病児・家族支援研究室 Lana-Peace(ラナ・ピース)
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蝶と桜と雨に思いを乗せて

これまで鳥取西館新田藩 第五代藩主池田定常(松平冠山)公の十六女・露姫について取り上げてきましたが今日は5回目です。満5歳、数え年6歳になったばかりの露姫の死から42日目に起こった出来事を紹介したいと思います。こちらの情報の原典は前回と同様、定常公の命を受けた腹心の臣下 服部脩蔵によって編まれた露姫の生涯記「むとせの夢」(※1)となります。

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■死後42日目
文政6(1823)年1月8日は露姫が亡くなって42日目、六七日(むなのか)の忌日にあたっていました。露姫の姉たちは思い出話をしながら露姫の箪笥の中を開け、露姫ゆかりの品々を眺めていました。すると「あてなし」の上書きと共に左封じにされた一通の書状が出てきたのです。左封じとは書状の左を上にして封をする方法で、遺書を記す際等に用いられる封じ方です。幼い妹の箪笥からそのような書状が出てきて、姉たちの心はどんなにざわめき立ったことでしょう。

早速その書状が開かれました。「むとせの夢」ではその紙について「御はながミ」(※2)と記されています。「はながみ(鼻紙)」と聞くと私たちは柔らかなティッシュペーパーを想像してしまいますが、ティッシュペーパーが日本に登場したのは1900年代半ばを過ぎてからのこと。当時は全く異なるものが使われていました。露姫の生きた時代を境に約100年余り遡った頃に初版が出され、また露姫の死後60年ほど経て再版された寺島良安編纂の百科事典『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』(※3)を参照すると当時、延紙、小菊紙といった和紙が「鼻紙」と呼ばれていたことがわかります。懐紙(ふところがみ・かいし)とも呼ばれ、人々は薄型の長財布のような入れ物(紙入れ)に納め、着物の懐部分に差し込み持ち歩いていたのでした。そして鼻水や涙を拭うといった身だしなみを整える目的のみならず、メモ帳のように必要事項を墨で書きつけるために使用されることもありました。露姫も元藩主の娘として、幼いながらにもそうした心得があったのだと思われます。

姉たちが見つけたこの書状、実はその木版刷りあるいはそれを書写されたと考えられるものが、江戸時代後期の幕臣 宮崎成身編纂による『視聴草(みききくさ)』の2集之7(※4)に登場し、国立公文書館デジタルアーカイブで公開されています。『視聴草』の詳細についてはこちら(※5)で紹介していますので、過去のエッセイをお読みでない方はご参照ください(※注1)。下の写真(資料1)がその該当ページとなります。

紙の右端には「十いちかつ御きうそくてかく」とあり、左端は「六つ つゆ」で閉められています。この「御きうそく」とは露姫の住んでいた江戸の上鉄砲洲十間町の鳥取西館新田藩上屋敷、御休息の間(ま)のことであると考えられます。「むとせの夢」には当時第六代藩主であった兄定保公が文政5年3月、国許での1年の勤めを終えて江戸に戻った際、御休息の間を居室として利用していたことが記されています(※6)。兄を大変慕っていた露姫は久方ぶりの再会に大喜びで、朝に夕にと御休息の間に出向いては、兄の傍で過ごしていました。兄が公務を終えて外出先から戻ると、兄の疲れを癒そうと露姫がいろいろ心を砕いていた様子は、周囲の大人も知る所でありました。露姫は年齢にそぐわないほどの気配りと年長者への礼儀をしっかりとわきまえた幼女でした。ですから、兄の部屋で露姫一人で過ごしていたとしても、誰もそれを咎めることはなかったのでしょう。

■おのかみのすへおしらにもふこてう
十いちかつ……の端書に続き、線と三角形とを組み合わせた絵の下に三行にわたって和歌が詠まれていました。「むとせの夢」には「蝶の下にハ」(※7)と書かれています。確かにこの図形は幼女の朴訥とした筆致による蝶だと認識することができます。

おのかみのすへおしらにもふこてう

このひらがなの和歌に漢字を当ててみると「己の身の末を知ら(ここはおそらく欠字で「ず」が入るはず)に舞ふ胡蝶(思ふ胡蝶)」と書き表わすことができます。「自分の身の上にこれからどんなことが起こって、どういう結末になるのかを知らずに、ちょうちょが舞い飛んでいるよ(ちょうちょは将来を夢見ているよ)。」ということでしょうか。

小さな子は実際に花や蝶を目の前で見ているわけではなくても、それらを自由に描き楽しむ、といった様子はよく見受けられます。しかしここで描かれていた蝶の絵は、単なる幼女のお絵描きではなく、深い意味を持つように思えてなりません。なぜなら露姫の家、池田(松平)家の家紋には、大きく蝶が含まれているからです(写真1)

露姫の生まれる約30年ほど前、まだ父池田定常(松平冠山)公が藩主として現役だった頃の『寛政武鑑』(※8)を参照すると「在所 因州新田、江戸ヨリ百八十里」とされる「松平縫殿頭定常」のページには、大きな円の周囲が幾つもの半円で囲まれ、その中央に一羽のアゲハチョウが描かれた定紋が登場します。露姫の描いた蝶は羽が黒墨の線で囲まれ、中は白抜きの状態です。アゲハチョウというよりはモンシロチョウを想起させるものですが、限られたスペースにアゲハチョウを幼児が描くのはなかなか難しいことですね。露姫にとって蝶とは、アゲハチョウの定紋を持つ家の娘である自分自身を表現する「シンボル」だったのかもしれません。

そう考えると、この歌は自分自身を蝶になぞらえて詠んだことになります。これを書いた後、露姫の身の上に起こった顛末を考えると、露姫は既に何か不穏なものを感じ取っていたのでしょうか。

■つゆほとのはなのさかりやちこさくら
1つ目の歌の次には絵が描かれていました。これを「むとせの夢」では「桜の下にハ」(※9)と表現しているため、当時人々はこの絵を桜の枝・花を表わしたものだと捉えたのでしょう。露姫は筆に墨を付け直したのでしょうか。濃く太い線と細い線をV字に組み合わせ、向かって右側の太い線の左右に三角形を2つ記しています。枝を挟んで桜の花がそれぞれ咲いている様子を表わしたように見えます。先に描かれたモンシロチョウは花の傍に位置していますから、まるで桜を愛でているかのようです。そしてV字のうち、左側の長く細い線の先端には黒墨で塗りつぶした図象を見ることができます。その図の上方には細い線のV字形があるため、触角をピンと張った黒い蝶が花のついていない枝の先を舞い飛んでいるように見えます。白い蝶と一回り小さな黒い蝶、蝶は露姫を表わすものと引き続き考えるならば、桜の枝・花を生死の境として、露姫の生と死を暗示しているかのようでもあります。この絵に続いて詠まれていた歌がこちらです。

つゆほとのはなのさかりやちこさくら

再びこの歌にも漢字を当ててみましょう。「露ほどの花の盛りや児桜」と表わすことができます。

露姫より10歳年上で江戸時代後期から明治時代に活躍した画家 玉蘭斎貞秀(橋本貞秀)の『万象写真図譜 初篇』ではたくさんの桜の種類が図示されていますが、この中に「児桜」を見ることができます(※10)。品のある可憐な桜であることがわかります。また『類題芭蕉發句集』の「春の部 桜」には松尾芭蕉が詠んだ「植うる事子のごとくせよ児桜」(※11)が登場します。児桜を人間の子であるかのように大切に、注意を払って植えるように、と詠まれたものです。単に「桜」ではなく「児桜(ちござくら)」を選択していることにより、桜の木をより一層大事に思ってほしいという芭蕉の願いが伝わってきます。「児桜」とは愛おしく思われ、慈しまれる対象であるこどもの命を具象化したものとも言えます。

「つゆほとの…」ではじまるこの和歌は「ちこさくら」で終えられていますが、そのどちらもを露姫は意図的に自分自身を表わすために用いたのではないでしょうか。ほんのわずかな短い時間を表わすために「つゆほとの」という表現を採ったのは、露姫の「露」を重ね合わせていたと見ることができます。児桜の花を自分の姿と考えて「私も児桜と同様、美しく咲いてもその盛りの時期は短く、もうすぐ散り人生が終わるのです」と誰かに伝えずにはいられなかったのかもしれません。しかしながら実際にそんなことを家族や侍女に伝えたならば、周りは激しく動揺し、あるいは「そんなことあるわけがない、あなたの思い過ごしだ」と真に取り合ってくれないかもしれません。それを否定する確証は自分にはないけれども、この胸騒ぎはどうにも掻き消すことができない……そのようなジレンマを詠んだのかもしれませんね。

幼児と桜、ということでここで取り上げたい例があります。それは13世紀初頭に成立したと考えられている説話物語集『宇治拾遺物語』巻一に登場する「田舎の児桜の散るを見て泣く事」(※12)です。比叡山で修業をしていたこどもが、ある時風が激しく吹き、美しく咲き誇る桜が散ってしまう様子を見て、さめざめと泣き出しました。すると僧侶が「桜ははかないものですぐに散ってしまうのだから、そんなに深く嘆かなくともよかろう」と慰め、諭しました。しかしそのこどもは散る桜を惜しみ泣いたのではなく、田舎の父のことを思って泣いていたのでした。父が一生懸命に作る麦、その花が強風によって早々に散ってしまえば実ることはできません。それは一家にとって日々の食べ物を失うことにもなります。それを悲しく思って修行中のこどもは泣いたのでした。『宇治拾遺物語』の筆者は不詳ですがこのエピソードの末尾を「うたてしやな(嘆かわしいことだ)」と結んでいます。しかしながら果たして、本当に嘆かわしいことなのでしょうか。私は決してそのようには思いません。むしろこのこどもは比叡山で散る桜を見て、故郷の父の育てる麦の花が散る様子を想像し、更にその先に待ち構えている父を始めとする家族の苦労に思いを馳せたのですから、尊い心性の持ち主だと思います。一つの事象から何か身近な、そしてとても大切なことを想起して考えていく姿勢は、露姫にも当てはまります。露姫はもしかしたらその年の春、国許から戻った兄や周囲の者と花見に出かけ、児桜の咲き誇る、そして散り行く光景を共に眼にしたのかもしれません。散る児桜を自分の命に重ねるだけでなく、私が逝った後もあの楽しかった花見のひとときを忘れないでください、私はあんなに活き活きと生きていたのだから、悲しまないでください……そんな思いも込められているようにも思います。

■あめつちのおんはわすれしちちとはは
そしてこの歌の後、一行分ほど空間を開けて三番目の歌が書かれていました。

あめつちのおんはわすれしちちとはは

三行にわたって左肩下がりで書かれたこの和歌の上には長・短の縦の線が4本上から下に向かって無造作に引かれています。「むとせの夢」では「雨の下にハ」(※13)と書いてしますので、この線は降雨を表わしているのでしょう。「あめつち」は「雨土」の意味であるならば、「雨土の恩は忘れじ父と母」と詠まれていたことになります。
精神性の高い露姫のことですから、雨垂れが空から地面へと落ちていく自然現象を通じて、考えを深めたのでしょうか。雨は地に降り注いで露となり、集まって川となり、それは大地を潤し作物を育て、飲み水となり、人間の生命の根源になる大事なものです。雨と土、そのどちらも欠かすことはできません。そうした自然の恵みの中で自分は生かされていた、その御恩に感謝したいと思います、と両親に伝えているのでしょう。

一方、「あめつち」は「天地」である可能性もあります。國學院大學「古典文化学」事業 古事記ビューアーによると『古事記』の冒頭「天地初發之時」は「あめつちはじめておこりしときに」(※14)と訓読されています。「天地の恩は忘れじ父と母」そう漢字を当てて「あめつち(天地)」を「今生きているこの世界」だと解釈したならば、露姫は「この世で私が生きている間、お父様、お母様から受けてきた御恩を私は決して忘れません」ということですね。「雨土」「天地」そのどちらであっても、自分の命を守り、大切に育んでくれた両親への感謝の気持ちをこの和歌と、そして降雨の絵に込めたのではないでしょうか。

■六つ つゆ
和歌の末句「ちちとはは」の「とはは」と「六つ つゆ」の「六つ」の間に長い線が縦に引かれています。4本の降雨の線の中でも最も長く伸ばされた線です。まるで雨のように惜しみなく降り注がれる両親の愛情だと想定し、そこにに寄り添うが如く「六つ つゆ」と書いたのでしょうか。あるいはやがてもうすぐ命が尽きていく自分と、これからも生を全うしていくことのできる両親との間にはっきりと線を引くことで、自分の命の終わりが近いことを知らせていたのでしょうか。この書状を書き、箪笥の中にしまってから数日後、発熱した露姫は床に臥せるようになり、疱瘡(ほうそう:現代の天然痘)は露姫の命を奪っていったのでした。

次回へ続く

<注> 
注1 露姫の今回の和歌三首と添えられた絵は南勢州 浄林寺の立寛比丘が編んだ『応化菩薩辞世帖(おうげぼさつじせいちょう)』にも登場し、そちらには紙の左上端に「右奉 尊兄君詠」と記されています。
※玉露童女追悼集刊行会(1988)『玉露童女追悼集 1』金龍山浅草寺, 附録1『応化菩薩辞世帖』, p.154

「右に書かれている歌は露姫がお兄様に対して詠まれたもの」という意味ですが、和歌本文と字体が全く異なります。恐らく立寛比丘が覚書として記したのでしょう。しかし歌の内容から考えるとこれらの歌は兄だけでなく、父母、姉たちにも向けられたと考えることもできます。「あてなし」とわざわざ上書きされていたのは、特定の誰かというよりも関係のある皆に伝えたいメッセージだったからなのかもしれません。

また『視聴草』に登場する遺筆と『応化菩薩辞世帖』は若干体裁が異なります。『応化菩薩辞世帖』では一枚の紙に収められていますが、『視聴草』の絵は上に登場した写真のように見開き冊子に分割されて収載されています。そのため『応化菩薩辞世帖』の遺筆に比べて桜の枝の絵と二首目との間に空間が設けられています。これは原典を大きく損ねない範囲で宮崎成身が分割掲載したためだろうと思います。
 
<写真・資料>
写真1 千鐘房須原屋茂兵衛(1798)『寛政武鑑』 4巻 [1], p.62,
国立国会図書館デジタルコレクション, 68コマ

https://dl.ndl.go.jp/pid/2546992/1/68
資料1 宮崎成身『視聴草』2集之7「幼女遺筆」
国立公文書館デジタルアーカイブ, 34-37コマ
https://www.digital.archives.go.jp/img/4044262
<引用・参考文献>
※1 服部 遜 謹撰(1824)『玉露童女行状 全』牛島弘福禅寺蔵板,
「むとせの夢」
国文学研究資料館 新日本古典籍総合データベース, 9-29コマ
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200023937/
※2 前掲書1,
国文学研究資料館 新日本古典籍総合データベース, 25コマ
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200023937/

※3 寺島良安(尚順)編(1884)『和漢三才図会 上之巻』中近堂, p.817
国立国会図書館デジタルコレクション, 423コマ
「第15巻 芸財」延紙 乃倍加美 の項 
https://dl.ndl.go.jp/pid/898160
※4 宮崎成身『視聴草』2集之7「幼女遺筆」
国立公文書館デジタルアーカイブ, 37コマ
https://www.digital.archives.go.jp/img/4044262
※5 Lana-Peaceエッセイ
お子さんを亡くした古今東西の人々
「幼女の言葉に宿った新たな命と心の漣」長原恵子

https://www.lana-peace.com/2/2-2-033.html
※6 前掲書1,
国文学研究資料館 新日本古典籍総合データベース, 15コマ
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200023937/
※7 前掲書1,
国文学研究資料館 新日本古典籍総合データベース, 25コマ
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200023937/
※8 千鐘房須原屋茂兵衛(1798)『寛政武鑑』 4巻 [1], pp.62-63,
国立国会図書館デジタルコレクション, 68-69コマ

https://dl.ndl.go.jp/pid/2546992/1/68
※9 前掲書1,
国文学研究資料館 新日本古典籍総合データベース, 25コマ
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200023937/
※10 玉蘭斎貞秀 画(刊年不明)『万象写真図譜 初篇』小林文七,
国立国会図書館デジタルコレクション, 22コマ
https://dl.ndl.go.jp/pid/851482/1/22

※11 松尾芭蕉著, 沼波瓊音編(1928)『芭蕉全集 改訂増補 贄川他石校訂』岩波書店, p.65, 54コマ
『類題芭蕉發句集』「春の部 桜」
https://dl.ndl.go.jp/pid/1145736/1/54
※12 塚本哲三等編(1915)『宇治拾遺物語巻』第一, 有朋堂書店
「田舎の児桜の散るを見て泣く事」, p.22,
国立国会図書館デジタルコレクション, 21コマ
https://dl.ndl.go.jp/pid/1913592/1/2112
※13 前掲書1,
国文学研究資料館 新日本古典籍総合データベース, 26コマ
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200023937/

※14 國學院大學「古典文化学」事業 古事記ビューアー
天地初發之時地「あめつちはじめておこりしときに」

http://kojiki.kokugakuin.ac.jp/kojiki/%E5%A4%A9%E5%
9C%B0%E5%88%9D%E7%99%BA/
 

こどもが思いを伝える方法は、大人の想像を遥かに超えて自由です。人生、命、死、そうした重い言葉とは関係のなさそうな言葉や絵も、大切なメッセージが隠されているのだと、改めて思います。そこに潜んでいる意味をお子さんの死後読み取っていくことは、夭逝したお子さんの最期の時間をより一層濃く縁取っていくことになるのだと思います。

2023/7/17 長原恵子
 
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