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玉露童女追悼集
(東京都台東区指定有形文化財)
 

これまで鳥取西館新田藩 第五代藩主池田定常(松平冠山)公の十六女・露姫について取り上げてきました。今日は第9回目です。露姫が疱瘡(ほうそう:現在の病名は天然痘)で亡くなったのは201年前の今日、文政5(1822)年11月27日のことでした。お酒が大好きな父親の健康を気遣ったり、この世を一人早く去ってしまうことへの無念、そして大切な人たちへの思慕を綴った言葉の数々は多くの人々に知られ、人々の心を大きく震わせることとなりました。そして露姫の死を惜しむ思いを詩歌や絵等、様々な形で表した人々は、それぞれの作品を露姫の父冠山公の元へ続々と送り始めたのです。おおよそ1,600にも上るそれらすべての作品は、冠山公によって30巻の巻子にまとめられ『玉露童女追悼集』として浅草寺に奉納され、現代に伝わっています。その経緯、詳細はこちら(※1)に書きましたが、今日はその中の作品の一部をご紹介したいと思います。「無量寿」の書(阿部正精)、白鷺図と和歌(酒井抱一)、そして十代のこどもたちが寄せた和歌と絵です。作品詳細については東京・浅草寺が本堂再建30周年を記念し、巻子に収められていた各作品の写真と共に翻刻・解説を付与して刊行が開始された書籍版『玉露童女追悼集』を典拠としています。

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■「無量寿」の書(阿部正精)
第1巻の第1作目に登場するのは、第五代福山藩藩主の阿部正精(まさきよ)による「無量寿」の書です。一文字ずつ右から順に横書きで「無」「量」「寿」と大きく見事な筆圧で書かれています。「無量寿(むりょうじゅ)」とはサンスクリット語で「Amitāyus」、はかりしれない寿命のことで、寿命が無量である阿弥陀仏は無量寿仏とも呼ばれています(※2)。阿部正精は父冠山公と親しく交流があり、老中として幕閣を務めていたのみならず、学問にも見識が高い方でした。露姫の誕生する10年以上も前の話ですが、文化元(1804)年、第八代薩摩藩藩主の島津重豪(しげひで)が江戸・高輪の藩邸庭園に9名の学識豊かな藩主と1名の儒学者が詠んだ詩を刻んだ「亀岡十勝詩碑」を建立した際、冠山公は「源常」の名で「西林神祠」を、阿部正精は「北渓霜葉」と題する七言律詩を寄せています(※3)。阿部正精が亡き露姫の死を悼み、偲ぶための書の題材として選んだ「無量寿」、それは露姫の命は重い・軽い、長い・短い、そうした世間の価値観ではとても語れないほど尊いものである、あるいはその命は終わりのない永遠性を持つものだ、という意味が込められたのではないかと感じます。

■白鷺図と和歌(酒井抱一)
東京都台東区の文化財紹介のウェブサイト(※4)に巻子の『玉露童女追悼集』が登場し、酒井抱一(ほういつ)の白鷺図が紹介されていますので、ここでも取り上げたいと思います。酒井抱一と言えば皆さん、重要文化財指定の「夏秋草図屏風」(※5)を思い出すのではないでしょうか。あの寂寥感をもう少し落ち着かせた趣きで『玉露童女追悼集』の第8巻、13番目に「白鷺図」が登場します。一羽の白鷺が少し首をすくめて片足立ちした様子が描かれています。白と黒の濃淡だけで描かれた白鷺の周りは陰のように墨で淡く彩られ、草花や虫、魚等の生物が登場しないせいもあり、落款の朱色が画面を引き締め、凛とした白鷺の気高さが滲み出ています。

抱一が白鷺を描いた作品は後世にいくつか伝わっており、対ではなくこの白鷺図のように一羽単独の姿を描いたものがあります。それは東京・三の丸尚蔵館所蔵「花鳥十二ヶ月図」の「芦に白鷺図」です。芦の生える水面に左足片足で立ち、右上方を見上げて視線を向けている様子の白鷺です。こちらは文政6(1823)年の作ですから露姫が亡くなった翌年の作品となります。『玉露童女追悼集』収載の白鷺図も文政6・7年の作と考えられますから、三の丸尚蔵館の絵と冠山公に贈られた白鷺図とを見比べてみると、後者の白鷺の方がよりリアルな命を宿しているように見受けられます。冠山公宛ての白鷺図は白鷺の瞳から音もなく落涙しそうで、随分寂しげな面持ちです。何とも言葉で言い尽くし難いほどの悲しみが滲むようです。左膝を軽く曲げ、右足1本のみで立ち、頭部は斜め右方へと傾けています。まるで過去を振り返り、そこに思いが囚われてしまい、新しい一歩を踏み出そうとすることができない、そんな様子も感じとれます。

白鷺図の向かって右側に登場する和歌には「等覚院」の名札が付されています。松下高徐による『摘古採要』に収められた「等覚院殿御一代」によると寛政9(1797)年10月18日条として「築地本願寺ニ於テ夜酉ノ尅御得度有之等覚院殿ト奉称」(※6)と記されているように、抱一は「等覚院」と称するようになっていました。

白鷺図の向かって右側には和歌が添えられていました。こちらあまりに達筆な草書で解読が難しいので、浅草寺による翻刻を参照してみます。

鷺一羽 立てさみしき 水の跡

抱一(※7)

ここには露姫がどんなに素晴らしい人物であったかと讃え惜しむ言葉はなく、技巧を凝らした句も登場しません。白鷺図の様子をひたすらシンプルに言語化したその言葉の余白に、露姫或いは遺された家人らにかける思いがたくさん詰まっているように思います。

さて露姫の死を悼み、様々な思いを寄せた人々は父冠山公と縁の深い政治家、役人、学者、歌人、俳人、絵師等の他にも、十代のこどもたちの作品も含まれていましたので、ここで紹介したいと思います。

■朝顔の和歌(六郷繁次郎(六郷政恒))

朝顔や あわくとも
        世にうつくしき


十三歳 六郷政恒 合掌(※8)

この和歌は『玉露童女追悼集』の第4巻に登場します。六郷政恒(ろくごう まさつね)は出羽国本荘藩の第九代藩主です。文化8(1811)年の生まれですから、露姫の6つ年上にあたります。なぜわざわざ政恒は「十三歳」と書いたのか。そして六郷政恒と明記されているにもかかわらず、なぜ名札は政恒の幼名である「六郷繁次郎」を掲げているのか。この謎を追っていろいろ政恒について調べてみると、居住地の特徴から生前露姫は政恒と何らかの交流があったのではないかと思うようになりました。「今戸箕輪浅草絵図」によると浅草寺の敷地北端のすぐそばに「六郷筑前守」の表記があり、こちら本荘藩上屋敷となります(※9)。「今戸箕輪浅草絵図」の発行年間は嘉永2-文久2(1849-1862)(※10)であること、そして「筑前守」として叙任された六郷姓は第十代藩主六郷政殷(ろくごう まさただ)であることから、この絵図は六郷政恒が歌を詠んだ頃よりも20数年以上時代が下った時代の絵図と考えられます。政恒の時代もここに本荘藩の上屋敷が居を構えていたはずですが、政恒は第八代藩主政純の実子ではありません。文政5(1822)年8月政純死去後、翌月末期養子となり、同年12月14日に遺領を相続しています(※11)。ということは政恒は浅草寺裏の上屋敷に住んでいなかったのか?と疑問になりますが、恐らく上屋敷に住んでいたはずだと思われます。なぜなら第七代藩主政速の嫡子であった実父六郷政芳は文化7(1810)年病気のため退身後「父佐渡守在所に住居」(※12)とあるからです。政恒は病身の父と共に祖父の在所、上屋敷に住んでいたのではと考えられます。 

浅草寺と非常に近い場所に住んでいたことで、露姫が浅草寺参詣の折、政恒は出会い、交流する機会もいくらかあったのだろうと想像します。露姫の死に伴い、父冠山公の関係で多くの藩主が弔意を寄せたはずで、中には仕事上の礼節の一つとしての行いだった者もいたかもしれません。しかし自分はそうした他の藩主たちとは違うのだ、生前の露姫のことをよく知っており心から哀悼の意を伝えたいのだ、そうした思いは最後に「合掌」と締めくくっていることからも伝わってきます。そして多く寄せられる挽歌の中で埋もれることのないようあえて「十三歳」と書き、自分の存在を強く表現したい……そう思ったのではないでしょうか。露姫周辺も「あの繁次郎くんが和歌を贈ってくれたのだ」と認識し、六郷繁次郎の名札を貼付したのだと思います。

政恒は「朝顔」を歌に詠みました。朝顔はかつて薬草として扱われていましたが、江戸時代には観賞用として人気を博すようになり、特に文化・文政期は朝顔が大変注目を浴びた頃でした。文化13(1816)年には浅草で朝顔の品評会が開催され、同年刊行された『あさかほ叢』という色刷り図録は現在、国立公文書館デジタルアーカイブで見ることができます(※13)。当時は700種以上もの朝顔が栽培され、そのうちの500種、100枚の絵が色刷り図録として収録されました。こちらには「変化朝顔(へんかあさがお)」と分類される、一見朝顔とは思えないような随分細長い花びらの朝顔も登場します。愛好家がこぞって珍しい美しい品種を求めていたのでしょう。朝顔は当時の人々にとって人気者、憧れの象徴であったとも言えます。その朝顔を政恒は露姫の追悼の題材として選んだわけです。

図録を見ると色のはっきりしたものが多くありますが、図録の紙自体の色と殆ど見分けがつかず、陰刻したかのような線でようやくそこに花びらがあるとわかるような、僅かな淡色の花びらの朝顔もありました。「朝顔や あわくとも 世にうつくしき」それは奇をてらった花びらの形や強く人目を引くことのない色であっても、実に品のある、美しい朝顔もある、その咲き姿を露姫の命になぞらえて表現したのではないでしょうか。

そしてもう一つ。「あわい」とは漢字であれば「間」と書くことができ、「二つの物にはさまれた所」「物と物との切れ目」「ひとつづきの時間」「前後の切れ目のすいた時間」といった解釈があります(※14)。異なるものの狭間を表現していることがわかります。露姫はまだ死から日が浅く、生と死の世界の狭間に今いるだろうけれども、この世での人生は実に美しいものであった。そう言いたかったのかもしれません。
追悼集の中に収められている和歌は細長い短冊に書かれたものが多くみられましたが、政恒の場合はそれらとは形を異にするものでした。縦横同等の正方形の紙の右半分に和歌が、そして左半分に小さく署名類が行われ、中央には「右」と書かれただけで白い空間が大きく取られています。紙の中での文字の配し方もまさに「間」を示しているかのようです。数え年13歳であれば現代風には小学校6年生、中学校1年生あたりです。政恒も非常に感性が澄んだ聡明な人物であったことが伺えます。

■女児の花鳥画(恵比子・重子)

こちらは『玉露童女追悼集』の第5巻の6、7番目に登場します。浅草寺発刊の書籍版では小さいモノクロ写真として掲載されているため、実際の雰囲気が伝わりきらないところが残念ですが、閲覧できるだけでもありがたいというところです。

●「蜻蛉に沢潟図」(花渓女(恵比子))
5枚の大小の葉と小さな2輪の花、そして一対のトンボが飛ぶ様子が描かれています。追悼集の書籍版解説によると、こちらは「蜻蛉に沢潟図」ということです(※15)
トンボは空中を飛び、他の昆虫を捕食する様子が勇敢だと捉えられ、また第21代雄略天皇の腕を刺した虻(あぶ)を、突然表れたトンボが捕まえて食べ、天皇から褒められたというエピソードが『日本書紀』に登場することから、武将はトンボを勝軍虫(かちいくさむし)と称して、箙(えびら:矢を入れる武具)の飾りにするようになったそうです。また沢潟(おもがた)は葉の形状が鏃(やじり)に似ているため「勝戦草(かちいくさぐさ)」と呼ばれていたそうです(※16)どちらも武家に好まれる図章を選んで描いたのだと言えます。あるいはどちらも「勝つ」意味を持つ生物であることから、露姫は疱瘡で命を落としたけれども、決して疱瘡との闘いに負けたわけではない、といったメッセージが込められていたのではないでしょうか。
こちらの絵には「十一才 花渓女」と記され、落款がありました。この絵に登場する素朴で可憐な小花は沢潟と言えますが、葉の形状は沢潟特有の鋭角の部分は見当たらず、優しい丸みの楕円形です。ただ、数え年十一歳の女児が描いたことを考えると、葉の形状云々の細かい部分はさておき、その一生懸命さは十分に伝わってくるものです。

●「華鬘草図」(玉渕女子(重子))
こちらは2本の長い茎にいくつもの華鬘草(けまんそう)の花が吊り下がるように咲いている様子が描かれています(※17)。華鬘草の咲く姿は仏様を讃えるために仏堂を飾る荘厳具(しょうごんぐ)の華鬘(けまん)に似ていることから、その名が付いたものです。単に美しい花を描いたのではなく、亡くなった露姫を仏様として敬う気持ちから華鬘草を題材に選んだのでしょう。2本の茎は彎曲しながらもしっかりと空中で形を保ち、地面に花を落とすことなく咲いています。それは疱瘡の発病初期、発熱しながらも父を心配させないように楽しく過ごすふりをして何とか頑張ろうとした露姫の姿を物語っているかのようです。「重子」の名札の華鬘草図には「十三歳 玉渕女子」と記されていました。年齢や署名・落款の位置や絵を配する構図も同じであるため、姉妹が一緒に描いたのかもしれません。

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人の死を悼む、その思いを故人や遺族に伝える時、文章にするとどこか上滑りして、心の奥底にある本来の気持ちをうまく伝えきれないことが多くあります。そのような場合は、自分が得意な方法で表現することも良いのだと思います。そこに一切言葉がなかったとしても、あるいは僅かな言葉しかなかったとしても、様々な思いが相手側に伝わり、そこで相手の心があたためられ、励まされ、長い文章以上の力を発揮するのだと思います。

2023/11/27 長原恵子

 

<引用文献・資料, 参考ウェブサイト>
※1 Lana-Peaceエッセイ「娘の死後, 娘を誇りに思って生きていく父の覚悟」長原恵子
※2 中村元ほか編(2002)『仏教事典』第二版, 岩波書店, p.995「無量寿仏」
※3 庄司吉満(2002)「島津重豪建立の「亀岡十勝詩碑」について」『黎明館調査研究報告』15, pp.19-26
https://www.pref.kagoshima.jp/ab23/reimeikan/siroyu/
documents/6757_20220514180001-1.pdf
※4 東京都台東区 有形文化財 歴史資料
玉露童女追悼集 附 木造玉露童女坐像 玉露童女書状
https://www.city.taito.lg.jp/gakushu/shogaigakushu/shakaikyoiku/
bunkazai/yuukeibunkazai/rekisisiryou/gyokurodounyo.html
※5 夏秋草図屏風, 酒井抱一筆, 江戸時代・19世紀
紙本銀地着色, 各縦167.0×横184.0, 2曲1双
重要文化財
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/538818
※6 相見香雨「抱一上人年譜稿」, 日本美術協会編(1927)『日本美術協会報告』第6輯,日本美術協会, p.30
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1088453
※7 玉露童女追悼集刊行会(1991)『玉露童女追悼集 2』金龍山浅草寺, p.48
※8 玉露童女追悼集刊行会(1988)『玉露童女追悼集 1』金龍山浅草寺, p.108
※9 今戸箕輪浅草絵図
番号21-224 屋敷地(紋)六郷筑前守(本荘 上屋敷)
人文学オープンデータ共同利用センター
http://codh.rois.ac.jp/edo-maps/owariya/21/1853/

21-224.html.ja
※10 景山致恭,戸松昌訓,井山能知編『江戸切絵図』今戸箕輪浅草絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1286208
※11 本荘市編(1982)『本荘市史』史料編 2,本荘市, p.105
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/957082
60コマ
※12 前掲書11, p.103
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/957082
59コマ
※13 四時庵形影 選(1816)『あさかほ叢』巻之上・巻之下
国立公文書館デジタルアーカイブ
https://www.digital.archives.go.jp/file/1222541.html
※14 金田一京助ほか編(1975)『新選国語辞典』新版, 小学館, p.38
※15 前掲書8, p.132
※16 沼田頼輔(1926)『日本紋章学』明治書院, pp.852-853
国会図書館デジタルコレクション, 475コマ
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879378/475
※17 前掲書8, p.132
 
 
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