病児・家族支援研究室 Lana-Peace(ラナ・ピース)
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伏甕・埋設土器
(盛岡県内の遺跡から出土・盛岡市遺跡の学び館蔵)

縄文時代、人々は夭逝したこどもたちの命を、自分たちの暮らす場所の近くに葬っていたそうです。それは「伏甕(ふせがめ)」とか「埋設土器」として今に伝わっています。2014年5月、盛岡市遺跡学びの館を訪れた時、初めてその違いを知りました。職員のお話によると、土器の甕の口側を下にして、いわゆる甕を伏せた格好でそのまま出土するものは「伏甕(ふせがめ)」と呼ばれ、古代の住居跡の内側(当時の屋内・床面の下)から見つかるのだそうです。一方、口側を上にした状態で出土し、その土器全体の形がきれいなまま見つかるものは「埋設土器」と呼ばれるのだそうです。これらは住居跡の外側(当時の屋外)で見つかるのだそうです。

本来、貯蔵や調理など生活の場面で使われていた土器が壊れ、用済みとして捨てられたものであれば、土器はかけらとして、ばらばらな状態で出土します。しかしその土器が何か意味を持って、きちんと埋められた場合には、堆積した土の下で何千年もの時を経たにもかかわらず、きれいな全体の形を保って、土器が出土するんですって。すごいことですね…。

さて、今から5500〜4500年前(縄文時代前〜中期)、盛岡市大館町・大新町の雫石川北岸の台地に人々が暮らしていました。それは現在「大館町遺跡」として、知られています。解説板によると、南北220m、東西130mの範囲に竪穴住居跡が環状に密集し、それらは何度も建て替えられ、重なり合った状態で発見されたそうです。
そして中央の広場からは、立石のある土坑墓なども見つかったとのこと。

亡くなった人を中心として、その周りに人々が暮らすこと、それはいつまでも一緒にいたい思う気持ちが、あったからでしょうか。
あるいは亡くなった方に特別の力が宿ると考え、その力に守られながら、そばで暮らしていたのか…。そうだとしたら、こちらで紹介した山形の端山(はやま)信仰に通じるところがあるような…。

さて、その大館町遺跡では住居跡の内側から「伏甕」が見つかっています。その発掘現場の一部を、原寸大で復元されたものが、盛岡市遺跡学びの館にありました。

 
ここは屋外のように見えますが、住居が復元されていないだけで、本当は住居の内側に相当する場所です。伏甕が埋まっていました。
こちらは住居が復元されているものです。煮炊きする炉のそば、人々が座るそばに、深鉢形土器が埋められていたことがわかります。
土器の底(埋めた時には上側)には穴が開けられ、石や木の板で蓋をしたものもあるそうです。

職員のお話によると、伏甕の中から人骨が一緒に見つかったわけではないそうです。しかし民俗学的な流れから、乳幼児期に亡くなったお子さんを埋葬したり、胎盤を埋納するために使われたものだと考えられているとのこと。

さて、時代は約4500〜4000年前(縄文時代中期)、大館町遺跡よりは少しだけ現代に近づきますが、盛岡市の真ん中あたり、中津川と米内(よない)川の合流点を望む段丘上に、人々の暮らした跡が見つかっています。柿の木平遺跡です。
こちらからはなんと280棟以上もの竪穴住居跡が見つかったそうです。もし昔から地形が大きく変わらず、川の流れもそのままだったのだとしたら、そこはとても暮らしやすい環境だったのでしょうね。
こちら竪穴住居の中心線の炉の手前に、伏甕が埋められていました。柿の木平遺跡では岩手県内で最も多くの伏甕が見つかっているそうです。

名称: 伏甕(ふせがめ)
  盛岡市指定有形文化財
出土: 柿の木平遺跡(岩手県)
制作年: 縄文時代
所蔵: 盛岡市遺跡の学び館
 
縄を押し当てて作った文様や、細い紐のようにした土を曲線状に張り付けたような文様で飾られています。これだけ高さのある甕をきれいに焼き上げる技術も、すごいですね。

幼い命のために焼成された甕だとしたら、朴訥だけど丁寧で美しいその作りに、親心が込められているかのようです。

そこから1000年ほど時が現代に近づいて、今から約3000年前から2300年前(縄文時代後期から晩期)になると、盛岡市の西側、赤林山山麓東側斜面のあたりに住んでいた人々は、伏甕ではなく、埋設土器を使用するようになりました。湯壺(ゆつぼ)遺跡と知られるその場所からは、重なり合った竪穴住居跡が26棟も見つかり、その住居エリアからやや離れたところに、埋設土器が多く見つかったそうです。

この埋設土器も、乳幼児の頃に亡くなったこどもたちのお墓、または死産となってしまった赤ちゃんのお墓と考えられています。
湯壺遺跡では沢上の地形に沿って2、3個の小グループにわかれ、埋設土器が分布していたそうです。
こうした埋設土器は、岩手県内では大船渡市の上鷹生(かみたこう)遺跡でも、多く見つかっているのだとか。

※注:こちらは館内説明板の写真(発掘現場と発掘された埋設土器)を撮影
 

家の中に葬られたこどもたちと、家の近くに葬られたこどもたち。何千年もの時を経て発掘された甕や土器は、切なる親心を語っているかのようでした。

2017/6/14  長原恵子