病児・家族支援研究室 Lana-Peace(ラナ・ピース)
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幼女の言葉に宿った新たな命と心の漣

今から200年ほど前、江戸で5歳になったばかりの女児が疱瘡(ほうそう:現在の病名は天然痘)で亡くなりました。幼女の名は露姫、因幡国・鳥取西館(にしやかた)新田藩(※若桜(わかさ)藩とも称される)第五代藩主・池田定常公の十六女でした。露姫の死後、少し日を置いてから遺筆が次々と見つかりました。机の引き出し、タンス、おもちゃの箱、落書きと思われていた紙、寺社参詣用に準備していたお供えものを入れた紙袋の裏、紙入れ(はながみ等を入れる小物入れ)の中……色々な場所から和歌やメッセージとなる言葉が残されていたのでした。

時代は平成に入り、露姫の遺筆は新聞でもその存在が取り上げられることがありましたが、私が露姫の存在を初めて知ったのは令和になってからでした。当時十分調べるための時間がなく、手つかずのままでした。しかし昨年冬、他の様々な資料整理をした際、再び露姫の資料を手にすることになりました。そして中身を確認するうち、ハッと気づくことがありました。その日は11月26日、奇しくも露姫のちょうど200年目の命日の前日にあたっていたのです。現代社会で使われているグレゴリオ暦と当時の旧暦表示との違いはもちろんあります。しかしそうした違いは度外視し、日にちだけに着目した時、数ある資料の中からなぜこれを手にしたのか、そこに不思議な導きの力を感じずにはいられませんでした。

露姫の人生を詳しく調べていくうちに、父定常公が腹心の臣下に命じて露姫の一生を編ませた書物があると知りました。露姫の死の2年後に完成した『玉露童女行状 全』(※1)です。こちらはインターネット上、無料で国文学研究資料館 新日本古典籍総合データベースから見ることができます。こうしたデジタルコレクションは本当にありがたいことです。この中でどれほど露姫が素晴らしい息女であり、多くの人に愛され、その成長が大いに期待されていたかが克明に記されています。同時に娘を慈しみ、大事に育んできた父定常公の愛情も様々な形で表現されています。

定常公は露姫との死別の前、既に両手では収まりきらない数の我が子との死別を経験していました。しかし生きた軌跡をこれだけ詳細に記録として残しているのは定常公にとって露姫が最初で最後です。24番目の末っ子の死を文字に残すと決めたことは、何か格別な思いがあったのかもしれません。今回、定常公と露姫の話を知れば知るほど、この親子の話を是非、我が子に先立たれた現代の親に知ってもらいたいと思いました。どんなに幼いこどもといえども大人に負けないくらいいろいろと考え、様々な心の機微があること。露姫の遺した言葉はきっと同じように大切な人に伝えたかった、でも伝えられなかった、現代のこどもたちの思いと通じるものがあります。時を超え、きっと多くの方々も共感できる部分が多いかと思います。
また我が子を亡くした後、治療・救命過程の中で医療従事者でもない自分はいかに無力だったか……と自責の念が絶えない親もいることでしょう。しかし親には親の役割がある、我が子が治るための道筋を整えるよう尽力することも、親だからこそできるのであり、親がいかに心を砕いているのかこどもの側にも十分伝わっている。その大切な事実を定常公と露姫の姿から読み取ることができます。そこで今回『玉露童女行状 全』を起点とし、父子の心の交流、そして夭逝した露姫が残したメッセージ等について本編を含めて全10回に分けてお届けすることにいたしました。

なお、江戸時代の書物では人の年齢は数え年で表されていますが、幼年期の一年の差は成長過程の上で著しい違いをもたらします。露姫の言動は年齢相当の幼女らしい微笑ましいものもあれば、年齢を遥かに超えた成熟さが突出する部分もありました。その実態をリアルに理解するためにも本稿内で表記する人物の年齢はあえて満年齢で表記したいと思います。したがって定常公と露姫十六女について当時の数え年で表記されている出版物等と本稿とは、差異が生じていることをあらかじめご承知おきください。

それから定常公は『江戸名所図会』に寄せた序文の中で「天保三年閏月冠山松平定常撰」と自身を記しています(※資料1)。鳥取西館新田藩・初代藩主の池田清定公は幕府から松平姓を賜っており(※2)、定常公も大名や幕府役人名鑑である寛政10(1798)年の寛政武鑑では「松平縫殿頭定常」(※3)として登場します。露姫も遺筆の中で自分の名を松平と名乗っています。
またその他、定常公は冠山、天山等の号を用いていましたが、四十代半ばの折、重病治癒を仏恩のおかげと深謝し、仏道に帰依、剃髪を希望してからは「冠山」と称するようになりました(※4, 5)。本稿内ではこれ以後、松平冠山公と表記することにいたします。

それでは今日は第1回目、冠山公と露姫の人となりをお伝えし、そして露姫の遺筆がどのように世に知られ、広まることになったのか、ここから始めようと思います。特に父としての冠山公の行動を理解する上で、彼の少年時代や20代の若かりし頃のエピソードは大事だと考えるため、冠山公の幼少期から振り返ることにいたします。

---※---※---※---

■好学の士--松平冠山(池田定常)公
冠山公は明和4(1767)年10月3日、江戸で旗本池田政勝の次男として誕生しました。そして安永2(1773)年7月、若桜藩第四代藩主池田定得(さだのり)公の養子となり、もうすぐ満6歳の誕生日を迎えるという同年9月、家督を譲り受けました(※6)

冠山公は幼き時より探求心旺盛で利発な子で、若かりし頃には藩主や藩医、幕府侍医等13名の仲間と共に風月社というグループを作り、学問を深めていきました(※7, 8, 9)。ちょうど冠山公が20代前半、それは松平定信により学問奨励が改革の三本柱の一つとしてうたわれた「寛政の改革」の真っ只中でもありました。こうした時代の流れも好学の士として知られる冠山公にとっては追い風であったと言えます。漢詩や和歌詠みにも優れ、文化元(1804)年、薩摩藩第26代藩主の島津重豪(しげひで)公の江戸・高輪藩邸庭の景勝を賞した「亀岡十勝詩碑」にも「源常」の名で七言律詩「西林神祠」を寄せています(※10)

冠山公は地理学にも長けており、浅草寺やその周辺を家臣と共に綿密に実地調査し文政3(1820)年、地誌『浅草寺志』が完成しました。こちらは浅草寺に献納され、昭和になってから翻刻版も浅草寺から刊行されています(※11,12)。上・下巻として納められた18巻は翻刻版で約1,300ページ、膨大な解説文もさることながら、寸法や位置関係等も当時の単位でしっかり明記され、各種文献等も緻密に情報源として調べられ、豊富な図も含まれています。脱稿から7年もの月日をかけて校訂を重ねた渾身の著作は、今読んでも圧倒されます。

このように記すと冠山公は真面目一辺倒の学究肌のような印象を与えかねませんが、お酒を大変好み、つい飲み過ぎてしまうため、そんな時はどうか自分を諫めてほしいと周りに言っていたこともあった人物でした。

■大家族の陰にある死別---7歳までは神のうち
冠山公は正室をおかず複数名の側室との間に8人の男児と16人の女児がいました。24人の子宝に恵まれた、そう聞けばどれほど賑やかで幸せな大家族、繫栄した家門だろうかと思います。しかし『鳥取藩誌』別巻の「校正池田氏系譜」(※13・14)で確認すると、没年が明らかになっている子息・息女のうち、18名が冠山公に先立ち亡くなっていました。一番年長は23歳の長女で、最年少は出生当日に亡くなった七女でした。文化6(1809)年2月は冠山公にとって特に試練の月となり、このひと月の間だけで3名の子(七男2月11日夭-2歳・十一女2月22日夭-生後2カ月・五男2月24日夭-7歳)が立て続けに亡くなりました。3月、7月、12月を除き毎月我が子のうち誰かの命日を迎えていたのでした。

このうち7歳以下で亡くなった者は15名いました。「7歳までは神のうち」と言う言葉があります。民俗学者の柳田國男氏は大正時代の調査として、7歳になるまで子は神と言っている地方があったことを記しています(※15)。予防・救命医療が十分発達していない時代、感染症、天災、飢饉等、人々の命を脅かす要因は今の社会以上に多くありました。そのような環境で「7歳までは神のうち」と表現されることは、当時7歳まで成長することがどれほど大変だったかを表わす言葉とも言えます。一方、穢れのない無垢な赤ちゃんの姿には神々しさがあります。夭逝とは人間界に赤ちゃんの姿でやってきた神様が「長居をすることなくこの世を後にする」そう自ら決めていた末の結果だ、と考えようとした親もいたかもしれません。「どうしてこんなに早く亡くなってしまったのか」その問いに対し、人智を超えた計らいに人間はどうすることもできないと考えることで、自らを納得させようとした者も少なくなかったことでしょう。

■全国へ広がる露姫の言葉
露姫は文政5(1822)年11月27日、疱瘡のため満5歳で逝去しましたが、まったく面識のなかった人々にも露姫の死が広く知られるようになりました。それは冠山公が露姫の死後見つかった遺筆4点を模刻させて印刷し、四十九日からそれほど経たない時期に親戚縁者や知友各地に送ったことがきっかけです(※16)

また娘の菩提を弔うため、遺筆と法号を全国六十余州の霊地や地元因幡国の寺にも収めました。これは平成13(2001)年、鳥取市の雲龍寺の住職が古文書の整理中、本堂内のたんすの引き出しから「御筆」と書かれた和紙の包みを見つけたことで明らかになっています。中には戒名を添えて木版印刷の遺筆4点と和紙3枚を繋ぎ合わされた覚書が入っていました。家臣によって書かれたと思われる覚書には、娘の早すぎる死を悼み悲しむ冠山公の様子や遺筆発見の経緯、そしてこれら遺筆の木版印刷を霊地や寺に送るよう冠山公から命があったことが記されていました(※17,18,19)。昭和61(1986)年、鳥取県に寄贈された旧鳥取県士族勝田村尾家資料の中には「冠山息女露姫遺歌四通寺へ納める覚」(※20)が含まれています。鳥取県立博物館の平成二年度調査報告書(※21)によると、露姫の姉、四女の奉姫に仕えた勝田家出身の中老村尾の勤功を立てるため、文政2(1819)年に甥にあたる富之丞が召し出され、姓を村尾と称して村尾家が創出されました。その後、村尾富之丞は御数寄屋坊主御徒格として勤めていますので、露姫の遺筆を各寺へ納める業務に関与し、その控えの文書などが残っていたのかもしれません。

■人々の心に伝え渡る
朴訥とした幼女の筆跡で綴られた和歌や言葉、それは生前、家族や自分に仕えていた者に向けていた露姫のあたたかい眼差しが、存分に感じられるものでした。相手を恋しく思ったり、気遣う気持ちや感謝の心が素直に表れた遺筆に、人々は大きく心が揺さぶられ、涙を禁じ得ませんでした。
前出の松平定信は「これら神童といふべき。冠山近き頃佛者となり給ひしが、それらのえにししてかゝるもの生れ來しやなど人々いふ。(略)冠山いかにかありけん。書くものも打ち泣きぬ」(※22)と自身の『花月日記』文政6年3月19日条に記し、幼女を称えると共に娘を亡くした父へ心を寄せる言葉を綴っています。

また遺筆の存在は送られた人々以外にも様々な形をとり、伝わっていきました。国学者の村田春門の日記の文政6年7月22日条には、訪れた先の大田蜀山人宅で幼女遺筆の存在を知り、感銘を受けてそれを写し書きして持ち帰った人物が歌を詠み、やがてはその歌が蜀山人経由で冠山公の所へ渡ることになったエピソードが登場します(※23)

■『視聴草』
中には自身の刊行する著作の中で露姫の遺筆模刻をそのまま取り入れて紹介する者も出てきました。宮崎成身(せいしん)です。彼は幕府で編纂事業に関わっていましたが、文政13(1830)年頃から個人的に30年以上かけて、様々な情報をまとめた記録集『視聴草(みききぐさ)』を執筆していました。その数なんと176冊にも上り、2集之7「幼女遺筆」の項で露姫の遺筆4点が紹介されています(※24)。編纂時期は不明ですが、初集之1から数えて17冊目ですから、文政13年から幾らか年月の立った頃だと考えられます。成身がいつ露姫の遺筆模刻を入手したのかは不明ですが、少なくとも露姫の死から7年以上経って収載されたことになります。成身は遺筆を紹介する前書きとして「老侯痛惜に堪えず。その遺筆を刻して親戚にわかたる。余これを見れば、覚えず涙襟を沾す。」(※25, 26)と書いています。冠山公がどれほど娘の死に深いダメージを受けただろうかと気遣い、露姫の遺筆に思わず自分も落涙し、襟元を濡らしてしまったと記しているのです。露姫の遺筆の中には何年経っても私のことをどうか忘れないでください、と侍女に思いを詠んだ歌がありました。去る者は日日に疎しという言葉がありますが、それに反して露姫の言葉はどれほど時を経ても、人々の心に色褪せることなくとどまっていたのでした。

■『応化菩薩辞世帖』と『山海里』
また遺筆の存在は仏教界にも大きな影響を及ぼしました。遺筆配布の翌年、露姫の遺筆をそのまま単独冊子にまとめた僧侶が出てきました。南勢州飯高郡(現在の三重県松阪市)の浄林寺の立寛比丘です。

露姫を菩薩様の化身だと感じた立寛は、露姫の和歌を通して多くの人々が日々の暮らしで心を正すことを望みました。そして遺筆4点に更に2点加え『応化菩薩辞世帖(おうげぼさつじせいちょう)』として刊行したのです。文政7(1824)年1月のことでした。東京国立博物館デジタルアーカイブで遺筆のうち1点を見ることができます(※27)が、他の5点を含めたものが昭和63(1988)年、東京・浅草の浅草寺本堂再建三十周年を記念して刊行された『玉露童女追悼集 1』に附録として収載されています(※28)

立寛比丘が遺筆4点の他2点をどのような経緯で入手されたのかはわかりませんが、宮崎成身の『視聴草』に含まれていない2点でもあり、大変貴重です。その内容は後程詳しく取り上げていこうと思います。

『応化菩薩辞世帖』は民衆のみならず、高名な学僧にも影響を及ぼしました。数々の著作を残している京都大行寺の勅許上人位権少僧都 正定閣信暁学頭の知る所となり、文政8(1825)年刊行した『山海里』の中で『応化菩薩辞世帖』の内容が取り上げられました。そして立寛同様、信暁も露姫を「実に応化身ならずしてなんぞや」(※29)と評しています。

■『玉露童女行状 全』
冠山公は露姫の生きた足跡を信頼する家臣 服部脩蔵に綴るよう命じました。脩蔵は露姫が元気だった時はもとより、疱瘡を病み死に至った時も、葬儀に深く関わり、冠山公の辛さをそばで支えていた人物です。
完成した『玉露童女行状 全』(※30)は露姫の肖像画と冠山公の序文で始まります。文章ができあがった際、冠山公は江戸・向島の弘福寺の鶴峯和尚に読んでいただきました。弘福寺は池田(松平)家の江戸の菩提寺であり、親交が深く、鶴峯和尚は露姫の葬儀で剃度の式にも携わった僧侶です。鶴峯和尚はこちらを印刷してはどうかと冠山公に提案されました。露姫の善行を是非広く世に知ってもらいたいと考えるが、人々がこれを写し書きすれば必ず誤りが出てくる、と懸念されたからです。冠山公は当初躊躇する気持ちはあったものの、娘の身体に仏様が宿っていたのであれば、世に広まることを差し留める必要はないではないか、と思い直し、印刷に至った経緯を序文に記しています。ここには「文政甲申季夏十九日不軽居士識」(※31)とあることから、文政7(1824)年の夏には原本になるものができあがっていたと考えられます。不軽居士とは冠山公の用いた号でもあります。
そこから版木を作り実際の印刷完成に至るには数カ月要したようで、親しかった儒者の松崎慊堂の日記『慊堂日歴』文政7年11月12日条には「玉露童女行状使者長谷川林蔵冠山侯所貽十一日事」(※32)とあり、11月11日に冠山公からの使者がこの『玉露童女行状』を持参したことがわかります。

『玉露童女行状 全』は二部構成をとっています。前半は漢文の「浄観院玉露如泡大童女君行状」で露姫の生涯の概要が記されています。後半「むとせの夢」は脩蔵が詳細なエピソードを盛り込んで起案した内容を、山崎美成(よししげ)が美しい仮名文字混じりの文で拝書したものとなります。露姫の人となりだけでなく、父冠山公の心の動きが伝わってくる素晴らしい名著です。「むとせ」とは「6歳」のことです。見つかった露姫の遺筆の中に「むとせのゆめのなごりおしさよ」と詠んだものがありますので、ここから命名したのでしょう。浅草寺の『玉露童女追悼集』第一巻の末尾には附録として『玉露童女行状 全』が収載されています(※33)。このうち「むとせの夢」は巻頭・巻末以外の原典の収載は割愛されていますが、全文の翻刻が登場します。くずし字の文章ではなかなか理解し難かった部分が、この翻刻により本当に随分助けられました。この翻刻版がなければ私は冠山公や露姫の心情を見落とす部分が多かっただろうと思います。翻刻に携わった玉露童女追悼集刊行会の皆様に感謝したいと思います。

コロナ禍での調査執筆ということもあり今回、特に古い文献・史料等はデジタルコレクションを多用しました。特に利用申請登録しなくても無料で誰でも閲覧できるものもありますが、国会図書館のデジタルコレクションの場合は少々事情が異なります。一般公開の中には事前に個人向けのデジタル化送信サービスの利用申請をした後で、無料で閲覧できるようになるものがあります。利用登録に関する詳細は国会図書館が案内している「個人向けデジタル化資料送信サービス」(※34)をご参照ください。

次回へ続く
 
<資料>
※資料1 松濤軒斎藤長秋 著 ほか(1834-1836)『江戸名所図会 7巻』[1], 須原屋茂兵衛ほか,
国会図書館デジタルコレクション, 6コマ
https://dl.ndl.go.jp/pid/2563380/1/6
   
<引用文献>
※1 服部 遜 謹撰(1824)『玉露童女行状 全』牛島弘福禅寺蔵板,
国文学研究資料館 新日本古典籍総合データベース
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200023937/
※2 成島司直 等編, 経済雑誌社 校(1904)『徳川実紀 第五編』経済雑誌社,「文昭院殿御実紀巻2」寛永6年4月11日条, p.24,
国会図書館デジタルコレクション, 20コマ
https://dl.ndl.go.jp/pid/1917878/1/20
※3 『新板改正 寛政武鑑 御大名集 巻之一』(1798)千鐘房須原屋茂兵衛, 「松平縫殿頭定常」, pp.62-63
国会図書館デジタルコレクション, 68-69コマ
https://dl.ndl.go.jp/pid/2546992/1/68
※4 冕嶠陳人(1832)『思ひ出草』続編巻3
国立公文書館デジタルアーカイブ
「冠山と号する事」11-12コマ
「天山の号の事」12-13コマ
https://www.digital.archives.go.jp/img/4124114
※5 池田定常著『思ひ出草』続編巻3
「冠山と号する事」p.285,
「天山の号の事」pp.285-286(翻刻版)
森銑三ほか編(1980)『随筆百花苑』第7巻, 中央公論社
※6 鳥取県 編『鳥府厳秘録』(1976)『鳥取県史』第7巻, 鳥取県, p.629「安永二年9月18日条」
国会図書館デジタルコレクション, 329コマhttps://dl.ndl.go.jp/pid/3025292/1/329
※7 池田定常著『思ひ出草』巻4
「風月社之事」pp.215-218 (翻刻版)
森銑三ほか編(1980)『随筆百花苑』第7巻, , 中央公論社
- 国立古文書デジタルアーカイブでは『思ひ出草』巻四欠
※8 小谷恵造(1994)「学問に打ち込み優れた著作を残した学者大名池田冠山」『人づくり風土記 31 ふるさとの人と知恵 鳥取』農山漁村文化協会, p.322
※9 石原 隆好(2002)「林述斎と風月社」日本近世文学会 編『近世文藝』75, pp.49-50
※10 吉満庄司(2002)「島津重豪建立の「亀岡十勝詩碑」について」『黎明館調査研究報告』 15, p.20, 23
※11 松平冠山編(1939)『浅草寺志 上巻』浅草寺出版部
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1256067
※12 松平冠山編(1942)『浅草寺志 下巻』浅草寺出版部
国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1238870
※13 鳥取県 編「校正池田氏系譜」(1972)『鳥取藩史 別巻』鳥取県立鳥取図書館, pp.308-313
国会図書館デジタルコレクション, 175-177コマ https://dl.ndl.go.jp/pid/9573526/1/175
※14 前掲書13の系譜の中では三女奉姫は池田将監政富の養女となって以降、没年は記されていませんが、鳥取県立博物館発行の『平成二年度資料調査報告書第十八集』内の旧鳥取県士族勝田村男家資料36として登場する「池田定常女於奉様履歴書」には括弧書きで(寛政5年8月誕生より文化8年9月逝去まで)と記されています。こちらの生年月は系譜の生年月と一致しているため、三女奉姫の没年は文化8年9月と考えて差し支えないと判断しました。
坂本敬司・福井淳人(1991)『平成二年度資料調査報告書第十八集』鳥取県立博物館, p.19
「旧鳥取県士族勝田村男家資料」資料番号36
「池田定常女於奉様履歴書」
https://www.pref.tottori.lg.jp/secure/1204524/8660.pdf
※15 柳田國男(1998)著『柳田國男全集 7』「小さき者の声 神に代りて来る(大正13年11月 教育問題研究)玉川学園出版部,1933」筑摩書房, p.120
※16 玉露童女追悼集刊行会(1988)『玉露童女追悼集 1』金龍山浅草寺, p.181
※17 「幼き死…露姫の供養願う覚書 鳥取・雲龍寺で初めて発見 父の思い伝える=鳥取」 読売新聞, 大阪朝刊, 2008/2/9
※18 「露姫:5歳の遺書、池田家菩提寺に4通 父へ母へ無常うたう−−鳥取・雲龍寺/鳥取」毎日新聞 地方版/鳥取, 2008/2/9
※19 「先立つ幼き姫、父思う書 つなぐ親子愛 鳥取で木版刷りの遺書【大阪】」朝日新聞大阪朝刊, 2008/6/1 
※20 前掲書14, p.19
「旧鳥取県士族勝田村男家資料」資料番号35
「冠山息女露姫遺歌四通寺へ納める覚」
https://www.pref.tottori.lg.jp/secure/1204524/8660.pdf
※21 前掲書14, p.26
「旧鳥取県士族勝田村男家資料」解題「勝田家について」
https://www.pref.tottori.lg.jp/secure/1204524/8660.pdf
※22 森銑三(1974)「松平冠山」『花月日記』文政6年3月19日条記載部分『森銑三著作集 第7巻 人物篇』, 中央公論社, p.401
※23 前掲書16, 附録2『玉露童女行状 全』解題, pp.165-174
※23 前掲書16, 解題『村田春門日記』文政6年7月22日条記載部分, pp.181-182
※24 宮崎成身『視聴草』2集之7「幼女遺筆」
国立公文書館デジタルアーカイブ, 34-37コマ
https://www.digital.archives.go.jp/img/4044262
※25 前掲書24, 「幼女遺筆」
国立公文書館デジタルアーカイブ, 34コマ
https://www.digital.archives.go.jp/img/4044262
※26 前掲書16, p.181
※27 池田露(江戸時代_19c)「応化菩薩辞世帖」
画像番号:C0062636, 列品番号: QB-12376,
形状:見開き30.1×20.1cm, 数量:1帖
東京国立博物館デジタルアーカイブ
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C006263
※28 前掲書16, 附録1『応化菩薩辞世帖』, pp.151-159
※29 信暁(1892)『山海里』初篇-3篇中, 弘業館,
文政8年 初篇上「応化菩薩辞世の事」pp.20-24
国立国会図書館デジタルコレクション, 26-28コマ
https://dl.ndl.go.jp/pid/820771/1/26
※30 前掲書1,
国文学研究資料館 新日本古典籍総合データベース
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200023937/
※31 前掲書1, 4コマ, 
国文学研究資料館 新日本古典籍総合データベース
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200023937/
※32 松崎慊堂 著, 濱野知三郎 編(1932)『慊堂日歴 上巻 再版』六合館, p.70, 文政7年11月12日条,
国会図書館デジタルコレクション, 46コマ
https://dl.ndl.go.jp/pid/1900965/1/46
※33 前掲書16, 附録2『玉露童女行状 全』「むとせの夢」, pp.165-174
※34 国立国会図書館「個人向けデジタル化資料送信サービス」
   
 

200年前、夭逝した幼女・露姫の言葉には命が宿り、何も言葉を残さず亡くなった現代社会のこどもたちの心の声を代弁していると思います。あなたの心の内にも、露姫の存在を留めてもらえると嬉しいです。

2023/3/15 長原恵子
2023/5/14 一部加筆修正
 
関連のあるページ(鳥取西館新田藩・松平冠山(池田定常)公と露姫
「幼女の言葉に宿った新たな命と心の漣」※本ページ
「我が子17名との死別後、新たな命を守る父の覚悟」
「思いの限りを尽くした最期のお別れ」
「伝えたかった感謝と思慕の念」
「蝶と桜と雨に思いを乗せて」
「時空を超えて娘の真心と繋がるために」
「111字の中に秘められた思い」
「娘の死後, 娘を誇りに思って生きていく父の覚悟」
「玉露童女追悼集」(東京都台東区指定有形文化財)
「切なる思いを括り猿に託してー 紙袋の裏の前書きと和歌 ー」