病児・家族支援研究室 Lana-Peace(ラナ・ピース)
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海老ヶ作貝塚 埋甕
(飛ノ台史跡公園博物館 蔵)
 
 
埋甕
海老ヶ作貝塚
(撮影許可あり)
場所・時代:
海老ヶ作貝塚, 千葉県船橋市, 縄文時代中期
所蔵先:
飛ノ台史跡公園博物館(千葉)
出展先・年:
飛ノ台史跡公園博物館(千葉)常設展示, 2017
 

千葉県船橋市の海老ヶ作(えびがさく)貝塚は今から約4000年前、縄文中期の頃に営まれていた貝塚と言われています。海老ヶ作貝塚は台地の上にあり、自然の恵みをふんだんに受けていたところのようです。貝塚からはイノシシ、シカ、ノウサギといった動物やクロダイ、マイワシ、スズキ、ハゼ等の魚やハマグリ、カキ、アサリといった貝などが出土しました。また犬の埋葬骨が発見され、番犬、狩猟犬として犬を飼う暮らしをしていたことが考えられています(※1)。展示パネルには貝塚の厚みは2mほどあったことが記されていました。長くここで人々が生活していたことが、うかがえます。

その海老ヶ作貝塚から「埋甕」が出土し、出土品と発掘当時の写真が船橋市の飛ノ台史跡公園博物館に展示されていました。こちらの埋甕は当時亡くなったこどもを埋葬するために使われた物と考えられているそうです。

海老ヶ作貝塚
※出土写真:飛ノ台史跡公園博物館展示パネルより

飛ノ台史跡公園博物館のパネル解説によると、右図のように土器は使われていたそうです(右図)。

パネルには骨の写真までは出ていなかったのですが、千葉県教育振興財団 研究紀要 第2号の中には、海老ヶ作貝塚の小竪穴から土器が出土し、その中からこどもの骨が出土したことが記されていました(※2)

海老ヶ作貝塚
海老ヶ作貝塚
海老ヶ作貝塚

土器の底面積は小さく、口の部分はかなり広く開いています。展示品のそばに寸法は表示されていなかったけれど、高さは30pはありそうです。どう考えても、甕が自立安定するわけではないので、なぜわざわざ作ったのだろうか、と不思議に思います…が、それは現代の発想。

海老ヶ作貝塚

底のとがった尖底(せんてい)土器は随分前からあり、同じ千葉県船橋市の飛ノ台貝塚では7千年前、縄文早期からあった(※3)そうです。
尖底土器は加熱調理のために使われていたと考えられています。穴を掘り、そこで焚火を行い、上から土器をのせるわけですが、尖底土器は熱の伝わり方が効率的で、早く煮炊きできる利点があると考えられています。

でも、この埋甕に尖底土器を用いたのは、きっと特別な意味があったはず…と私は思うのです。先が細くなった形状であれば、小さなこどもの足から先に入れて、土器の内側の壁に背中と頭をもたれかかれるような姿勢で土器の中に納めれば、埋葬の過程の最後まで別れを惜しみながらも、ずっとこどものお顔を見つめることができます(上記の展示パネルの解説イラストは底の部分が随分広く描かれているので、本来とは少し違うように思いますが…)。そしてこどもの胸の上にお花や食べ物など、あれもこれも一緒に入れることができます。お別れの品々を甕の中にただ詰め込むのではなくて、こどもがしっかり胸の前で両手にいっぱい、贈り物を抱えたまま眠れるように…。

こちらの土器は海老ヶ作貝塚出土の埋甕の一つとして、展示紹介されていたものですが、シンプルな造形ながら、とても美しい土器です。上から見ると、その口縁はなめらかな曲線が上下して、一部鉤のような部分もあります。何かその文様は、邪悪なものが壺の中に入ってこないように、甕の入口で食い止めている…そんな意味を持っているかのようです。

海老ヶ作貝塚
海老ヶ作貝塚
海老ヶ作貝塚
海老ヶ作貝塚

土器の外側側面は、びっしりと細かい縄目の模様で覆われています。土器の上で縄をころころと押し当てる時、その一列、一列に親の涙がこもっているかのようです。形を作った後、焼成前の土器の形が崩れないよう、慎重に縄に力を加えながら…。

海老ヶ作貝塚

どちらの土器にも、周りを火で焚いたような跡は見当たりません。調理用の尖底土器の使い回しなどではないのです。
縄文時代の親にとって、亡くなったこどもとのお別れの時に土器をつくることが、親として今世でできる最後の贈り物だったのかもしれません。こんなにしっかり作り込まれた土器。形を作り、模様をつけ、土器を焼成する過程は親にとってのお別れの儀式だったのかもしれないと思います。そのような考えを示している本や論文などは読んだことがないので、あくまでも私の想像の域を過ぎないけれども…。

同じ千葉県の中で、こどもの骨が入った状態で見つかった土器も見つかっています。こちら縄文時代中期の貝塚で、千葉市の蕨立(わらびだち)貝塚からの出土です。それは昭和40(1965)年、宅地造成工事前に行われた調査でのことでした。口側を下にした状態で見つかった土器は底の部分が欠けていましたが、加曽利EI式深鉢形土器と分類されました。その土器の中に幼児の骨が入っていたのです(※4)。土壌が酸性であると、埋葬された人骨はしっかり形が残って出土することは難しいと言われています。特にこどもの骨は大人よりも脆いため、より困難なはずですが、それでも出土したということは、土器の周辺の土壌は貝塚の貝殻によって中和されていたのかもしれません。あるいは土器の中に何かこどもと一緒に納められたもの(副葬品)があり、それがアルカリ性だったのでしょうか…?副葬品の姿かたちはすっかり消失したけれども、こどもの骨を残す力は継続したままだったのでしょうか?「これから死後の世界で、ずっと元気で過ごせますように…」といった願いが骨と共に納められたのであれば、願われた永遠性は聞き届けられたとも言えますね。何千年も時を経て、こどもの骨が見つかるのですから…。

縄文時代の親心は平成の世になっても、しみじみ伝わってくるものです。

引用史料:
※1 船橋市公式HP 船橋市 大穴地区の歴史
※2 清藤一順(1977)「縄文時代集落の成立と展開-国分谷周辺区域における前期、中期を中心として」千葉県教育振興財団 研究紀要, 第2号, p.31
※3 飛ノ台史跡公園博物館(2013)『平成25年度企画展 縄文土器のふしぎ』パンフレット, p.2
※4 前掲書2, p.29
 
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2017/11/23  長原恵子