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111字の中に秘められた思い

これまで鳥取西館新田藩 第五代藩主池田定常(松平冠山)公の十六女・露姫について取り上げてきました。今日は第7回目です。露姫の死後、ポツリポツリと見つかり始めた遺筆ですが、謎解きのようなメッセージも見つかりました。今日はそちらをご紹介します。情報の原典は前回と同様、冠山公の命を受けた腹心の臣下 服部脩蔵によって編まれた露姫の生涯記「むとせの夢」(※1)となります。

---※---※---※---

■111字の不思議な書状
文政6(1823)年1月14日、それは露姫の四十九日の逮夜(たいや:前日のこと)にあたるため、露姫の母や姉たちは格別に思い出話にふけっていました。その際、母たへはふと思い出したことがありました。まだ露姫が元気であった頃、「おたへさま つゆ」と記されたものを渡されていたのです。そこには朴訥とした露姫の筆跡がぎっしりと連なっていましたが、どうも意味を成すようなものではありません。そのためたへは特に意味のない遊び書きだろうと思い、しまったままにしていたのでした。ちょうど逮夜から3日前の1月11日、露姫が父宛てにしたためていた禁酒のメッセージが見つかっていました。ですから「娘は私にも何かメッセージを残してはいないのだろうか……」そう思い、たへは記憶を辿ったのでしょう。

たへは露姫から渡された紙を取り出しました。そこに書かれていたのは111字のひらがなでした。露姫の姉たちと一緒に考えてみましたが、やはりそれがどのような意味であるのか、まったく見当さえも付かなかったのでした。

さて露姫の記したものは一体どのようなものであったのか、実はそれが残され、現代にも伝わっています。平成31(2019)年、東京都台東区の指定有形文化財とされている玉露童女書状(1幅)(※2, 3)です。この書状の他に露姫の死を悼んで全国から寄せられた詩歌・絵画・手紙等が収められた『玉露童女追悼集』と露姫を模した坐像も同時に文化財として指定されています。

『玉露童女追悼集』については別稿で詳しく取り上げたいと思いますが、父冠山公が文政7、8年の頃、浅草寺に奉納した(※4)と考えられています。また坐像は文政11年2月浅草寺に奉納後、本堂内の愛染明王脇に安置され、同年11月には露姫の七回忌法要が同寺で行われたことが明らかになっています(※5, 6)。書状の奉納について今回詳しい情報が見つからなかったのですが、過去複数回、露姫の冥福を祈り、露姫ゆかりの品が浅草寺に奉納されていたことを踏まえると、この書状も同様の目的でいつの頃か奉納されたものだろうと考えられます。

2023年10月現在、台東区の文化財を紹介するウェブサイトでは書状の写真は掲載されていませんが、国の文化遺産オンライン「玉露童女追悼集 附 木造玉露童女坐像 玉露童女書状」(※7)で探し当てることができました。当該ページの画面には、最初に大きく鳥の絵が表示されます。これは酒井抱一の描いた白鷺図で『玉露童女追悼集』第8巻の13番目に登場するものです。この写真の下に4点小さなサムネイルが表示され、向かって左から3番目の「玉露童女書状」がたへに宛てた露姫の書状となります。露姫が書き遺した書状はいくつも見つかっていますが、こちらの書状は「沓冠折句(くつかぶりおりく)」を応用した文中に、実に心に染み入るメッセージが隠されています。そのため単独で表装され、浅草寺に奉納されたのだろうと思います。

あどけなさが残る、しかし一つ一つ一丁寧に書かれた文字には、露姫の一生懸命さや真心が伝わってくるようです。そこには次のように書かれていたのでした。

まておくれといつて  しらぬかほては  しかたかないわな  きのとくたよ  のちにきな  かあさまもとの  いいおこてこさおと  まあいらしやいこ いまにはとかきますむ  ともよひにせ  のちにこおとゆ  めんとおたからの  なににかみいいこ  りましたはお  しまりますさに

こちら今は横書きで書いていますが、実際は縦書き15行のひらがなの並びとなります。文化遺産オンラインの写真の配列を元に、書き起こしたものを下に挙げてみます。

文化遺産オンラインの画像をよく見ると、右端に「おたへさま つゆ」と書かれた文字が反転して透けて見えます。たくさんの文字を書き終えた後、紙を折り、外側に宛名書きしたと考えられます。
書かれた文字をそのまま読むと、前半は何となく言葉として意味が通る部分もありますね。漢字を次のように当てることができます。「待っておくれと言って知らぬ顔では仕方ないわな、気の毒だよ。後に来な。母様元の・・・」

しかしながらこの後はどうにも意味が通じません。たへと露姫の姉たちは頭をひねるうちに、各行の最上段と最下段の文字を拾い、繋げてみることにしました。露姫の生涯記「むとせの夢」にはこの文字の羅列が縦書き5行に収められており、拝書した山崎美成の文字の右側には読者が間違いなく文字を繋ぎ合わせられるように、という計らいからでしょうか。文字の右側に「上」「下」、そして最後の文字には「〇」の添え書きがあり、どの文字を繋ぎ合わせれば良いかわかるようになっています(※8)

ここでは露姫の実際の書状と同じ縦書き15行の配列で「上」が付された文字を赤、「下」が付された文字を青、「〇」が付された文字を緑字で示してみます。

この「上」「下」「〇」が添え書きされた文字(図2では赤・青・緑字)を順に並べてみると、次の文章ができあがったのでした。

し の 
の 

何と五七調の美しい和歌になっているではありませんか。ひらがなだけではわかりにくいので、ここで私なりに漢字を当てはめてみます。

「待てしばし  亡き世の中の  暇乞い  六歳の夢の  名残惜しさに」

この和歌は一体どのような意味が込められているのか、意訳してみます。

「どうかあともう少し待ってください。これから私がこの世を去るにあたり、お別れの挨拶をしなくてはならないとしても……。(数え年)6歳の幼い身ではありますが、私にはたくさんの夢がありました。でもこの世でもうその夢を叶えることはできず、これで私の人生、終わってしまうのかと思うと、お別れするのが何とも名残惜しいのです。」

「待てしばし……」そう誰かに呼びかけているかのような言葉が文頭に登場します。自分の人生は終わりが近いとわかっている、そしてその運命に抗うことはできないけれども、どうにかあともう少し、時間の猶予をもらえないだろうか。そう願う切実な露姫の思いが表れています。これを書いた時期を特定する情報は「むとせの夢」には出てきませんが、少なくとも数え年6歳を迎えた文政5年の元旦以降、露姫が命を奪われることになった疱瘡(ほうそう:現在の天然痘のこと)に罹患した11月上旬までの間、元気に過ごしていた時期だと考えられます。露姫はどうしてこのような死を意識した和歌を詠み込んだ文を書いたのでしょうか。

「<死>とはこの世のすべてと、お別れすることだ」そう露姫が捉えていたのならば、死を阻止するために誰か力を貸してくれないだろうかと思ったことでしょう。人生の長さがあらかじめ決められているのだとしても、神仏ならばそれを覆すことができるかもしれないと考え、「待てしばし……」を神仏に向けたのかもしれません。露姫は特に鬼子母神や観音様への信仰を篤く持っており、よく参拝にも出かけていました。たとえ無理な願いであるとはわかっていても、この気持ちを書かずにはいられない、そんな露姫の必死な気持ちがここに表れています。

■文字に願いを込めて
露姫はなぜ、自分の気持ちをすぐにわかってもらえる31字の和歌ではなく、111字の文字の中にわざわざ思いを散りばめ、埋め込み、理解を得るために回り道を取る形をとったのでしょうか。たとえばストレートに思いを和歌に詠み、母たへに渡したとしましょう。恐らく母は驚き、狼狽し、心配し、娘が本当に何か虫の知らせを感じているのならば、娘の命を守るために親として何か行動に出ていたでしょう。感染症なのか、何らかの病気であるのか、あるいは死に至るほどの外傷や中毒が起こるのか、事故に巻き込まれるのか、様々に考えられる要因に対して策をとっていたはずです。仲良しの長屋の子たちとも遊んではいけない、来客があっても会ってはいけない、外にお出かけしてはいけない、健康増進、病気予防になる薬を手に入れて飲ませ、常に母の目の届くところに露姫をいさせ、食べ物はすべて母が毒見し、昼も夜も母が露姫を見守る、そんな窮屈な生活を送っていたかもしれません。しかしそれは露姫にとって、決して楽しい時間とは言えません。それでもこの気持ちを伝えないまま死んでしまうのは嫌だ。それゆえ、こっそりと母に伝えるための方法を考えたのではないでしょうか。露姫は恐らく武家の子女のたしなみとして「沓冠折句(くつかぶりおりく)」を既に学んでいたのではないかと思われます。年齢的に随分早い気もしますが、一回りほど年の離れた兄や姉の中で育ち、来訪した僧侶が行う法話も大人に混じっておとなしく聞くようなこどもでしたから、さもありなんと思えてしまいます。12世紀初頭、歌人の源俊頼によって書かれた歌論書『俊頼髄脳(としよりずいのう)』を紐解くと、沓冠折句について「十文字ある事を句のかみしもにおきてよめるなり。」(※9)と記されています。分散させた十文字を句の頭と末尾に置き、一見すぐにはわからないものの、その十文字を再び繋ぎ合わせたら、伝えたいメッセージが浮かび上がってくる、というものです。たとえば次に示す第58代天皇 光孝天皇が詠んだ歌は、沓冠折句の代表的な歌としてよく取り上げられます。

あふさかも はてはゆきゝの せきもゐず  たづねてこばこ きなば返さじ(※10)

漢字を当てはめてみると「逢坂も 果ては行き来の 関も居ず 訪ねて来ば来 来なば返さじ」となります。「近江国と山城国の間に設けられていた逢坂の関は、夜更けになってしまえば人々の往来を取り締まる関守もいなくなります。だからもしあなたが私の所に訪ねて来たいのなら、どうぞいらっしゃい。あなたが来たならば、私はあなたを追い返すようなことはいたしませんから。」という随分艶っぽい歌のように聞こえます。しかしながら沓冠折句の技法を念頭に読解してみると、次のようになります。  

ふさか てはゆきゝ きもゐ づねてこば なば返さ
あはせたきものずこじ
あはせたきものすこし(合わせ薫き物少し)

つまり「合わせ薫き物(=練り香)を少量用意してください」というメッセージが、ここには隠されていたのでした。光孝天皇と露姫、それぞれ文字の繋ぎ合わせるルールは異なりますが、露姫は沓冠折句のエッセンスを踏まえて書いたと言えます。とても数え年6歳の幼女の作とは信じ難いほどの出来映えです。露姫は大変思慮深く、他者への優しさに溢れた幼女でしたが、こうしたエピソードからも聡明な一面を窺い知ることができます。

露姫の書状が実は自らの死が近いことをすっかり了承した上で綴られたものだとわかり、母たへはどれほど驚いたことでしょう。そしてわざわざ自分宛てに書かれたものであったにもかかわらず、当時気付くことのできなかった自分に対して、腹立たしさを感じたかもしれません。しかしそれは母が憂慮することなく、できるだけいつも通りに、最期の時間を楽しく過ごしたかった露姫の願いに基づくものだったのです。

「むとせの夢」の中には母と露姫の姉たちによる謎解きの部分が記されただけだったのですが、宮崎成身の『視聴草』2集の7(※11)には、露姫の遺筆として「まてしはし なきよのなかの いとまこい むとせのゆめの なこりおしさに」と既に句になったものが、露姫の筆跡によって登場します。

露姫は暗号のような文字の羅列と答えになる和歌、その二つをあらかじめ用意していたのですね。母には文字の羅列だけ渡し、答えの和歌は他の遺筆と同様に机の引き出しや箪笥の中等、家の中のどこかにこっそり隠ししまっていたのでしょう。そして服部脩蔵によって「むとせの夢」が編まれた後、ようやく和歌の形をとった答えの書が見つかったと考えられます。「やっと見つけてくれた!」と露姫は喜びでいっぱいだったでしょう。また母たへは現在の時間に生きる自分と過去の時間に生きていた娘との新たな繋がりを見出し、自分を慕っていた娘の気持ちを改めて感じ取ることができたのではないでしょうか。

■露姫にとっての夢とは
新たに見つかった和歌の最後にも「おたへさま つゆ」と記されていました。母に伝えたかった露姫の「6歳の夢」とは一体何だったのでしょうか。それを考える上で注目したい事実が一つあります。それは参勤交代に伴う母・娘の分離生活です。文政4(1821)年4月、それは露姫の死から1年半ほど前のことになりますが、露姫は母たへとしばらく離ればなれで過ごさなければならない事情がありました。参勤交代で国許に戻る第七代藩主定保公の命を受け、定保の生母でもあるたへは主君に随従することになったのです。露姫は自ら江戸に残ることを選びました。定保一行が出立した日の夕方、露姫はお供の者らと連れ立って馬場に出かけました。江戸にはいくつか馬場が散在し「むとせの夢」には「御馬場」としか書かれていないためどこであるか断定はできませんが、恐らく鉄砲洲の上屋敷(現在の聖路加ガーデン辺り)から西に約1km、馬場の中でも最も近い位置にある采女ケ原の馬場(現在の東銀座駅の辺り)のことを指しているのでしょう(※注1)。乗馬の訓練をするわけでもない幼女がなぜ馬場に出掛けたのでしょうか。ここで参考になるのが『江戸名所図会』です。文政4年から13年時代が下った天保5(1834)年に発行された『江戸名所図会』巻1に「采女ケ原」が登場します(※12)。采女ケ原はかつて松平采女正定基(まつだいら うねめのしょう さだもと)の屋敷だった跡地に設けられた馬場でした。『江戸名所図会』によると西本願寺(現在の築地本願寺)を遠景に、万年橋の手前に細長い馬場が開け、人々が思い思いに乗馬を練習しています。馬場沿いに講釈師や浄瑠璃等の見世物小屋が軒を並べ、入りきらないほどの見物人で賑わっている様子が描かれています。家・屋敷が密集する江戸の街中において、広々とした馬場は露姫の心を解き放ち、活気ある店の並びは気持ちの昂揚を後押ししたとも言えます。

露姫は馬場で「たへ、たへ」と母の名を大声で叫びました。定保一行が上屋敷を出立する際、露姫が母の名を呼び泣きじゃくれば、母は後ろ髪引かれる思いを増し、江戸の上屋敷に引き続き残る父冠山公をも悩ますことになってしまいます。そのため露姫は出立を見送る時、ぐっと気持ちをこらえていたのでしょう。馬場で露姫は周囲の者に尋ねました。ここで母の名を呼べば、母の所までも届くだろうかと。ああ、やはりいくらしっかりした露姫であっても、まだ幼いこどもだったのです。定保一行は恐らく、道中の安全確保のために暗くならないうちに最初の宿に到着するよう予定を組み、朝の内に出立したはずです。夕刻の江戸でどんなに露姫が声を張り上げたとしても、届くはずなどありません。それは露姫本人も重々わかっていたはずです。それでもその思いを心の中にしまっておくことは耐え難く、心の声を叫ばずにはいられなかったのでしょう。「むとせの夢」には「比御言葉の切なるに、人々皆なミだとゞめあへず。」(※13)と記されています。お供の大人たちは露姫の言葉に大きく心揺さぶられ、流涙を抑えられなかったのでした。

またその後、別の折に周囲の者が露姫をからかい半分で、どうして母は愛おしいはずの露姫を江戸に置いて国許へ行ってしまったのだろうか、と言ったことがありました。その時、露姫は泣き崩れてしまうのではなく、むしろそのようなことを言ってはいけないと大人をたしなめました。また藩主の命に従って随行した母たへの選択の正当性を主張したのでした。そして母と兄が不在となった上屋敷で暮らす父冠山公の寂しさを案じ、自分が父の傍に残って話し相手になるつもりであることをはっきり伝えました。一行が出立した当時、露姫はまだ満3歳半。現代風に言えば保育園の年少組に新年度入園した4月の頃の出来事です。年齢に似つかわしくない思慮深さ、そして露姫の健気さにきっとからかった大人も改心し、自分を恥じたことでしょう。

このあと母不在の生活の中で露姫は駄々をこねたことはなかったようです。唯一、記録に残されているのはその年の10月22日に「今が来年ならば良いのに」と侍女らにそれとなく漏らした言葉でした(※14)。なぜ日付まで明確にわかっているか?それはこのエピソードを知った冠山公が露姫の寂しさを痛いほど察し、月日を書き留めていたからです。来年の春になれば兄は参勤交代の務めを果たし終え、兄も母も江戸に戻ることができるのです。来秋には楽しいひとときを分かち合えているはずです。それを心待ちにしている露姫の気持ちを不憫に思った冠山公は、国許へその旨を知らせたのでした。

「六歳の夢の名残惜しさに」そう詠んだ露姫にとって「夢」とは、家族が離ればなれになることなく、共に楽しい時間を過ごせることを指していたのだろうと思います。文政5(1822)年3月、兄一行が参勤交代から江戸の上屋敷に戻ると、露姫は朝夕、兄の部屋に顔を出しました。「殿もことにいとほしミ給ふ」(※15)とあることからも、まさに「むとせのゆめ」を日々の中で一つずつ叶えていたと言えますね。

冠山公の腹心の臣下であった服部脩蔵が冠山公から露姫の生涯を記すよう命じられた時、そのタイトルを「むとせの夢」と名付けたのは、露姫のこの「まてしはし なきよのなかの いとまこい むとせのゆめの なこりおしさに」から取られたものと考えられます。露姫の大事にしたかったものを生涯記のタイトルに選んだ脩蔵の気持ちも、実に心に響くものです。

次回へ続く

<注>
注1 人文学オープンデータ共同利用センター 江戸マップβ版 尾張屋版 築地八町堀日本橋南絵図(位置合わせ地図)(注1a)を参照すると、画面中央に位置する緑色の長方形が見えます。ここが采女ケ原です。その右下に朱色で塗られた正方形の敷地は西本願寺(現在の築地本願寺)と記されています。このページの画面左上にある縮小ボタン「ー」をクリックして表示範囲を拡大すると、西本願寺の右方向右端、水路を挟んで二つ目の区画に淡黄色で示された池田家の定紋と共に「松平淡路守」の表示があります。
この詳細はLana-Peaceエッセイ「我が子17名との死別後、新たな命を守る父の覚悟」(注1b)でも紹介しましたが、この絵図は第八代池田(松平)清直公の時代に作図されたものとなるため「淡路守」と書かれているわけです。
注1a 人文学オープンデータ共同利用センター 江戸マップβ版 尾張屋版 築地八町堀日本橋南絵図(位置合わせ地図)
http://codh.rois.ac.jp/edo-maps/owariya/02/georef/?lat=35.669107&lng=139.768242
注1b Lana-Peaceエッセイ
「我が子17名との死別後、新たな命を守る父の覚悟」 長原恵子
https://www.lana-peace.com/2/2-2-034.html 
 
<図・資料>
図1 玉露童女書状 書き起こしたもの (長原作図)
図2 玉露童女書状 書き起こしたもの (文字色改変) (長原作図)
資料1 宮崎成身『視聴草』2集之7「幼女遺筆」
国立公文書館デジタルアーカイブ, 34コマ
https://www.digital.archives.go.jp/img/4044262
   
<引用・参考文献・ウェブサイト>
※1 服部 遜 謹撰(1824)『玉露童女行状 全』牛島弘福禅寺蔵板,
「むとせの夢」
国文学研究資料館 新日本古典籍総合データベース, 21コマ
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200023937/
※2 東京都台東区 有形文化財 歴史資料
玉露童女追悼集 附 木造玉露童女坐像 玉露童女書状
https://www.city.taito.lg.jp/gakushu/shogaigakushu/shakaikyoiku/
bunkazai/yuukeibunkazai/rekisisiryou/gyokurodounyo.html
※3 東京都台東区 平成31年指定区民文化財 指定
https://www.city.taito.lg.jp/gakushu/shogaigakushu/shakaikyoiku/
bunkazai/bunkazaigaiyou.files/H31.pdf
※4 玉露童女追悼集刊行会(1988)『玉露童女追悼集 1』金龍山浅草寺, 序文
※5 東京都日野市ふるさと文化財課(郷土資料館)(2021)「No.8「勝五郎生まれ変わり物語」の調査と発信事業」『令和3年度日野市郷土資料館の運営の状況に関する評価書』, p.14
https://www.city.hino.lg.jp/_res/projects/default_project/
_page_/001/022/826/r2siryokanhyoka.pdf
※6 東京都台東区文化財「玉露童女追悼集 附.木造玉露童女坐像、玉露童女書状」
https://www.city.taito.lg.jp/gakushu/shogaigakushu/shakaikyoiku
/bunkazai/yuukeibunkazai/rekisisiryou/gyokurodounyo.html
※7 文化遺産オンライン
玉露童女追悼集 附 木造玉露童女坐像 玉露童女書状https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/438786
(表示画像一列中、左から三番目)
※8 前掲書1,
国文学研究資料館 新日本古典籍総合データベース, 26コマ
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200023937/
※9 源俊頼『俊頼髄脳』, 佐佐木信綱編(1940)
『日本歌学大系 第1巻』文明社, p. 170
国立国会図書館デジタルコレクション, 96コマ
https://dl.ndl.go.jp/pid/1256957/1/96
※10 前掲書9 , p. 170
国立国会図書館デジタルコレクション, 96コマ
https://dl.ndl.go.jp/pid/1256957/1/96
※11 宮崎成身『視聴草』2集之7「幼女遺筆」
国立公文書館デジタルアーカイブ, 34コマ
https://www.digital.archives.go.jp/img/4044262
※12 斎藤幸雄 編, 長谷川雪旦 画(1928)『江戸名所図会』 巻1, 「采女が原」吉川弘文館, pp.151-153,
国立国会図書館デジタルコレクション, 96-97コマ
https://dl.ndl.go.jp/pid/1176676/1/96
※13 前掲書1,
国文学研究資料館 新日本古典籍総合データベース, 14コマ
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200023937/
※14 前掲書1,
国文学研究資料館 新日本古典籍総合データベース, 14コマ
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200023937/
※15 前掲書1,
国文学研究資料館 新日本古典籍総合データベース, 15コマ
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200023937/
   
   
 

この世の命の長さは限られていても、亡き人の思いは言葉によって受け継がれていくことが、露姫のエピソードからもよくわかります。
そしてたとえ幼児であっても、自分の最期は自分らしく自分の望むように過ごしたい、その意思を強く持っているのだと改めて感じさせられます。

2023/10/8 長原恵子
 
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