病児・家族支援研究室 Lana-Peace(ラナ・ピース)
Lana-Peace 「大切なお子さんを亡くされたご家族のページ」
大切なお子さんに先立たれたご家族のために…
 
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長く患う我が子と共に時間を過ごしながら、いろいろと命の在り方について考えを重ね、心を鎮めよう、納得しようとしても、我が子の短命を受け入れ難い…そのような気持ちになる方はたくさんいらっしゃいます。
今日はそのような例として、「荒城の月」の作詞家であり、また英文学者として有名な土井晩翠氏について、ご紹介したいと思います。既に晩翠氏の長女照子さんの死については、奥様八枝さんの心情を中心にこちらでご紹介しましたが、今日は、照子さん逝去の翌年亡くなった長男英一さんの死について取り上げたいと思います。

1909(明治42)年9月17日、土井晩翠・八枝夫妻に長男英一さんが誕生しました。英一さんは幼い頃から誰か人の役に立つことを率先して行う、優しいお子さんでした。学業も非常に優秀で、先生方から勧められて小学校6年の卒業を待たずに5年修了時に受験し、13歳で宮城県立仙台第一中学校に入学し、その4年後には二高理科甲類へ首席で合格したほどでした。

しかし残念なことに、英一さんは体調を崩し、二高入学と共に1年間の静養が医師から命じられたのです。軽井沢で転地療養を行い、良くなったり悪くなったりを繰り返す病床生活の中でも、英一さんの目は常に外の世界に向かっていました。

たとえば慈善切手の発案です。英一さんはドイツ人の文通相手から、遠い海を渡って送られてくる手紙に慈善切手が貼られていることに気付いたのです。英一さんは日本でも同様の切手ができないものだろうかと考えました。そして切手の売り上げの一部が、ハンセン氏病を患う方々の救済資金にされることを望んだのです。
英一さんはただ思うだけではなく、行動に移しました。ドイツから切手の見本を取り寄せ、東京日日新聞に自分の思いを投書したのです。その記事は1930(昭和5)年10月9日の角笛欄に掲載されました。

英一さんは結核であり、療養生活は長くなりました。当時、結核は不治の病とされていましたから、晩翠氏の心はきりきりと痛んだことでしょう。共に生活をする父として何ができるか…?晩翠氏のとった行動を見ると、そこには高名な文学者としての姿ではなく、晩翠氏も一人の子の親であったことがよくわかります。
例えば病床で神経が過敏になっている息子の人生の伴侶には、のんびりした女性がいいと考えたこともありました(※1)。※1昭和8年3月14日の日誌
そして、屋根裏のネズミに頭を悩まし、隣家のこどもの花火にも頭を下げに行きました(※2)。

英一の神経があまりにも敏感なので昨今の病床における彼にとって、いろいろのわづらひがある。

天井の鼠のさはぎもその一つ、そこで此鼠害を――その音におけるを――除くべく天井(板の間)を少し切り取り、そこに懐中電灯をおく。光のあるところに鼠はやって来ない。

隣家の少年が花火の弄戯で猛烈な音をたてるのも同じく英一へのわづらひ。おくわしを私が持参して「大病人が目の前にねてゐるから、どうぞやめて頂戴!」といふた処、素直に承諾してくれたのは大友氏の伜、美少年である。中学の一年生か。※3

引用文献:
黒川利雄(1971)『生誕百年記念 晩翠先生と夫人 資料と思出』 ※2 昭和8(1933)年7月9日の日誌

病魔が息子の体を蝕み続けているそのそばで、晩翠氏は人の命、生と死について、いろいろと考えを巡らせていました。

愛するEの生死は天命。※3

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西洋医学の見地からは不治の重病。彼は善人で此世のために努力し、慈善切手の発行などについて努力し来たのだ。
不治の病で斃(たお)るるとも「善人には禍到らず」
――来世(霊界)に於て恵まるるであらう。
一方においてまた三世因果の大真理を思ふべきである。※4


引用文献:
黒川利雄(1971)『生誕百年記念 晩翠先生と夫人 資料と思出』 ※3 p.20 昭和8(1933)年3月14日の日誌より
※4 p.21 昭和8(1933)年4月30日の日誌より

来世(霊界)といった言葉を記したのは、夜遅くに英一さんに再び濃い血尿が見られた時でした。重症な症状を目にして、晩翠氏の心もだんだん死を現実のものとして、捉えていたのかもしれません。そして、死後、英一さんは安寧な世界で過ごせるよう願わずにはいられなかったのでしょう。
その後、日誌の中には孔子の弟子の子夏の言葉「死生有命」であったり、仏教の中に出てくる教えを用いて、何とか自分の心の中を落ち着かせようとしている晩翠氏の姿が垣間見えます。

死生は天命。孔夫子も五十にして天命を知ると仰せられた。
死生は一如「一切法は宇宙を本として不生不滅……」と心経は曰ふ。神仏を信ずるものにとりては何かあらむ。
――ただ浮世の煩悩が邪魔をして生に拘泥せしめる。

引用文献:前掲書, p.22
昭和8(1933)年5月20日の日誌より

いろいろな昔の名言を取り上げて考えてみても、そうは言っても、息子に先立たれることはあまりに悲しすぎ、息子の命が長いものであることを願わずにはいられないというところだったのでしょう。

英一さんの厳しい状況が続く中、6月には晩翠氏の脳裏には、次女の信子さんの息子を土井家の跡継ぎにしたいという思いが浮かぶようになっていました。そして翌月、信子さんは次男の亨さん連れて、仙台にお見舞いにやってきたのです。晩翠氏にとっては孫の亨さんと初めての対面でした。
二十代半ばの病床に臥せる長男と、活力に溢れる赤ちゃん(孫)を見て、晩翠氏の心は大きく動揺したようです。

テニスンのIn Memoriam中の名句「愛して而して失ふは初めより愛せざるに優る」――これも理論上である。
失ふはあまりにもつらい。

引用文献: 前掲書, p.24
昭和8(1933)年7月9日の日誌

「テニスンのIn Memoriam」とは、19世紀のイギリスの詩人アルフレッド・テニスン(Alfred Tennyson)の「In Memoriam」のことです。
「愛して而して失ふは初めより愛せざるに優る」とは、愛した人を失うことは辛すぎるから、初めからもう人を愛さないと思うよりは、愛したけれども、その人を失ってしまったという方がずっと優れているのだ…という意味だと思います。テニスンは詩にそう詠んでいるけれども、晩翠氏は実際そういう立場に立った時、そんな理論はあてはまらないと思ったわけですね。

その後、晩翠氏の日誌の中には英一さんの記録が登場するのは、8月1日が最後となりました。熱が高く、脈も速い英一さん。その姿に胸が締め付けられる思いだったことでしょう。晩翠氏は「悲観!」と一語で締めくくっています。
その日、晩翠氏は二高の校長先生と教頭先生から、何かあたたかい言葉をかけられたようです。その後に短く記した「感謝。」という表現の中に、どれほどその言葉が心に沁みるものだったか伝わってきます。

英一さんは1933(昭和8)年9月9日、家族に見守られて亡くなりました。お誕生日まで、あと一週間ほど、という時でした。臨終の間際まで、慈善切手のことが心残りで、それが実現するように後に託したほどでした。自分が瀕死の状態であってもなお、なお誰かこの世で病に苦しむ別の人々の幸を願おうとする息子の姿を見て、晩翠氏は英一さんの死が本当に無念で、残念であり、悲しかったことと思います。
この後、晩翠氏は霊魂や死後の生に対する認識を深められていきました。

 
お子さんが長患いの間、親の心は翻弄されるけれど、そうした間、注がれた愛情を、お子さんはしっかりと感じ取っているはず。   
2015/8/9  長原恵子
 
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