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お子さんを亡くした古今東西の人々

我が子17名との死別後、新たな命を守る父の覚悟

今日は鳥取西館新田藩第五代藩主池田定常(松平冠山)公の十六女・露姫に関するお話の第2回目です。元気だった頃の露姫の様子、そして疱瘡に伏せた5歳の秋の様子について取り上げていきます。

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■露姫の誕生
文化14(1817)年11月2日、江戸の鉄砲洲の上屋敷で松平冠山(池田定常)公と側室柿沼たへとの間に、新しい命・十六女が誕生しました。江戸切絵図「築地八町堀日本橋南絵図」(※資料1)の中に冠山邸の位置を確認することができます。こちらの江戸切絵図は西を上、東を下にして描かれているので現代感覚的には90度左に回転させる必要があります。江戸時代の古地図と現代地図を重ねて比較できる人文学オープンデータ共同利用センター 江戸マップβ版が便利なため、そちらを参照してみましょう。冠山邸にフォーカスさせ、更に位置合わせさせた地図がこちら(※資料2)です。地図中央に連続する半円で囲まれた黄色の円の中に揚羽蝶の定紋と共に「松平淡路守」と書かれている部分があります。こちらがかつての鳥取西館新田藩の上屋敷でした。この絵図は嘉永2(1849)から文久2(1862)の間に刊行されたものですが、この時期に相当する藩主は冠山公から三代下った第八代清直公です。弘化4(1847)年7月、第七代定保公が逝去されたことに伴い養子となり、同年11月28日家督を譲られ、12月15日淡路守に任官されている(※1)ため、淡路守と表記されているわけです。遡って冠山公の時代もここを生活の場にされていました。現代では東京都中央区の聖路加国際病院と中央区保健所の東側から、聖路加ガーデンの大部分を覆う一帯に相当します。

母たへは過去9度の出産を経験していましたが、いずれも妊娠5、6カ月頃から常に胸痛や咳が増え、苦しく過ごしていました。ところが今回の妊娠経過はすこぶる体調が良く、安産を迎えることができました。新しい命の誕生で冠山公の胸は喜びと安堵でいっぱいだったことでしょう。しかしそれは腕の中の命を何としてでも守り抜きたい、そうした強い覚悟の方が上回っていたかもしれません。「池田氏系譜」(※2)の記録上、生年以後の消息詳細が定かではない3名(十二女・十三女・十四女)を除くと、十六女誕生までに冠山公は17名の我が子との死別を経験していました。そしてたへとの間の十五女・安子を文化12(1815)年1月6日、生後2カ月で亡くしていました(※3)。それは十六女誕生の2年10カ月前のことでした。

誕生した女児の名前について露姫の生涯記である『玉露童女行状 全』の「浄観院玉露如泡大童女君行状」では「浄観院玉露如泡大童女阿露君者 吾老公第十六女也」(※4)とあり、同じく『玉露童女行状 全』の「むとせの夢」では「御名ハ都由子と申奉る」(※5, 6, 7)と記されています。後に十六女が父宛てに書き遺したものには「まつたいらつゆ」(※8)とひらがなで名前が書かれています。父から贈られた5歳の誕生祝いの歌には「露といふ名の…」という詞書が添えられていましたから「都由子」は「つゆこ」と読まれ、家族の間でも日頃「つゆ」の音には「露」の意味も重ね合わせていたと思われます。本稿では露姫と称していきます。

■気遣いのできる心優しい子
露姫誕生時、50歳の冠山公は既に隠居の身でした。鉄砲洲の上屋敷で露姫と共に暮らしながら、多くの時間を著作執筆等に費やしていました。冠山公は露姫を大変かわいがり、珍しい頂き物や露姫の好物が屋敷へ届けられた時は、父自ら露姫に食べるよう勧めることもありました。そのような場面でも露姫は独り占めすることなく、きちんと礼儀正しく父にお礼を言い、姉たちやおつきの者等にも分け、皆で食べるような子でした。

露姫誕生時までに生存していたと確認できる兄・姉は3名いました。九女・十女・六男です。露姫とは14、13、12歳違いですから年齢相応の遊び相手というわけにはいきません。長屋から同じ年頃の子らが選ばれて参上していました。「むとせの夢」には「御長屋」とありますので江戸の町民の長屋ではなく、藩の勤番長屋のことでしょう。ここには恐らく国許に妻子を残した家臣が住んでいたはずですが、中には家族連れの者もいたのでしょうか。
父が既に兄に家督を譲っていたとはいえ、露姫は元藩主の娘の立場であることに変わりはありません。しかし露姫は身分の違いで相手を蔑むようなことはなく、長屋の遊び友達と仲良く過ごし、むしろうまく人の輪に溶け込めない者がいれば助け、喧嘩が起これば自ら仲裁役を買って出る子でした。江戸での菩提寺だった弘福寺の冠山公の墓碑には、大変親交の深かった儒者松崎慊堂(こうどう)から「私は自分が身分の低いことを意識せず、冠山公は身分の高いことを忘れて交際しました」(※9)といった趣旨の銘文が寄せられています。露姫はまさにそうした父の一面をしっかり引き継いでいたと言えます。

■生き物の命を大事にする子
ある時、冠山公のところにまだ生きている蜆(しじみ)が届けられたことがありました。きっと鮮度の良い美味産物として届けられたのでしょう。しかし冠山公は蜆の生命を不憫に思ったのか、屋敷の後ろの川に放すよう命じました。上屋敷のあった場所は今は陸地ですが、当時は屋敷の西側を細い鉄砲洲川が南北に走り、東京湾へ流入していました。父に影響を受けた露姫は生きている蜆や蛤を見つけた時は早く川へ放してほしいと、仕えの者へ伝えていました。生き物への慈悲心は水の生物に留まらず、陸においても然りでした。ある日母の部屋に蟻が上がってきた時のことです。使用人たちが湯をかけて蟻を退治しようとする場面に露姫が出くわしました。すると露姫は蟻に湯をかけたらみんな絶命してかわいそうだから、ほうきでそっと部屋の外に掃き出せば良いではないかと大人たちを諫めました。これは「むとせの夢」に出てくる露姫のエピソードですが、実はこの約10年後、病いに伏せたたへの看病をしていた頃に綴った随筆集『思ひ出草』の中で、冠山公は蟻にまつわる自身の話を取り上げています(※10, 11)。囲炉裏の周りで列をなすほど群がっていた蟻を見つけた時、物の命を絶つことが嫌な冠山公は、まずはお付きの者に外に掃き出させています。それでも日に日に家の中へ上る蟻が増え、困り果てた末に苦作の案を講じました。蟻が出てくる柱のきわに胡椒を振りかけるというものです。果たしてそれが効果を表わしたのか定かではありませんが、胡椒の香りや味で蟻が自主的に退散することを狙ったのだと思われます。露姫が母の使用人に蟻を掃き出させたのは当時父の背中から学んだためでしょうが、晩年の冠山公の蟻対策を見て露姫の在りし日の姿が蘇った者もいたことでしょう。

■感性豊かで聡明な子
露姫は心の動きを和歌に詠じる豊かな感性と表現力を兼ね備えていました。いよいよ翌月には満5歳の誕生日を迎えるという文政5(1822)年10月のことです。母は露姫や姉らに美しい絹織物を見せていました。当時上屋敷に共に住んでいたと思われる九女・十女は18歳、19歳、おしゃれにも興味が尽きない年頃です。その絹織物の中に「かきつばた」を染めたものがありました。かきつばたとは春から初夏にかけて咲く花です。すっと伸びた丈の長い緑の茎と葉の間から見える花は、紺色、紫色の蝶がしばし羽を広げて休んでいるような姿を想起させます。国宝指定されている尾形光琳の六曲一双の屏風「燕子花図(かきつばたず)」(※資料3)に描かれているあのお花です。翌年の開花の時期に合わせ、新しい着物を仕立てようと話が弾んでいたのかもしれません。そこで露姫は即興で「むらさきに さいてうつくし かきつばた」(※12, 13)と詠みました。ハナショウブやアヤメのような人目を引く網目模様はなく、赤、黄、ピンク色といった華やかな色合いでもないかきつばたです。露姫は当時4歳、凛とした潔い美を見出すことができるとはまだ言い難い年の頃です。まさか幼き妹の口からそのような句がついて出てくると、母も姉も想像しなかったことでしょう。

■自然に育まれた仏様への信心
冠山公の仏教への信仰の篤さや度重なる寺への参拝機会、僧侶との交流等も影響し、露姫の心の中には仏様への信心が自然に宿っていきました。屋敷に僧侶が来訪した際、露姫はことのほか喜び、挨拶に出てきました。そして自分なりに僧侶のご足労をねぎらい、もてなしたいと思ったのでしょう。文政2(1819)年冬、江戸での菩提寺である弘福寺の鶴峯和尚が来訪された際、2歳の露姫はきさご貝を持ち出して一緒に遊ぼうと鶴峯和尚に声をかけたことがありました。きさご貝はカタツムリの殻のような形で丸みと適度な高さがあり、手触りが良くおはじきとして当時こどもの遊びに広く用いられていたものです。楽しい遊びをすれば、きっと和尚様も良い気分になると思ったのでしょうか。何とも愛らしい2歳のこどもの発想です。おはじき遊びを持ち掛けられた鶴峯和尚も大変立派な対応をされました。こどもの戯言だと邪険にすることはなく、逆に「この年までこのような遊びをしたことがないから、教えてください」と言って、露姫の歓迎を快く受けてくれました。
また、その翌年の春、泉岳寺の貞鈞(ていきん)和尚が来訪し、露姫の疳の虫が起こらぬよう加持祈祷をしてくれた時も、露姫は和尚様に自分のおもちゃをあげてお礼をしました。こどもなりに感謝の気持ちを表す、何とも微笑ましいエピソードです。
そして邸内で家族に向けて僧侶から仏の教えが説かれている時も、露姫は末席で静かに、少しも退屈する様子がなく講話を聞いていたのでした。

■露姫と鬼子母神堂・浅草寺
江戸に数あるお寺の中でも、特に露姫が好んで参詣した場所は雑司が谷(ぞうしがや)の鬼子母神堂と浅草の浅草寺(せんそうじ)でした。どちらも冠山邸から幼児が気軽に散歩に出かけられるような距離ではありませんが、当時は駕籠で移動したでしょうから、露姫にとっては楽しいお出かけの機会にもなったのでしょう。鬼子母神堂、浅草寺は当時、共に大変人気のある場所でもありました。

鬼子母神堂は霊験著明ということで多くの参詣者が集まっていたことが『江戸名所図会』で紹介されています(※資料4)。門前左右に料理屋が立ち並び、飴屋や麦藁細工の獅子の店がありました。節分の追儺(ついな)では読経後に撒かれる供豆のご利益を求めて、大勢の人々が競って豆を拾っていました。10月の鬼子母神衣替の時期にも「殊更群集絡繹(らくえき)として織るが如し」と表現されるほど、多くの人々が会式詣(えしきもうで)に参集していたのでした。

また浅草寺も身分の高低や男女を問わず参詣場所として非常に人気が高く、朝から夕まで賑わっており『江戸名所図会』では16ページにもわたって紹介されています(※資料5)。浅草寺は殊に冠山公が格別の信心を寄せた場所でもありました。先に出た『思ひ出草』の中でも冠山公は浅草寺への信心の根拠を記しています(※14, 15)。浅草寺はこれまで千二百余年もの長きにわたり、場所を移転せざるを得なかったことがなく、戦禍にあうこともなくこうして同じ場所で存続してきた、その事実がどれだけ大変なことであるか、それこそが霊験あらたかな印だと考えていたのでした。

■露姫と観音様
浅草寺についてはご本尊が聖観世音菩薩であったことも、露姫が好んだ大きな理由だったように思います。露姫が1歳の夏、右手中指からひどい痛みを伴う皮疹が生じ、やがて病変が両手へ及んだことがありました。冠山公は評判の良い小児科医の柴田芸庵(うんあん)(※16)に診療を頼むことにしました。芸庵は冠山邸から北西に約1km、木挽町四丁目に住む長岡藩医でした。診察後、芸庵は爪周囲の傷に感染が起こって化膿したら大変だと判断し、中橋大鋸町の外科医小堀祐真(※17)に外科的処置を行ってもらうことにしました。これはただ事ではないと心配が増した冠山公は日頃から懇意にしていた圓明院法印行智(ぎょうち)に、準泥(准胝)観音の法を修するよう頼みました。行智は浅草の覚吽院(かくうんいん・現在廃寺)を住寺した僧ですが『木葉衣(このはごろも)』『鈴懸衣(すずかけごろも)』『踏雲録事(とううんろくじ)』といった修験道の入門書を書くほどの修験者でもありました。冠山公は娘のためには、医学も不思議な力も総動員したかったのでしょう。

行智について調べてみると、実に意外な面もありました。露姫に法を修した翌年、文政3(1820)年43歳の頃、行智は幼き頃に歌い、遊んだことを思い出し『童謡集』をまとめているのです。「思へば昔なりけるよ、まだ比ごろのやうに思ふて居たのに、とは云ふものの、年は取つても気はいつも若く、やつぱり子供と一緒に遊びたひ心持なり」(※18)と記していますから、童心をつかむことがとても上手な人物でもあったのでしょう。修験者として法を修する間はおどろおどろしい雰囲気を醸し出しても、その前後では幼い露姫が畏縮しないよう気遣ったのだろうと思います。娘の病気を早く治すために小児科医、外科医、そして幼児の心も気遣える修験者といった絶妙な人選を図った点に、冠山公の深い親心が感じられます。行智の『童謡集』の中には「きしゃごはじき」が登場し、おはじきを二個ずつ数える時の数え詞「ちうちうたこかいな(現代風ではちゅうちゅうたこかいな)」(※19)も登場します。露姫が鶴峯和尚ときさご貝でおはじき遊びした時もきっとこんな風に数えていたのかと思うと、露姫の生きた時間がより一層鮮やかになってきますね。

さて準泥観音の法を受けた露姫は観音様が描かれた護符をお守り袋に入れ、朝夕両手の指を撫でるようになりました。やがて両手もすっかりきれいに治った頃、侍女が袋の中を開けてみました。すると観音様が描かれた紙は消えるほど裂けていたのです。もちろん回復には医師の診療、適切な処置が欠かせなかったわけであり、観音様の絵が擦り切れていたのも日々繰り返された摩擦力の影響も大いにあります。しかし人々は観音様が露姫の身代わりになって手の病を引き受けてくれた、と感謝したのでした。

そんな露姫の話を耳にしたある大名奥方が、大事にしていた唐時代の磁器製観音像を露姫に贈ってくれたことがありました。周囲の大人は観音像だとは気付かず単なる人形と思いましたが、露姫はすぐに気付き、観音像にお菓子やお花を捧げました。その後、父の信頼する家臣であり、露姫との関わりも深かった服部脩蔵が、妻の実家から持ってきた小さなお堂の形をしたものを露姫に遊び道具として差し上げたところ(現代風に言えば、人形やおもちゃの家具等を配置してごっこ遊びをするためのドールハウスといったところでしょうか)、露姫は大喜びで、その屋根を取り外して観音像を中に入れました。するとどうでしょう。まるであつらえたように観音像は寸法がぴったり、お堂の中にきれいに収まったのでした。その様子を見た冠山公は驚愕しました。「むとせの夢」には「清水寺の観音堂をうつしとりたるなりとて、いとゞ随喜し給ふ」(※20, 21)とあります。まるで清水寺の観音堂を再現したかのようだったからとても驚き、喜んだ、ということです。清水寺と言えば京都のお寺ではありますが、上野の寛永寺には清水寺を模した清水観音堂が作られていました。『江戸名所図会』(※資料6)で「京師清水寺に比して舞台造りなり この辺殊更に桜多し 本尊千手大悲の像は 恵心僧都の作にして 主馬盛久が守り本尊なりとぞ」とあり、観音堂の外観図も見ることができます。ご本尊の千手観世音菩薩像は秘仏ですが、年1回初午法楽(はつうまほうらく)のご開帳の際、露姫も参拝し、記憶に残っていたのかもしれませんね。

露姫の観音様への思いはひとかたならぬものがありました。もし火事が起きたら避難する時に自分は観音像を背負うから、侍女たちはおもちゃを持ち出してほしと頼んでいたほどでした。江戸では何度か大火が起こっています。露姫が生まれる10年ほど前の文化3(1806)年にも「江戸大火、発高輪及浅草、延焼候伯六十二邸、祠廟梵刹称之、焼死生口二千二十人、馬七十八頭」(※22, 23)と記録された文化の大火がありました。諸大名の屋敷が62邸、その他神社仏閣も延焼被害に遭い、焼死者が2,020人、犠牲になった馬は78頭ということですから災害級の甚大な被害がもたらされたということです。それゆえ小さい露姫にも恐らく、日頃から火事の恐さや避難方法について言い含められていたのでしょう。自分の最も大事なものが観音像というのも一般的な幼女らしからぬ点でもあります。

■不思議な身辺整理
後から振り返ればそれはまさに「生前整理」と称されるのかもしれません。意味深な不思議な行動が、露姫4歳の秋の末頃から見られていました。露姫はその年、既に浅草寺に二度参詣しており、これから鬼子母神堂にも参拝しようと心待ちにし、お供えものまで準備していました。しかし雑司が谷の鬼子母神堂は冠山邸から直線距離にして約8.5km、浅草寺へ向かう距離に比べると更に3kmほど遠い場所にあります。露姫は寺社への度重なる参詣外出はお伴をする者たちの負担が増えると考え、晩秋の鬼子母神へのお参りは、自分から諦めたのでした。ところが露姫は突然、弘福寺へ行きたいと言い出しました。どうしたのでしょうか。何か思うところがあったのでしょうか。弘福寺にはその年の春、浅草寺参りの後に寄っています。あいにくの雨ではありましたが、ちっとも気にすることなく、露姫は寺の庭で楽しく遊んでいました。弘福寺の墓所には、夭逝した兄の五男、七男、八男、姉の五女、六女、七女、八女、十一女、十五女(※24)が埋葬されています。露姫にとって弘福寺とは本尊の釈迦如来へ御加護をお願いするだけでなく、ご縁の深い特別な場所として兄・姉に会いに出かけ、どこか心落ち着く懐かしい場所だったのかもしれません。鬼子母神堂への参詣を諦めてもなお晩秋に行きたいと願った場所。兄や姉を近くに感じられる弘福寺の庭で遊べば、得体の知れない胸騒ぎをひととき忘れられる、そんな風に惹きつけられたのでしょうか。まさかこの冬、ここに露姫も葬られることになるとは誰も思いもしなかったはずです。

<文政5年11月2日> 5歳の誕生日と父の贈り物
文政5年11月2日、露姫は満5歳となりました。冠山公は露姫に誕生祝いとして和歌の短冊を贈りました。「露といふ名のはかなさも又めでたし」という詞書に続き「露霜と成り川となる露の玉」と詠まれたものでした。露という名前は消えてしまうようなはかないイメージがあるけれども、小さなしずくは冬の寒さによって凍り始め、霜へと姿を変えて立ち上がることができる。そして露はたくさん集まれば川となり、好きなように流勢にのってどこにでも流れていける。そのように変化成長する大いなる可能性を持つ露姫の成長をお父さんは本当に楽しみにしているのですよ、といった意味を込めたのでしょう。
露姫は短冊の裏に「おとうさまいただいたたんざく かいてもいい しかるな」と前書きし、返歌を書きました。

ゆきしもや つゆとかぞへる たのしみも
かわのながれの すへをしらずや(※25)

寒さが深まり露から形を変えた雪霜を見つけて、私(露姫)はお父様と一緒に数える楽しみもあります。でも露が姿を変えた霜は溶け、川となってどこかへ流れていきます。私も一体どこへ流れつくのでしょうか、私はこれからどうなってしまうのでしょう……という不安な思いが読み取れます。この一週間後、露姫は体調を崩しました。これが最後の誕生日になるとは誰も知る由もありません。ただ一人露姫だけが、何かを感じ取っていたのかもしれません。

<文政5年11月8日> 父からの手紙・形見分け
誕生日から6日後の11月8日、露姫は「たいしのものおとうさまいたゝいた御書」(大事なもの お父様から頂いたお手紙)と上書きし、父からの手紙を自分で封をして母に預けました。更に随分前に母からもらった鏡を十女の姉・春姫にあげると言い出しました。春姫は露姫と同じたへを母とする13歳年上の姉です。池田家系譜によると春姫は3歳の頃縁約した人物がいましたが、婚儀にいたる前の15歳、離縁となっていた(※26)ので、上屋敷で共に暮らし、露姫と過ごす時間も多かったのでしょう。春姫は露姫に、お母様からいただいた鏡なのだから自分で持っているべきだと諭しました。しかし露姫は納得せず、それではお姉様にあげるのではなく預けますから、と言い直し、鏡を渡したのでした。また、自分の持っていたおもちゃをすべて座敷に並べると、遊び相手だった長屋の子らに分け与え、壊れてしまったものは処分するようにと傍の者に伝えたのでした。

■発熱と疱瘡
<文政5年11月9日> 宿直医の診察・発熱の娘を看病する父
それまで元気に過ごしていた露姫でしたが11月9日の晩、露姫は熱を出しました。当時江戸では疱瘡(ほうそう)が流行っていたので冠山公は非常に心配し、宿直をしていた藩医の内科医 島村貞庵を呼びました。貞庵は『今世医家人名録』の中で鉄砲洲十軒町の若狭藩上屋敷に連絡先がある医師として登場します(※27, 28)。また医家人名録で「家有活血散方治淋病又有寧楽散主治痘毒入眼者神効」と貞庵に解説が付されています。血の巡りの改善の観点から淋病(この頃の淋病は淋菌による感染症としての淋病ではなく、膀胱炎や尿道炎の総称)を治療したり、疱瘡が目に病変を起こした時は非常によく効く治療を知っていた人物として記録されています。医家人名録内で解説が併記されている人物はごく一部ですから、一目置かれた医師であったわけです。この日、まだ発熱以外に特徴的な症状がなく、露姫の病名診断までには至らなかったのでした。

「疱瘡(ほうそう)」という響きは現代人にとって「水ぼうそう」を思い起こすかもしれませんが「疱瘡」は江戸時代、天然痘(てんねんとう)を指す言葉でした。天然痘ウイルスによる感染症で、日本では昭和31(1956)年以降、国内発生はみられていません(※29)。現代人にとっては聞き馴染みの薄い病気ですが、古くからその存在が知られていました。『続日本紀』巻12によると天平7(735)年は農作物が不作な食糧事情が厳しい年で、夏から冬にかけて豌豆瘡(えんどうそう=天然痘の古名・皮膚病変の形がえんどう豆に似ているため)を患ったこどもたちや若い人が多く亡くなっています(※30)。天然痘は死亡に至らなくても、皮膚の膿疱が瘢痕化して痘痕(あばた:色素脱出を伴うへこみ傷)が残ったり、後遺症として失明や脳炎等に至ることもある(※31)等、命は落とさずとも決して楽観視できる病気ではありません。国内で種痘(天然痘の予防接種)が広まるようになったのは、露姫の発熱から30年ほど時代が下った頃となります。この頃、啓蒙普及用として中山道吹上(現在の埼玉県鴻巣市)の新宿村にあった三井元圃接痘所が作った「種痘之図」(※資料7)には疱瘡神が描かれています。こどもの手を握りしめ、連れ去ろうとする疱瘡神を牛の背に乗った牛痘児が種痘針の槍で追い払おうとする様子が、大きく図示されたものです。傍には「疱瘡の神とは誰か名付けん 悪魔外道のたゝりなすもの」と記されています。種痘普及前の露姫の生きた時代には多くの人が「神」や「祟り」を天然痘の発症原因と捉えていたことが伺えます。人々は赤色の呪術的な力による疱瘡退散を期待し、赤色の玩具で遊ばせたり、赤絵を身近に置いたりしました。また冠山公が執筆・編纂を手掛けた地誌『浅草寺志』巻3の中では、浅草寺の境内にあった「疱瘡神社」の話が登場します(※32)。疱瘡神社の両脇と後方には南天が植えられており、疱瘡を患うこどもの改善を願う人々が、この南天の葉を摘んで枕の下に敷く風習があったのでした。

当時の人々は民間信仰的なものだけでなく、医学の力でも立ち向かっていました。中国・明時代の天然痘治療に関する書物『痘疹活幼心法』(※33)は我が国でも寛文6(1666)年に刊行されており、疱瘡流行を懸念した冠山公は、内服薬を手配して予防的に露姫に飲ませていたこともありました。露姫は「良薬口に苦しとハこのことだの」(※34, 35)と、まさに大人顔負けの口ぶりを見せていました。文化3(1806)年に刊行された一般家庭向けの医学書『増補救民妙薬集』(※36)によると、小児の疱瘡薬として赤牛の歯を粉にしたものを用いたり、目に病変がある場合は白膠木(ぬるで)の脂を乳で溶いたものを少量点眼するといった対処が行われていました。

病名が定まらぬまま熱の下がらない娘のことが、冠山公はとにかく心配でたまりませんでした。それは幼い露姫の心にもしっかり伝わっており、逆に露姫が父を気遣い、こどもなりに随分苦心することになりました。自分が元気そうに振る舞えば、父はきっと安心してくれると思ったのか、熱のある身を押して起き上がり父と一緒に「たとえかるた」「竹かえし(薄く切った竹ベラを用いた手遊び)」「きさごはじき」「縁結び」等の遊びをしました。どれも座っていれば、あるいは横になっていても辛うじてできるものです。
この中で目を引くものが「縁結び」です。これは紙に幾人かの男児と女児の名前を書いて細長くねじってこよりを作り、男児、女児それぞれの束から1本ずつ引き抜き1つに結び合わせ、皆の前で開いてカップルの名前を発表する、といった遊びです(※37, 38)。古くからあった遊びで、南北朝時代には「宿世結び(すくせむすび)」と呼ばれていました(※39)。今世の父との親子の縁を今一度確かめておきたかった、そんな露姫の思いが垣間見えるようです。その日、夜中過ぎまで露姫は起きて、本の挿絵を見ては絵の由来を父に尋ねる等、寸暇を惜しむかのように過ごしたのでした。

<文政5年11月10日> 形見分け,  小児科医の診察 
翌日、露姫は姉に手紙を添えてガラスのかんざしを、そして六男で第七代藩主でもある兄の定保公の侍女におもちゃを分けました。熱のある体調不良の子がなぜそんなことをするのか、周りは訝しく思ったことでしょう。
この日、別の医師鳥養元叔が診察しました。「むとせの夢」では貞庵と元叔の名の上だけに「御医師」と記されていますので恐らく鳥取西館新田藩の藩医と思われます。『江戸今世医家人名録』には元叔の名は登場しませんが、冠山公臣下の服部脩蔵が「むとせの夢」を執筆していることを考えると、同じ藩内の者として藩医に敬意を称しているのでしょう。元叔は疱瘡の発症を否定しきれないことを冠山公に上申したところ、冠山公は露姫の治療を医師の柴田芸庵に頼むことに決めました。露姫が1歳の時、両手の病を診てくれたあの医師です。芸庵は『江戸今世医家人名録 初編』には小児科医として登録されていますが『長岡藩史』(※40)によると、芸庵に診察してもらえれば、死んでも心残りはないと長岡藩の武士から言われていたほどの名医で、後に天保14(1843)年、幕府の命により奥詰医師として召出されることになった人物でもあります。また医師仲間の意見を得たい時、あるいは医師自身が感染症にかかった時の治療では芸庵を頼りにしたいと言われていた人でした(※41)。それゆえこの状況では芸庵の力を得ることが一番だと考えたのでしょう。芸庵は後に嘉永5(1852)年、前出の医学書の解説書『活幼心法附説』を手掛け、徳川時代の医書目録内で芸庵は小児科、痘疹科の両科に登場します(※42)。露姫の治療から30年ほど時を経た話になりますが、露姫を疱瘡から命を救えなかった若き日の苦い思いを胸に、もう二度と疱瘡で命を落とすこどもが出ないように……そう筆を執った芸庵の思いが伝わってくるようです。

■疱瘡との闘い
<文政5年11月11日> 疱瘡発症と内科医参加
ついに露姫に皮膚病変が現れ、疱瘡、しかも軽症ではないと明らかになり、藩医の貞庵と元叔は大いに懸念を示しました。家族の様子について「むとせの夢」では「大殿をはじめ殿・姉君がたもおとろき給ひて、御心をいため給ふことかぎりなし。」(※43, 44)とあります。何とか早く治りますように、家中の者がその一心だったのでした。芸庵は多忙な身でありながら昼、夜を問わず時間を見つけては労を惜しまず、何度も往診に駆けつけました。

鳥取西館新田藩のくすし(漢方医)らが懸命に治療にあたることは言うまでもなく、日頃より冠山公が懇意にしていた京橋鈴木町の内科医・生田英碩(いくた えいせき)(※45)の助けを得ることにもなりました。英碩は親友の息女の一大事にあたり、夜になっても帰宅せず、診察治療にあたりました。露姫は英碩と顔見知りであったことから身構えることなく、安心して診察を受けることができたのでした。

<文政5年11月22日> 内科医・眼科医の更なる参加
発熱からもうすぐ2週間を迎える11月22日、本来そろそろ回復に向かう時期だと見込まれていました。疱瘡はどの部分の皮疹も同じ時期に同じ段階を経ていくはずでした。しかし露姫の場合、膿疱からまだ膿が出ていないものもあれば、紅斑のまま丘疹へ至らないものもありました。露姫の病状は予断を許さない状態でした。思案の結果、新たな医師が呼ばれ治療に加わることになりました。柴田芸庵の兄で木挽町5丁目に住む作州勝山藩の内科医、丸山岱淵です(※46)。芸庵と岱淵は「兄弟ともに文政中の流行医也」(※47)と評されるほどの名医でしたが、露姫にとっては見知らぬ医師の登場です。戸惑いがありましたが傍の者が芸庵の兄であることを伝えると、心を開いて診察を受けたのでした。

また疱瘡の眼症状が起こることを非常に心配した冠山公は眼科医 行徳玄格(※48, 49, 50)も呼び寄せました。疱瘡を軽視してはいけない理由の一つとして、失明が挙げられます。仙台藩祖伊達政宗公は幼年期に疱瘡の膿疱が目にできたことで右目を失明したことを晩年、家臣に語ったと伝わっています(※51)。娘のためにできる予防策はとにかく打ちたい、そうした父の焦りにも似た気持ちが滲み出ています。玄格は大変優秀な眼科医で、当時眼科の大家と呼ばれていた行徳元穆(げんぼく)(※52)が腕を認めていたほどでした。冠山公は露姫が失明しないように、どうにか策を練ってほしいと期待したのでしょう。

家族はつきっきりで露姫を看病しました。当時、感染症患者の接触や隔離概念はどうだったのでしょうか。「御触書天保集成七十九」の御疱瘡御麻疹御水痘等之部「寛政四子年七月より天保八酉年二月迄」を見てみましょう。露姫の罹患した3年前、文政2(1819)年10月に出された疱瘡関連の御触書を見ることができます(※53)。当時疱瘡は隔離が必要な病気と認識され、罹患者や看病人等の江戸城への出仕については日数制限や出仕可能となる必要条件等が設けられていました。一方、罹患者は終生免疫でもあることから、罹患済みの年上の家族やお世話する者たちは恐れることなく傍で看病したものと思われます。冠山公自身も7歳の時に疱瘡に罹患していました(※54)。幼い子にとって疱瘡罹患がどれほど苦しいか、より一層露姫の気持ちをわかっていたのではないでしょうか。家族は元より多くの人々が露姫の病状を心配し、どうにかして助かってほしいと神仏に祈りを捧げていました。

ここで露姫の治療のために集まった医師を整理しておきましょう。名前が明らかになっている人物だけでも6名、尿路感染症や疱瘡の目の治療で知られる藩医の島村貞庵、症状は明らかではなくても疱瘡を疑うべきだと先見の明を持った同じく藩医の鳥養元叔、診察してもらえれば本望だと言われていた長岡藩小児科医の柴田芸庵、兄弟共に時代の流行医だと一目置かれた勝山藩内科医の丸山岱淵、父の良き友でもあり夜通し治療に当たってくれた内科医の生田英碩、眼科の大家からもその腕のすごさを認められていた眼科医 行徳玄格。その他名前は明らかにはなっていなかったものの死の前日、臨終が近いと判断し露姫に安らぎの時間を与えてくれた藩医の漢方医等、皆が露姫のために尽力したのでした。娘を救うには医師にその治療を託すしかない。そのために父としてできることは、どれほど治療に難渋してもとにかく諦めず、良医を手配をすることだ。そういう冠山公の強い決意が感じられます。

■疱瘡と鷺大明神祠(鬼子母神堂境内)
しかし露姫の容態は日に日に悪化し、やがて開眼することも困難になりました。口は乾き、声も小さくなっていきました。天然痘ウイルスは露姫の身体を蝕み、著しく体力を奪っていきました。そんな時でも露姫は家族の声掛けにはきちんと反応し、薬を飲むよう勧めると素直に応じていました。時折「早く雑司が谷にゆきたい。お供は揃ったか」と問うことがしばしばありました。ああ、やっぱり行きたかったのです。雑司が谷の鬼子母神堂に。心残りだったのです。しかしそれはかつての参詣とは一線を画し、疱瘡にかかっていた露姫にとって切実な願いでもあったはずです。

当時鬼子母神堂の境内には疱瘡平癒で知られた「鷺(さぎ)大明神祠」がありました。祠の前庭の小石は疱瘡に効くと評判が高く、人々は拾い持ち帰り、お守りにしていました。『江戸名所図会』巻之四「鬼子母神堂」(※資料8)と大正時代刊行の『出雲大神』(※55)を参照すると鬼子母神堂と鷺大明神祠との関係がよくわかります。
鬼子母神堂の前方左側に鷺大明神祠ができたのは、正徳の頃、と言いますから露姫の時代から約100年前となります。疱瘡の守護神として出雲国神戸郡鷺村の鷺浦の大穴持伊那西波岐神社(おおなもちいなせはぎのかみのやしろ)の祭神が勧請されました。大穴持伊那西波岐神社は鷺大明神とも呼ばれ、疱瘡関係で非常に名高い神社でした。露姫が疱瘡を患った8年前の文化11(1814)年、出雲国の鷺大明神を訪れた修験者野田泉光院は、次のように日記にしたためています。「又海辺へ出て鷺大明神と云ふに詣て納経す。是れ疱瘡の守護神日本第一也と云ふ。御大内御疱瘡の時は御代参詣つと社主の話し、又近村の者疱瘡前には此の社段の石を申請け帰り、疱瘡成就の上返すとのこと也。余も小石一つ拾ひ来れり」(※56)
疱瘡の守護神として日本一と知られていたことから、天皇家で疱瘡患者が出た場合は代理の者が鷺大明神に派遣されて参詣しており、近所の者の間では神社の階段の石を持ち帰り、疱瘡が治ればお返しする風習があったことから、修験者の自分も小石を1つ拾ってきたと書いているのです。鬼子母神堂境内の鷺大明神祠前庭から小石を拾うことは、こうした由来に基づくものでしょう。鬼子母神堂を何度も訪れていた露姫も、きっと疱瘡平癒を願う人々の小石を拾う姿を目にしていたはずです。疱瘡で苦しみ床に臥せる中、あの小石をどうにか1つ手に入れたい、どうか自分の疱瘡も早く治りますように、神の力にお願い申し上げたいとすがるような気持ちだったのではないでしょうか。

次回へ続く

 
<資料>
資料1 景山致恭,戸松昌訓,井山能知編(1849-1862)「〔江戸切絵図〕 築地八町堀日本橋南絵図」尾張屋清七
国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1286660/1/1
資料2 江戸マップβ版 尾張屋版 築地八町堀日本橋南絵図(位置合わせ地図)
人文学オープンデータ共同利用センター
http://codh.rois.ac.jp/edo-maps/owariya/02/georef/?lat=35.666848&lng=139.777869
資料3 尾形光琳「燕子花図(かきつばたず)」
紙本金地着色, (各)縦150.9p 横338.8
六曲一双, 18世紀, 根津美術館蔵, 国宝
文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/145427
資料4 松濤軒斎藤長秋 著 ほか(1834-1836)『江戸名所図会 7巻』[12],須原屋茂兵衛ほか,「鬼子母神堂」
国会図書館デジタルコレクション, 49-53コマ
https://dl.ndl.go.jp/pid/2563391/1/49
資料5 松濤軒斎藤長秋 著 ほか(1834-1836)『江戸名所図会 7巻』[16],須原屋茂兵衛ほか,「金龍山浅草寺」
国会図書館デジタルコレクション, 4-24コマ
https://dl.ndl.go.jp/pid/2563395/1/4
資料6 松濤軒斎藤長秋 著 ほか(1834-1836)『江戸名所図会 7巻』[14],須原屋茂兵衛ほか,「東叡山寛永寺 清水観音堂」
国会図書館デジタルコレクション, 33コマ(解説)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2563393/1/33

国会図書館デジタルコレクション, 28コマ(絵)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2563393/1/28
資料7 「種痘之図」59×71.5cm, 三井元圃接痘所作製
佐賀県立図書館データベースhttps://www.sagalibdb.jp/iiifviewer/?uid=06000028

中山道吹上新宿村の三井元圃接痘所が作った「種痘之図」は発行年が明らかになっていませんが「昨冬、ある大候の尽力により取り寄せされた牛痘を姫君に接種されたことで世に広まった」といった経緯が記されていますので、これは嘉永2年(1849)年の佐賀藩第10代藩主鍋島直正のこどもの接種を指すと考えられ、発行年は嘉永3(1850)年と考えられます。
資料8 松濤軒斎藤長秋 著, 長谷川雪旦 画(1834-1836)『江戸名所図会』7巻, 須原屋茂兵衛ほか
国会図書館デジタルコレクション, 「鬼子母神堂・鷺大明神祠」49コマ
https://dl.ndl.go.jp/pid/2563391/1/49

『江戸名所図会』7巻の鬼子母神堂正徳の頃、出雲国松江藩第五代藩主松平宣維(のぶずみ)が神告を得て、出雲国神戸郡鷺村の鷺浦に鎮座されていた素盞鳴尊(すさのおのみこと)の妾女で疱瘡の守護神 皐諦女(こうだいにょ)を祭神として勧請した事が記されています。
   
<引用文献>…国会図書館のデジタルコレクションは申請手続き不要で閲覧可能な一般公開と、登録した個人が閲覧可能(登録申請・閲覧利用共に無料)なものがあります。是非ご利用になると良いかと思います。
 
※1 鳥取県 編(1969)『鳥取藩史 第1巻 (世家・藩士列伝)』鳥取県立鳥取図書館, 「池田清直」p.183
国会図書館デジタルコレクション, 108コマ
https://dl.ndl.go.jp/pid/9573520/1/108
※2 鳥取県 編(1972)『鳥取藩史 別巻』鳥取県立鳥取図書館, 「校正池田氏系譜」pp.308-313
国会図書館デジタルコレクション, 175-177コマ https://dl.ndl.go.jp/pid/9573526/1/175
※3 前掲書2, p.313
国会図書館デジタルコレクション, 177コマ https://dl.ndl.go.jp/pid/9573526/1/177
※4 服部 遜 謹撰(1824)『玉露童女行状 全』牛島弘福禅寺蔵板,
「浄観院玉露如泡大童女君行状」
国文学研究資料館 新日本古典籍総合データベース, 5コマ
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200023937/
※5 服部 遜 謹撰(1824)『玉露童女行状 全』牛島弘福禅寺蔵板,
「むとせの夢」
国文学研究資料館 新日本古典籍総合データベース, 9コマ
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200023937/
※6 玉露童女追悼集刊行会(1988)『玉露童女追悼集 1』金龍山浅草寺, 附録2『玉露童女行状 全』「むとせの夢」, p.164
※7 国文学研究資料館の『玉露童女行状 全』「むとせの夢」の存在を知りつつも、まだ私が浅草寺から刊行された翻刻版があることを知り得なかった頃、昭和初期の歌人、明田米作氏による露姫の伝記に辿り着きました。「奇才兒松平都由子」です。こちらでは「露姫」ではなく「都由子」と称され「むとせの夢」を基本としていくらかアレンジの入った伝記になっていました。伝記学会の学会誌であったことからこれが広く世間に知れ渡り、90年ほど前の一般家庭の書棚に並んでいたわけではないと思いますが、明田氏の現代文表記により「むとせの夢」の大枠を把握する上でとても役立ちました。現在、国会図書館デジタルコレクションで見ることができます。
明田米作(1936)「奇才兒松平都由子 」『伝記』3(3),伝記学会, pp.37-49
国会図書館デジタルコレクション, 24-30コマ
https://dl.ndl.go.jp/pid/1486490/1/24
※8 宮崎成身『視聴草』2集之7「幼女遺筆」
国立公文書館デジタルアーカイブ, 36コマ
https://www.digital.archives.go.jp/img/4044262
※9 小谷恵造(1994)「学問に打ち込み優れた著作を残した学者大名池田冠山」『人づくり風土記 31 ふるさとの人と知恵 鳥取』農山漁村文化協会, p.324
※10 冕嶠陳人(1832)『思ひ出草』巻2
国立公文書館デジタルアーカイブ
「螻蟻の事」45-46コマ
https://www.digital.archives.go.jp/img/4124110
※11 池田定常著『思ひ出草』巻2
「螻蟻の事」p.158(翻刻版)
森銑三ほか編(1980)『随筆百花苑』第7巻, 中央公論社
※12 前掲書5,「むとせの夢」
国文学研究資料館 新日本古典籍総合データベース, 18コマ
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200023937/
※13 前掲書6, 附録2『玉露童女行状 全』「むとせの夢」, p.169
※14 冕嶠陳人(1832)『思ひ出草』巻3
国立公文書館デジタルアーカイブ
「浅草寺の事」40-41コマ
https://www.digital.archives.go.jp/img/4124111
※15 池田定常著『思ひ出草』巻3「浅草寺の事」p.185(翻刻版)
森銑三ほか編(1980)『随筆百花苑』第7巻, 中央公論社
※16 武井周朔, 稻葉闊堂(1820)『江戸今世医家人名録 初編』西村宗七刊, p.36,
慶應義塾大学メディアセンター デジタルコレクション 富士川文庫(古医書コレクション), PDF版 p.43
https://iiif.lib.keio.ac.jp/FJK/F-i-28/pdf/F-i-28.pdf
※17 前掲書16, p.28(pdf版 p.35)
※18 行智(1912)『童謡集』国書刊行会編『近世文芸叢書』第11, 国書刊行会, p.269
国会図書館デジタルコレクション, 141コマ
https://dl.ndl.go.jp/pid/993464/1/141
※19 前掲書18, p.272
国会図書館デジタルコレクション, 143コマ
https://dl.ndl.go.jp/pid/993464/1/143
※20 前掲書5,「むとせの夢」
国文学研究資料館 新日本古典籍総合データベース, 12-13コマ
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200023937/
※21 前掲書6, 附録2『玉露童女行状 全』「むとせの夢」, p.166
※22 五弓久文(1881)『文恭公実録 巻之1,2 (我自刊我書)』甫喜山景雄, p.23, 文化3年3月4日条
国会図書館デジタルコレクション, 31コマ
https://dl.ndl.go.jp/pid/781719/1/31
※23 文化の大火の発生記録として、本来、治世の主である徳川家斉公の『文恭院殿御実紀 上』を参照引用するべきですが、実紀の中では文化3年3月は1日から23日の記録がなく、24日分が初出となります。但し、3月25日の記録の中で「こたび江戸火災にて材木及び其外の諸色。市人等在方へ注文申遣すにより。追々元直段引上るよし聞ゆ。いと僻事なり。はやく引下げ。成べきほど下直に売出すべし。もし謂なく高直になす者あらば曲事たるべしとなり。」とあります。
3月4日の大火の被害を受けた人々の生活再建のため、材木を始め様々な物資需要が増している中、正当な理由なく物価を高騰させる者がいれば処罰するようにと指示が出されているわけです。したがって文恭院殿御実紀で3月4日の大火の記録が落ちているのは、何らかの理由で欠損しているだけと考えられ、家斉公の伝記である前掲書22を参照としました。
成島司直 等編, 経済雑誌社 校(1905)『続徳川実紀 第1篇』経済雑誌社, p.1046, 「文恭院殿御実紀 上」文化3年3月25日条
国会図書館デジタルコレクション, 531コマ
https://dl.ndl.go.jp/pid/1917812/1/531
※24 前掲書2, 「校正池田氏系譜」pp.308-313
国会図書館デジタルコレクション, 175-177コマ https://dl.ndl.go.jp/pid/9573526/1/175
※25 小谷恵造(1990)『池田冠山伝』三樹書房, pp.324-325
「ゆきしもや……」の和歌は小谷恵造(こだに よしぞう)氏が県立鳥取図書館所蔵『池田家墨蹟集』から見出された露姫のエピソードとして『池田冠山伝』の上記ページで紹介されています。『池田家墨蹟集』は国会図書館でも保管されている資料ではないため、小谷氏が著作の中で紹介してくださったことで、とても参考になりました。
また今回、露姫に関する調べ物を開始するにあたり、小谷氏の『池田冠山伝』が大きな導きになりました。この場を借りてお礼を申し上げたいところです。小谷氏は『鳥取県史』近世篇儒学の項を執筆されるにあたり冠山公の研究を始められ、慶應義塾大学附属研究所斯動文庫に内地留学される機会を得、以後約10年にわたる研究の成果を『池田冠山伝』としてまとめて、上梓されました。巻末のプロフィールによると当時は高校教諭であったということです。日々の生業として教育に携わりながら、これだけ膨大な研究・著作に取り組まれていたことを考えると、世の中には市井の研究者として素晴らしい方がいらっしゃるものだと敬服の念が絶えません。本書あとがきには上梓前の3年間、奥様が4度も入退院を繰り返しながら、ワープロで原稿を清書された事が記されていました。本業の教育とは別に文学・歴史の書物を夫唱婦随で刊行された例として以前、Lana-Peaceエッセイ「亡き夫の思いを繋ぎ、新しい自分の一面を広げた妻」で取り上げた宇治谷孟ご夫妻の事を思い出しました。宇治谷先生は『日本書紀』『続日本紀』の現代語訳に取り組まれましたが、高校教諭を経て短大在職中に交通事故で急死され、手掛けられていた未完の現代語訳『続日本記(下)』を奥様の輝千代氏が引き継がれて完成されています。
※26 前掲書2, 「校正池田氏系譜」, p.311
国会図書館デジタルコレクション, 176コマ https://dl.ndl.go.jp/pid/9573526/1/176
※27 『今世医家人名録 南』では島村貞庵ではなく「嶋村貞菴」と表記があります。
白土龍峯(1820)『今世医家人名録 南』文政三庚辰校正, 龍峯蔵版, p.27
慶應義塾大学メディアセンター デジタルコレクション 富士川文庫(古医書コレクション) pdf版, p.32
https://iiif.lib.keio.ac.jp/FJK/F-i-27-3/pdf/F-i-27-3.pdf

※28 前掲書16の『江戸今世医家人名録 初編』の「島村貞庵」と前掲書27の『今世医家人名録 南』の「嶋村貞菴」とは同じ連絡先であるため、同一人物とみなすことができます。
※29 国立感染症研究所ウェブサイト「天然痘とは」
https://www.niid.go.jp/niid/ja/kansennohanashi/445-smallpox-intro.html
※30 『続日本紀』巻12, 経済雑誌社 編(1897)『国史大系 第2巻 続日本紀』経済雑誌社, p.201
天平七年条「是歳。年頗不稔。自夏至冬。天下患豌豆瘡。俗曰裳瘡夭死者多。」
国会図書館デジタルコレクション, 106コマ

https://dl.ndl.go.jp/pid/991092/1/106
※31 日本感染症学会「天然痘」https://www.kansensho.or.jp/ref/d44.html
※32 松平冠山編(1939)『浅草寺志 上巻』浅草寺出版部, 巻3, pp.181-182「疱瘡神社」
国立国会図書館デジタルコレクション, 102-103コマ
https://dl.ndl.go.jp/pid/1256067/1/102
※33 聶尚恆撰(1666)『痘疹活幼心法』文臺屋治郎兵衞刊
国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/2539154
※34 前掲書5,「むとせの夢」
国文学研究資料館 新日本古典籍総合データベース, 16コマ
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200023937/
※35 前掲書6, 附録2『玉露童女行状 全』「むとせの夢」, p.168
※36 穂積甫庵(1806)『増補救民妙薬集』京 : 柳枝軒小川多左衛門
「89 小児疱瘡薬」「90 痘瘡」
国会図書館デジタルコレクション, 41コマhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2536912/1/41

本書の元になった『救民妙薬』は、元禄6(1693)年、水戸徳川藩第2代藩主徳川光圀の命により、侍医の穂積甫庵(鈴木宗与)が庶民の健康増進のために編纂、上梓した家庭の医学書です。
100年以上経っても役立つ、貴重な情報が多かったことがわかります。
※37 虎関和尚(1683)『異制庭訓徃來』小河多右衛門,
国文学研究資料館 新日本古典籍総合データベース, 10コマ
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100263958/10/

※38 『異制庭訓往来』塙保己一 編(1899)『群書類従 第六輯』経済雑誌社(翻刻版)
国立国会図書館デジタルコレクション, 569コマ
https://dl.ndl.go.jp/pid/1879486/1/569

南北朝時代の『異制庭訓往来(いせいていきんおうらい)』では解説される遊戯名の中に「宿世結び(すくせむすび)」が登場します。
※39 岩瀬醒, 喜多武清, 歌川豊広[他]著(刊年不明)『骨董集 [三]』文溪堂,
国立国会図書館デジタルコレクション, 21コマ
https://dl.ndl.go.jp/pid/2554345/1/21

19世紀前半の『骨董集』では当時の「縁結び」とかつての「宿世結び」は同じことだと記されています。
※40 今泉省三(1942)『長岡藩史要 第5巻 (文政十年〜元治元年)』長岡藩史料研究会, p.44 天保14年7月2日条
国会図書館デジタルコレクション, 30コマ
https://dl.ndl.go.jp/pid/1916188/1/30
※41 多紀茝庭(元堅)(1897)「時還読我書続録抄」『継興医報』39, p.7
国会図書館デジタルコレクション, 6コマ
https://dl.ndl.go.jp/pid/1473229/1/6
※42 富士川游(1904)『日本医学史』裳華房, p.900, p.904
国会図書館デジタルコレクション, 500コマ, 502コマ
https://dl.ndl.go.jp/pid/833360/1/500

https://dl.ndl.go.jp/pid/833360/1/502
※43 前掲書5,「むとせの夢」
国文学研究資料館 新日本古典籍総合データベース, 20コマ
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200023937/
※44 前掲書6, 附録2『玉露童女行状 全』「むとせの夢」, p.170
※45 前掲書16, p.1(pdf版 p.8)「生田英碩」
※46 前掲書16, p.26(pdf版 p.32)「丸山岱淵」
※47 前掲書41, p.7
国会図書館デジタルコレクション, 6コマ
https://dl.ndl.go.jp/pid/1473229/1/6
※48 前掲書27, p.25「行徳玄格」
慶應義塾大学メディアセンター デジタルコレクション 富士川文庫(古医書コレクション) pdf版, p.31
https://iiif.lib.keio.ac.jp/FJK/F-i-27-3/pdf/F-i-27-3.pdf

『今世医家人名録 南』では「行徳元格」と表記されていますが『むとせの夢』では「行徳玄格」を招いたとされています。冠山公と交流の深かった松崎慊堂の日記『慊堂日歴 下巻 再版』の天保7(1836)年6月20日条には「行徳玄格 本材木町四丁目。」と記載があり、『今世医家人名録 南』にも連絡先が「本材木町四丁目」出ているので、「玄格」「元格」は同一人物と考えられます。
※49 松崎慊堂著, 濱野知三郎編纂(1932)『慊堂日歴 下巻 再版』六合館, p.106, 天保7年6月20日条
国会図書館デジタルコレクション, 58コマ
https://dl.ndl.go.jp/pid/1900991
※50 前掲書25の『池田冠山伝』314-315ページでは行徳玄格を祈祷師と記していますが、『今世医家人名録 南』では眼科医として登録されていますので、本稿では眼科医と考えます。
※51 公益財団法人瑞鳳殿ウェブサイト
「伊達政宗学芸員のつぶやき発掘調査 感染症に打ち勝った伊達政宗公〜仙台藩祖伊達政宗公三八五遠忌法要に寄せて〜」
※52 白土龍峯(1820)『今世医家人名録 西』文政三庚辰校正, 龍峯蔵版, p.25
慶應義塾大学メディアセンター デジタルコレクション 富士川文庫(古医書コレクション), PDF版, p.32「行徳元穆」
https://iiif.lib.keio.ac.jp/FJK/F-i-27-2/pdf/F-i-27-2.pdf
「世伝一家治法人称眼科医宗又遊京師学福井立助和田泰順二先生極内科奥妙云」
※53 高柳真三, 石井良助 共編(1941)『御触書集成 第5 (御触書天保集成 下)』岩波書店,
文書番号5415(文政2年10月), pp.398-399
国会図書館デジタルコレクション, 212コマ
https://dl.ndl.go.jp/pid/1229693/1/212
※54 前掲書25, 年表 p.410
※55 千家尊福(1913)『出雲大神』大社教東京分祠, 出雲大神「第十一節 摂社及末社」pp.279-280
国会図書館デジタルコレクション, 156-157コマ
https://dl.ndl.go.jp/pid/943459/1/156

大正時代に編纂された『出雲大神』によると、大穴持伊那西波岐神社は出雲大社の北方向、簸川郡鷺浦にあり、稲背脛命(いなせはぎのみこと)を祭神とし、鷺社とも称されていました。そして起源は不明であるものの疱瘡の守護神として人々の深い信仰を集めるようになりました。元和年間、出雲国松江藩の第二代藩主堀尾忠晴の文書として、江戸で疱瘡が流行していることから、こちらへ平癒祈願の者が送られ、祈念料としてお米がお納められた文書が残っています。
※56 野田泉光院(1935)『日本九峯修行日記』杉田直, p.185
『日本九峯修行日記』第2巻, 文化11年4月16日条
国会図書館デジタルコレクション, 124コマ
https://dl.ndl.go.jp/pid/1235370/1/124
 

なかなか病状が回復しない時も決して諦めず、何とか治る道はないだろうかと手を尽くしていた父の姿は、病に伏せていた子にとってどんなに心強かったことでしょう。それは医師の治療がもたらす病気回復の働きとはまた別の、大きな心の力になったはずです。

2023/3/25 長原恵子
 
関連のあるページ(鳥取西館新田藩・松平冠山(池田定常)公と露姫
「幼女の言葉に宿った新たな命と心の漣」
「我が子17名との死別後、新たな命を守る父の覚悟」※本ページ
「思いの限りを尽くした最期のお別れ」
「伝えたかった感謝と思慕の念」
「蝶と桜と雨に思いを乗せて」
「時空を超えて娘の真心と繋がるために」
「111字の中に秘められた思い」
「娘の死後, 娘を誇りに思って生きていく父の覚悟」
「玉露童女追悼集」(東京都台東区指定有形文化財)
「切なる思いを括り猿に託してー 紙袋の裏の前書きと和歌 ー」