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歩き出そうとする土偶
(北海道函館市 著保内野遺跡)
 
品名:
土偶(国宝第42号)
 

2018/5 函館市縄文文化交流センターにて当方撮影
出土:
北海道函館市 著保内野遺跡
時代:
縄文時代後期後半
寸法・重量
高さ41.5cm,幅20.1cm,重さ1,745g
所有者:
北海道・函館市
展示会場:
2018/5 函館市縄文文化交流センター 常設展
 

2018年8月、東京国立博物館で開催された特別展「縄文―1万年の美の鼓動」を訪れた時、カックウと称される国宝の土偶(中空土偶)の周りは大勢の人、人、人でした。ほんの3カ月前、函館市縄文文化交流センターで見た時にはひっそりと静寂の中に佇んでいたというのに。黒山の人だかりの中で土偶はなんだかとても誇らしげでした。見事な造形美と大きさから多くの人の目を引き付けるけれども、この土偶、調べてみると、実に奥深いものを抱えた土偶だったのでした。

---*---*---*---

昭和50(1975)年8月、北海道渡島半島の南東部、南茅部町(現在の函館市)の海岸段丘上で土偶が発見されました。川汲漁港から南西に800mほど、こちら※1で紹介した北海道函館市の垣ノ島B遺跡から南東に6kmほど下った辺りでもあります。北海道教育委員会のウェブサイト「北の遺跡案内」の地図(著保内野遺跡)※2を見ると、この辺りはまるで海に寄り添うかのように、古の人々の痕跡が連なって見つかっていることがわかります。

土偶が発見されたのは、実にのどかないきさつでした。地元の女性が家庭菜園でジャガイモ掘りをしていた時、鍬先からカーンと音がして、偶然掘りあてたものが土偶だったのです。頭部や割れた胴体等を自宅に持ち帰ってみたものの、どうしようか、お寺に預けようかと思案した際に、当時中学生だった長女からこの人形のようなものは埴輪では?と指摘されたのでした。そこで、町の教育委員会へ運び込まれることになったのです。発見当初の土偶(写真1)を見ると、土偶の球体のお顔も自然な丸みできれいに残ったまま出土しています。何千年もの時を経て、実にすごいことですね。

出土した地点を中心に約13平米、南茅部町教育委員会(当時)により緊急発掘調査(※3)が行われました。その結果、この土偶は長軸170cm、短軸60cm、深さ25cmの楕円形の土坑墓から出土したものだと判明しました(後に2006年の再調査で、こちらの土坑墓はGP-1として分類されました)。この土偶の腹部側には固く締まった泥が付着し、背面には発見時の耕作の鍬の傷があり、その傷の角度等からも合わせみて、土偶は海岸方向に頭を向けてうつぶせの状態で埋納されていたものだと推定されました。土坑墓の覆土中から人骨の可能性が強いと考えられる微細骨も、若干発見されました。ここが貝塚だったのであれば、土壌が中和化されてもっと骨が残っていたかもしれませんね。土偶発見時に共に出土した2点の土器片のうち、1点は微細で詳細不明でしたが、もう1点は茶褐色で厚さ8mm、磨消縄文(すりけしじょうもん)が施されていたことがわかりました。そしてこれ以降、ここは著保内野遺跡として登録された(※4)のでした。

その後、この土偶は昭和54(1979)年に重要文化財として登録され、更に国宝指定される前年の平成18(2006)年、調査エリアが拡大された詳細な再調査が行われました(写真2)。その結果、著保内野遺跡から環状配石遺構と土坑墓群、伴出遺物も確認され、ここは縄文時代後期後半において集団墓域として利用された場である(※5)ことがわかったのです。

それでは土偶を見てみましょう。こちらは平成30(2018)年5月に函館市縄文文化交流センターを訪れた時の様子です(写真3, 4)。特別に設けられた真っ暗な専用展示スペースに、スポットライトを浴びた土偶1体が静かに立っていました。さすが北海道初の国宝です。ここは土偶の周囲をぐるっと回って見ることができるようになっています。

出土当時、6つのパーツに分かれていた土偶も今ではきれいに復元されています。高さ41.5cm,幅20.1cm,重さ1,745gもあり、立ち姿がとても凛々しい土偶です。

■頭部(写真5〜8) 
頭頂部に左右に2箇所、穴が開いていました。どちらも比較的きれいに丸く穴が開いています。そもそも中空の球体を壊した時、こんなにきれいに無造作に頭部を壊して穴を開けたとは考えにくいですね。シンメトリーなこの開き方、何か意味があるのでしょうか?

■顔面
掘りの深い顔立ちです。上下眼瞼、上下口唇は細い紐のような粘土を顔面に貼りつけて作ったのでしょうか?実に印象的です。鼻筋はすっと通り、横顔も実に美しく、下から見上げてみると、わざわざ両鼻腔まで表現されるほど凝ったつくりになっています。耳の下あたりから下顎にかけてびっしりと埋め尽くした丸い文様は、まるで髭の濃い男性が髭剃り後、少し時間が経った様子を表しているかのようです。あるいはこの文様は刺青を模したものでしょうか?口元は少し開き、どことなく微笑んでいるようにも見えます。私が写したこの写真では、なかなかわかりにくいのですが、研究者によると髭状の刺突孔や耳穴などの窪みに黒色漆が付着し、内股の一部に僅かに赤漆が確認され、製作時には黒色漆の上に赤漆が塗布されていたと考えられている(※6)そうです。死から再生を願う、といった意味に解釈される赤色ですが、高さが41.5cmもあるこの土偶全体が当時、赤い漆で覆われていたとしたら、随分派手で迫力がありますね。それだけ多くの人から再生の願いが託された、ということの現われかもしれません。人々の集団の中でリーダー的役割を果たしていた人が埋葬されていたのでしょうか?

■腕(写真9〜12)
緊急調査時も、再調査時も土坑墓(GP-1)から両腕は見つかっていません。頭頂部の2箇所の欠損のように、腕も左右同じように欠損しているのは、何か深い意味があるのでしょうか?それにしてもこの土偶、肩幅が広くて広背筋、上腕二頭筋が非常に鍛えられた人物を表しているかのようです。

■足(写真13, 14)
腰から両下腿にかけて、美しい文様が施されています。そして左右のすねのあたりで連結され、穴が開いています。こちらの穴は土偶内側の空洞部につながっているものですが、土偶焼成時、空気の膨張による破裂を防ぐための換気孔(※7)と考えられているそうです。足首から先の表現はいたってシンプルな作りですが、中空土偶で日本史の教科書でもなじみの深い青森県の亀ヶ岡石器時代遺跡から出土した遮光器土偶の足元も、同様に素朴な感じです。

著保内野遺跡出土の土偶に施された三叉状入組文や短刻のある粘土紐などの文様から、土偶が作られた時代は縄文時代後期後半(※8)と考えられています。

出土当時、埴輪は写真1のように分割して見つかりましたが、発見時の鍬によって6つに破壊されたわけではありません。当時の南茅部町教育委員会の発表によると、鍬による傷は土偶の背部に限られていた(※9)そうです。また、2006年の再調査時、排土はすべてふるいで選別されましたが、この土偶に接合する破片が新たに発見されることはありませんでした。つまり、現在欠損している頭頂部の一部や両腕は土坑墓の中に取り残されたままになっているのではなく、土偶が埋納された時点で既にここには存在していなかったということです。そのため、墓域からある程度離れた場所で破壊された蓋然性が高いと考えられる(※10)そうです。

土偶は市立函館病院でCTスキャンを受けた結果(写真12)、頭部は粘土塊から作られた手ごね法、胴体と脚は粘土紐を重ねた輪積み法であることがわかりました。更に頭部、胸部、腹部は壊れにくいよう内側から補強された痕跡が見つかりました。一方、左右の脚部や腰部との接合面は指が容易に届く範囲であるにもかかわらず、粘土の重ね痕がそのまま残って、補強が行われていないことがわかったのです。つまり壊れては困る場所と壊れても差し支えない場所が1つの土偶の中にあった、ということですね。こうした違いがあることについて阿部千春氏は「故意破壊を前提として製作していると考えても良いのではないだろうか」(※11)と述べられています。

もしも頭頂部や両腕が必要ないのであれば、初めからそれがない状態で土偶を作れば良いはずです。しかし美しい造形と共にわざわざ空気孔まで作って立派に作り上げられた中空土偶を壊して、なおかつ一部欠損させた状態で埋納させたその過程に大きな意味があったのかもしれません。想像を膨らませてみると、死者が邪悪なものから攻撃されないように、身代わりとしてあらかじめ壊して欠損させた土偶を用意して、一緒に埋納されたのか?あるいは病気によって不都合が生じた部位、命を奪うほどの大けがになってしまった部位と同じところを土偶で壊すことにより「これ以上、もう病気やけがで悩まされることはないように」という意味が込められたものなのか……?その真相は不明ですが、死者に対して何らかの丁寧な思いがあったからこそ、こうした手間と時間のかかる過程を経て、土偶の埋納が行われたのだろうと思います。

さて、この土偶、立位として展示されていますが、実は歩く様子を再現しているものと知り、とても驚きました。

「造形的に見ると,土偶はやや右上を向いて直立している。しかし,胸から垂下する正中線が腹部で左に傾いていることにすぐに気がつく。当初は,意図的にシンメトリーを避けたのか,あるいは製作上の誤差であろうと気に留めなかったが,デジタル写真による実測図(図3)をPCの画面上で重ね合わせたところ意外なことがわかった。腰が右方向に少し捻られ,右足が前に出て,反対に右の肩が後ろに引かれているのである。これは偶然ではなく,人聞が歩く際の動作や反応の身体的特徴と見事に合致している。人聞が右足を踏み出した場合,その動作に伴って腰は身体の軸に対して左回りに,肩は右回りに捻られ,顔も自然と右を向く。土偶の踏み出しは僅か15mmであるが,土偶の作り手は冷静な人間観察に基づいてこの土偶を造形している。」

引用文献:
阿部千春(2010)「著保内野遺跡出土の土偶とその周辺」『考古学ジャーナル』 2010年12月号,608, 北隆館, p27

論文内に示されていたデジタル写真による実測図(図3)として紹介されていたのは上の図1です。歩き出そうとしているところを表現された土偶、それは一体どこに向かって歩くのでしょう?パッと見た感じでは直立した「静」のイメージではあるけれど、実は歩き出す、すなわち「動」それも「始まり」の意味が投影された土偶が死者と共に埋納されていた、その事実に古代人の光るセンスがあるなあと思います。死後の世界へ向かって歩き進むということ? 現世へ再び生き返ってくるということ?あるいはまったく別の意味があるもの?考え出すと尽きないけれども、ほんの少し右上を向いた土偶の表情は、どこかほのぼの明るい雰囲気が漂っています。死に至った病気や大けがをリセットし、死後、のびのびと自由に過ごすことができるように願われたのではないかな……そんな風に想像します。

 
<参考ウェブサイト・参考/引用文献・資料>
※1 Lana-Peaceエッセイ
垣ノ島B遺跡 9,000年前の墓から出土した漆製品
※2 北海道教育委員会ウェブサイト 北の遺跡案内「著保内野遺跡地図」
※3 南茅部町教育委員会(1976)「北海道著保内野出土の中空土偶」『考古学雑誌』61(4), pp.286〜291,図巻頭2p
※4 阿部千春(2010)「著保内野遺跡出土の土偶とその周辺」『考古学ジャーナル』 2010年12月号,608, 北隆館, p.25
※5 函館市教育委員会編(2007)『著保内野遺跡 平成18年度国庫補助事業による市内遺跡発掘調査事業報告書』函館市教育委員会, p.15
※6 前掲書4, p.25
※7 野村崇(1998)「南茅部と津軽海峡の遺跡」北海道新聞社編『北の縄文 南茅部と道南の遺跡』北海道新聞社, pp.45-46
※8 前掲書4, p.25
※9 前掲書3, p.287
※10 前掲書4, p.26
※11 前掲書4, p.26
 
<図>
図1 阿部千春(2010)「著保内野遺跡出土の土偶とその周辺」『考古学ジャーナル』 2010年12月号,608, 北隆館, p27「著保内野遺跡出土土偶」
 
<写真>
写真1 発見当初の土偶, 譽田亜紀子(2017)「10 ジャガイモ畑からこんにちは ―中空土偶, 茅空」『土偶のリアル 発見・発掘から蒐集・国宝誕生まで』山川出版社, p.106より引用
写真2 著保内野遺跡 再調査時全景(2006年)
展示パネル撮影分に当方解説書き込み実施
写真3 土偶 展示室入口
写真4 土偶 展示
写真5 土偶 顔面・頸部
写真6 土偶 上半身
写真7 土偶 頭頸部 右側
写真8 土偶 頭頸部 左側
写真9 土偶 右肩部
写真10 土偶 左肩部
写真11 土偶 下半身正面
写真12 土偶 下半身左側
写真13 透過画像と内部3D画像
  写真2, 13
2018/5 函館市縄文文化交流センターにて展示パネル当方撮影
写真3〜12
2018/5 函館市縄文文化交流センターにて室内, 展示品当方撮影
 
<参考文献>
阿部千春(2015)マルチ・ジェンダーな遺物を生んだ縄文人の思考 : 著保内野遺跡の土偶と八木B遺跡の土器 (特集 縄文の至宝)『東北学』東北芸術工科大学東北文化研究センター,2015 05 pp.106-123
譽田亜紀子(2017)『土偶のリアル 発見・発掘から蒐集・国宝誕生まで』山川出版社, pp.104-114
 
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2019/5/17(初出), 2019/5/27(一部修正)  長原恵子