった要素だけでなく、炭化したクリの表面にシワが著しく残っていることから、
収穫したクリを「干しクリ」として保存していた(※3)と推測されています。大船遺跡は川、海、森の恵みを存分に享受できる場所だったわけですね。 写真2は2018年5月に訪れた現地の様子で、遺跡から東に向かって撮影したものです。

写真1:大船遺跡概要模型
写真2:大船遺跡 海を臨む

海岸べりから急勾配となり、標高45m前後の段丘が形成されているので、その上にある大船遺跡からの眺めはまるで天空の世界のようです(写真3)。大船遺跡からはクジラの椎骨(写真4)も発見されています。国道の走る海岸線がかつては縄文海進で海底だったのかは不明ですが、大船遺跡から出土したクジラの椎骨が展示されていた函館市縄文文化交流センターのスタッフによると、今も噴火湾あたりでクジラが回遊する姿を見ることがあるそうです。数千年前の自然の営みは、今も続いているのですね。噴火湾の縄文人の虫歯の調査や人骨に含まれる安定同位体の分析により、クジラやイルカ、オットセイなどの海獣類を主に食べていたと指摘する研究結果(※4)もあるそうですから、こちらの椎骨も縄文時代の食卓にあがったものかもしれませんね。

写真3:大船遺跡と噴火湾
写真4:クジラの椎骨(大船遺跡)

大船遺跡で見つかった竪穴住居跡は縄文時代中期(4,500年~4,000前)が中心で、出土した住居跡は120軒以上、推定600軒以上の住居があったと考えられています。年月によって廃屋となった場所に、重なるようにして新しい住居が造られていました(写真5)が、その一部が復元されています(写真6, 7)。大船遺跡からはとても大型の竪穴住居が見つかっていることが特徴で、長さ7×9m、深さ2mを越すような住居は10数軒見つかっています(※5)。大きな柱の跡の穴がとても印象的です(写真8, 9)

写真5:大船遺跡 発掘中の様子
写真6:大船遺跡 新旧重なる竪穴住居跡
写真7:大船遺跡 竪穴住居(復元)
写真8:大船遺跡 竪穴住居跡
 
写真9:大船遺跡 竪穴住居跡
 

大船遺跡の竪穴住居跡は床面が当初楕円形であったものの、だんだん一方の先端が細長くなり、まるで舳先がある舟形のような形へと変遷していきました。そして住居床面に設置されていた埋甕炉は石組炉へと変わっていったのでした(写真10~12)

写真10:大船遺跡 竪穴住居骨組(復元)
写真11:大船遺跡 石組炉と小土坑
 
写真12:大船遺跡 石組炉と小土坑
 

舟形住居の先端に柱穴状の小土坑や皿状の小土坑が見つかっています(先端ピット)。前者は大黒柱のような柱で、後者はアイヌのイナウ(神と人との間を取り持つ木幣)のようなものが立てられ、祭祀が行われていた(※6)と考えられています(写真13~14)

写真13:大船遺跡 竪穴住居骨組(復元)
写真14:大船遺跡 小土坑と埋甕炉

また、大船遺跡の竪穴住居跡の床面からは出産後、後産で娩出された胎盤等(胞衣:えな)を埋めた痕跡が残されています。写真15の向かって左の写真は胞衣が埋められた穴の断面で、黒くねっとりした土の部分が胞衣の埋葬跡となります。直接土の中に埋められたのでしょうか。右の竪穴住居跡の中央には四角い石組炉があり、すぐ後方に胞衣が埋められた穴がありました。

写真15:大船遺跡 胞衣を埋めた穴(左) 胞衣が埋められていた住居跡(右)

図1は大船遺跡の竪穴住居(H-45)の床面を示したものです。「中央ピット」と記されたグレーの部分は直径30-40cm、深さ50-60cmの穴で、穴の底面には黒色化した堆積した土層がありました。こちらの土層の脂肪酸分析が行われ、人の胎盤の脂質が検出されています。この穴は縄文時代当時、掘られた後にすぐ埋め戻されて、周囲の床面と同じ堅さに踏み固められていることも明らかになっています(※7)。つまり出産後、胞衣を埋めるために穴が掘られ、すぐに土をかぶせて戻した、ということですね。

図1:大船遺跡 竪穴住居跡H-45

日本では古くから胞衣は壺の中に納められ、埋葬される風習がありました。奈良市の菅原東遺跡からは残存脂肪分析法で胞衣が確認された最古の例として、古墳時代前期の土師器の壺、甕が見つかっています(胞衣壺)(※8)。大船遺跡では土器が共に見つかっているわけではないので、胞衣は直接土中に埋められていたのでしょうが、住居の中心となるスペースに埋められた意味を考えると、胞衣を非常に大切に考えていたことが伺えます。胞衣は胎児がこの世に生まれ出るまでの間、母体内で大切に育まれるための根本だったのですものね。

さらに大船遺跡の人々の精神性が伝わるような場所が見つかっています。それは大船遺跡の南西から北東方向に約80m、幅約10mに渡って広がる盛土遺構(※9)です。

ここは長い期間をかけて生活上の廃棄物がためられた場所で、大量の土器や石器、マグロ、サケ、クジラ、イルカ、シカ等の骨やクルミ、クリ等が捨てられ、周囲より高く盛り上がってできていました。他で見られる貝塚のような場所、とも言えるでしょう。

写真16:復元された盛土遺構

貝塚は単なるゴミ捨て場ではなく、使用目的を果たした物へ感謝を捧げて終わりにする送りの場として考えられるようになっていますが、大船遺跡にもそれは当てはまります。当時、廃屋となった竪穴住居の窪みも生活ゴミの廃棄場所として利用されていましたが、そこから鹿角製の縫い針が丁寧に3本に折られ、並べられた状態で出土しました(※10)。不要となった縫い針を単に廃棄するのであれば、もっと雑な状態で見つかったことでしょう。

大船遺跡に関する説明がちょっと長くなってしまいましたが、ここからいよいよ本題です。大船遺跡から1基の土坑墓(P-62)が見つかりました(図2)。それはかつて住居(H-21)であったところに人が住まなくなり、お墓として用いられるようになったものでした。

このお墓には縄文時代中期の人骨が埋葬されていました。骨自体の保存状態は極めて不良であったものの、お墓の中から出て来た石匙やスクレイパー(刃状・へら状のこそげとるもの)、ナイフ等の他に6つの土器が副葬されていたことが確認されました。覆われた土に2つ、お墓の壁際から1つ、そして遺体の上下に3つです。
遺体の上には2つの土器(土器番号3と6)がありました。
土器3(図3・4)は口縁部(土器の開口部)はなだらかな山のような形状で、胴の部分からそこに向かってだんだん細身となる大型の深鉢です。土器の胴体全面は斜めの縄目模様で覆われていました。そして3本の線が口縁部の近くに二組あり、そのうち下方の線には渦巻のような曲線と、菱形のような模様が続いています。渦巻がまるで人の頭部、菱形が両手と胴体、それに続く直線は足を表しているかのように見えます。この文様に象徴的な意味が込められていたとしたら、3本の線は今世の命で、それが死によって分流されても、そこから新しく人の形を宿した命が始まる…そんな意味が込められているような気もしてきます。

図3:土器3
図4:土器3の模様

土器6(図5・6)も大型の深鉢です。こちらシンプルな作りではありますが、口縁部まで縄目模様がつけられています。

図5:土器6
図6:土器6の模様

土器3と土器6の口縁部は真東に向いており、これは遺体の頭と同じ方向でした。大船遺跡の真東は噴火湾・太平洋を臨むことになります。水平線の向こうから朝日が昇る時、波間には一筋の光を投げかけられ、あたりの空や海面がキラキラする様子は大変美しいだろうと思います。頭と深鉢の開口部が真東に向けられたということは、日の出の太陽のエネルギーをいち早く浴びることができる、というわけですね。

そして遺体の下、頭から少し離れた位置でもう1つの深鉢(土器番号5)が出土しました(図7・8)。これは口縁部が北に向けられていました。深鉢の胴体は曲線と直線が組み合わされ、そこに渦巻文が連なっています。
弧を描く2本の曲線が天上界を表していると仮定してみると、その下に垂れさがるように続く長方形の文様は、まるで天界から地上に向けたトンネルのようです。渦巻文が死者を表しているとすれば、天のエネルギーが死者に向かって滴下し、注がれ、あるいは死者の魂が天に向かって上昇していることを示しているかのようです。
また発想を変え、土器の胴体部分をぐるりと囲む2本の線を地面と仮定し、渦巻文は土中に埋められている種だと仮定すれば、種は発芽し、小さな双葉が空に向かって大きく葉を広げているかのように見えてきます。
亡くなった人へ天から癒しのエネルギーが注がれ、そのおかげで死者は昇天し、やがて埋葬された遺体は新しい命として始まることを暗示しているかのようです。中国の道教では魂魄(こんぱく)という考えがあり、人は死する時、精神を支える気の「魂」は天に帰り、肉体を支える気の「魄」(はく)は地に留まると考えられていましたが、そうした死生観がこの土器の文様には凝縮されているかのようです。

図7:土器5
図8:土器5の模様

副葬された土器の下から、歯が7本見つかりました(写真17)。歯の構造の中でも歯茎から上に見える「歯冠部」と呼ばれる部分です。乳歯が1本、そして永久歯が6本見つかりました。

乳歯は左上顎の第二乳臼歯です。永久歯は右上顎の犬歯、左上顎の第一小臼歯、右下顎の側切歯、犬歯、第一大臼歯、左下顎の側切歯でした。そして歯の磨耗具合から、このお墓に埋葬されていたのは10歳前後のこどもだと推定されました。更にこの歯は北海道伊達市の北黄金貝塚から出土した縄文時代前期から中期の男性の人骨・歯のデータと比較が行われました。その結果、大船遺跡のこどもは男の子であった可能性が強い(※11)ことが示唆されたのです。この地で生き、10年の生涯を閉じた少年、早すぎるその死を悼む人々の思いは土器の文様や開口部の向けられた方角に、しっかりと現われているような気がします。
遺体の上、下から見つかった土器は、まさに少年にもっとも近い場所に置かれていたものでした。当時の人々が死後の生を信じていたならば、少年が一人で困らないようにと、土器の中に何かたくさん詰められていたのかもしれません。数千年の時を経てその中身は跡形もないけれど……。そして壁際や覆われた土から見つかった土器、それは少年の埋葬されたお墓と外界とをまさに隔てる部分に置かれたもの。少年の眠る空間が安らかな場所であるように、邪悪なものから少年を守る役割を託して置かれたのかもしれませんね。

 
<参考ウェブサイト・参考/引用文献・資料>
※1 南茅部町教育委員会(1998)『大船C遺跡 : 発掘調査報告書 平成8年度』南茅部町教育委員会, p.2
※2 阿部千春「大規模集落の出現―北海道南部の縄文集落一」野村崇・宇田川洋編(2001)『新北海道の古代 1 旧石器・縄文文化』北海道新聞社, P.98
※3 前掲書2, p.100
※4 前掲書2, p.98
※5 前掲書2, p.94
※6 前掲書2, p.103
※7 前掲書1, p.373
※8 奈良市教育委員会編(1990)「第8回平城京展―奈良市の最近の発掘調査成果ー」奈良市教育委員会発行, p.5
※9 函館市教育委員会 編(2010)『史跡大船遺跡保存整備事業報告書』函館市教育委員会, p.3
※10 前掲書2, p.102
※11 松村博文「南茅部町大船C遺跡出土の縄文時代人骨」前掲書1, p.346
 
<図>
図1 大船遺跡 竪穴住居跡H-45, 前掲書1, p.373
図2 土坑墓P-62 出土時概要, 前掲書1, p.300
図3 土器3, 前掲書1, p.302
図4 土器3の模様, 前掲書1, p.302
図5 土器6, 前掲書1, p.304
図6 土器6の模様, 前掲書1, p.304
図7 土器5, 前掲書1, p.303
図8 土器5の模様, 前掲書1, p.303
 
<引用写真>
写真1 大船遺跡概要模型(展示:函館市縄文文化交流センター)
写真2 大船遺跡 海を臨む
写真3 大船遺跡と噴火湾
写真4 クジラの椎骨(出土:大船遺跡, 展示:函館市縄文文化交流センター)
写真5 大船遺跡発掘中の様子
写真6 大船遺跡 新旧重なる竪穴住居跡
写真7 大船遺跡 竪穴住居(復元)
写真8 大船遺跡 竪穴住居跡
写真9 大船遺跡 竪穴住居跡
写真10 大船遺跡 竪穴住居骨組(復元)
写真11 大船遺跡 石組炉と小土坑
写真12 大船遺跡 石組炉と小土坑
写真13 大船遺跡 竪穴住居骨組(復元)
写真14 大船遺跡 小土坑と埋甕炉
写真15 大船遺跡 胞衣を埋めた穴(左) 胞衣が埋められていた住居跡(右), 阿部千春「南茅部町大船C遺跡のすがた」(1998)北海道新聞社編(1998)『北の縄文 南茅部と道南の遺跡』北海道新聞社, p.34
写真16 復元された盛土遺構
写真17 土坑墓P-62から出土した歯, 前掲書1, p.346
 
写真1~14, 16は現地にて2018/5当方撮影分
 
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2018/12/1 長原恵子