病児・家族支援研究室 Lana-Peace(ラナ・ピース)
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土井晩翠夫妻の長男英一さんは、あと一週間ほどで、満24歳の誕生日を迎えるという日、結核のために亡くなりました。前年に他界した長女の後を追うかのように長男までもが逝ってしまった悲しみは、土井夫妻を深い絶望の底へと突き落したのです。しかしそれから1年4か月ほど経ったある日、死後の世界を確信するようになり、気持ちが変わっていかれました。今日はそのお話をご紹介したいと思います。 

昭和9(1934)年12月28日、現在の東北大学の前身である第二高等学校短艇(ボート)部が松島湾内で練習中、ボートが転覆して、10名の選手が全員溺死するという事故がありました。当時、天候不良があったわけでもないのに、闊達な学生が一人残らず犠牲になってしまったこの悲惨な事故に、学生のご家族はどれほど苦悩したことでしょう。原因がわからず時間が過ぎるうち、二高の先生の中から「霊媒師を通した招霊をしてはどうか?」と、提案があったのです。その教授は弟さんを2人亡くされ、弟さんたちの招霊を何度か行ってもらっていたことがあったそうです。そこで霊媒師さんとして岩手から小林寿子さんが招かれることとなりました。

小林さんは一般家庭の専業主婦でした。しかし10歳の長男を亡くされた後から、息子さんの霊と交信できるようになり、そこから他の霊とのやりとりもできるようになりました。小林さんは決して虚言癖があるような方ではない、ということで、二高の先生方も小林さんを信頼して呼ぶことにしたのだと思います。

そしてついに、1935(昭和10)年1月26日、晩翠氏の自宅で招霊会が行われることになりました。当日、二高の関係者や遭難関係者、そして浅野和三郎氏、総勢35、6名の方々が集まりました。既に二高を定年退官されていた立場だったにもかかわらず、晩翠氏が自宅の二階を会場として提供したのは、我が子の死について、何一つ手掛かりの得られないままであった親御さんの、むなしさや悔しさを、感じ取っていたからでしょう。
また、これは私の推測の域を越えませんが、水死した学生たちの霊魂は、忽然と消滅したわけではないはず…と思う気持ちがあったのではないでしょうか。晩翠氏は欧米で発刊されていた『The Home University Library of Modern Knowledge』シリーズのうち、第24巻『Psychical research』の和訳を、手掛けていました。こちらウィリアム・フレッチャー・バレット卿 (Sir William Fletcher Barrett)によって1911年8月、初刊が出されましたが、晩翠氏の和訳は昭和4(1929)年の第6版から行われたのだそうです。原題は『Psychical research』というタイトルですが、中に書かれている内容から『霊界の科学的研究』と邦題をつけられました(※1)。

※1 参考文献A:
土井林吉(1948)「霊界の科学的研究について サア・バレットの「心霊研究」訳出の巻頭に序す」『晩翠放談』河北新報社, p.140

『The Home University Library of Modern Knowledge』のシリーズはいくつかのカテゴリーで構成されていますが、Internet Archiveで見てみると、この『Psychical research』は「Social Science(社会科学)」の下に分類されていました。ですからここに書かれているスピリチュアルな話は、摩訶不思議で怪しげなもの扱いになっているのではなく、サイエンスの一つととして確立されていたのでしょう。それゆえ晩翠氏が引き受けたのかもしれませんが…。

一方、その場に同席した晩翠夫人の八枝さんは、決して好意的な気持ちではなかったのです。招霊自体に疑いの眼差しを持っていました。

キリスト教信者である夫人は、死者の霊が出て話をするなんてそんな馬鹿なことがあるものか、出来たらその化の皮を見破ってやり度い位に思っていた(略)


引用文献B:
中山栄子(1961)『古今五千載の一人』少林舎, p.114

その招霊ではまず小林さんの息子の和彦君の霊が登場しました。たくさんの人が集まった席で緊張している母を憂い、優しい言葉をかけた後、いよいよボート部の指揮をとっていた石井五郎さんの霊に替わったのです。五郎さんの霊は遭難の様子を語り始めました。そして招霊会に参加していた人々が五郎さんにいろいろと質問し、それに答えていました。そのうち五郎さんの霊をまとった寿子さんは、招霊会に集った人々の中からある男性にしがみついて、謝罪し始めたのです。

その方はまさに、二高の短艇部長でした。それを知った八枝さんは非常に驚かれました。 小林さんはそもそも、短艇部長とは面識がないのですから。個人のお宅の二階に30数名もの人々が埋め尽くすということは、人、人、人…という感じで、誰が誰やら見分けをつけるのも大変だったはず。その中から、短艇部の部長さんを正しく見つけ出すこと自体、普通の状況では考え難いことです。 

豈計らんやこの情景に全く驚き入り、自分の狭い見聞のため迷信と思っていた誤りを悟り、それからは謙遜な心になってどこまでもこれを研究してみようと堅く心に誓ったのであった。


引用文献:前掲書B, p.114

この招霊会は、土井夫妻にとって大きな転機をもたらしました。そして土井夫妻は、人は亡くなった後も、霊として生き続けるのだと強く信じるようになったのです。
招霊会当時、土井夫妻は5人のお子さんを亡くしていました。20代で亡くなった照子さん、英一さんの他に、死産だった3名のお子さん。当時存命だったお子さんは、次女の信子さんだけでした。ご夫妻の傷心ぶりは次のように記されています。

(略)幼時に失った子供達三人を加えて全部の子宝を失われ、お二人は全く生きてゆく目標を失い、世の中が暗闇になった思いがされたという。 
多感の詩人は涙さえ浮かべて毎日嘆き悲しんでいる有様であった。先生は仏教信者であり夫人はキリスト教の信仰を持っておられた。「この世は仮の世界であり、永遠の次の世界に行く為の修行場である」ことを信じていながらも、どうしてよいのか非常に苦しまれた。


引用文献:前掲書B, p.112

そのような土井夫妻が、この世の死とはすべての消滅を意味するものではなく、亡くなった方と再びコンタクトがとれるのだと知った時、驚嘆と驚喜でいっぱいだったことと思います。その後、土井夫妻は小林さんを何度か自宅に招いて、お子さんの招霊をするようになりました。その場には夫妻の友人や、お子さんの学友が同席することもあったそうです。
後出の文献の中には、土井夫妻が我が子の招霊を科学的に検証せず、盲目的にそこにのめりこんでいったと評しているものもあります。しかしお子さんとご夫妻本人しか知らない情報が小林氏の口を通じて語られることにより、疑念が介在する余地など少しもなかったからこそ、何度も小林さんを呼び、招霊を行われたのでしょう。八枝さんは非常に信頼を寄せていた友人に、次のようにお話をされています。

小林夫人の御身体を拝借して出て来た霊は、私共の愛する娘と息子に毛頭相違ありませんでした。この時の思いは千万無量、到底筆舌には尽くすことが出来ません。
今はこの世にない最愛の二児が霊界に生きていて、小林夫人の御身体を拝借すれば、何時でも話が出来るという事実を知った時の驚喜は無上無限、全く自分達夫婦の魂の復活でした。


引用文献:前掲書B, pp.114-115

招霊は土井夫妻に「魂の復活」と表現されるほどの、強い生きる活力を引き出したのですね。昭和11(1936)年3月に行われた晩翠氏と英一さんの霊との対話を見ると、晩翠氏の心が静かに深く癒されていった様子がよくわかります。

その時、英一君の霊は
「お父さん! お父さんはこの間『文化』に行つたでしよう。」
というと、先生はいかにも生きている英一君に向つて話すように
「行つたよ。お前それを見てたのか?」
「ええ」
「その時お父さんは『大学よいとこ』見て
  泣いていましたね――。」
「お父さんらしくもなかつたですよ。」といつた。

すると先生は
「お前にはその気持わからんだろう!」
「お前が大学に行つてた時のことが思出されて
泣かざるを得なかつたよ。」といわれた。

英一君はまた、
「お父さん、この世(あちら)には悲みというものは
ありせんよ。」と答えた。

すると先生は安心されたように「そうか、そうか。」といつて頭をさげておられた。


引用文献C:
成田正毅(1955)『想い出の土井晩翠先生』晩翠先生を讃える会, pp.79-80

また、死産であったお姉さんも、登場しました。まずは英一さんの霊が現れて、学友と挨拶を交わされた後、お姉さんの霊が登場したそうです。

そのあとに光子さんという少女の霊(死産の女子の由)が現われて可愛いい声で「今夜のお集りを歌に作ってみましょう」といい乍ら三十一文字の和歌を即吟し、俳句も一つといって、今は秋ですねと季節をたしかめてから十七文字にまとめた。


引用文献:前掲書B, pp.115-116

以前、こちらで死産した赤ちゃんが、天国で成長をしていたという話をご紹介いたしましたが、土井夫妻の死産した赤ちゃんも、霊界で成長していたということなのでしょうか。
夭逝したこどもを思い出す時、不憫さがこみあげて胸がいっぱいになるかもしれませんが、死後、親の思いを超えてあちらの世界ですくすくと成長し、親を気遣うような優しい心も育っているのですね。

二高の学生さんの招霊を契機として、お子さんの招霊に至ったわけですが、それは晩翠氏にとって霊魂の不滅と永遠の生への深い確信をもたらしたことでしょう。そうした考えを否定する人々のことを晩翠氏は「偉大なる先達の努力と研究――六十年に互りて蒐集し、検討し、證明せる山積の事実を知らず、既得の知識を唯一の標準として心霊世界の一切の諸現象を迷信と称し、誤謬と笑ふのは「井底の蛙大海を知らず」で、いかにも気の毒千万である」(※2) と記しています。
また昭和11(1936)年3月22日、東京で心霊現象に対する座談会(主婦之友誌昭和11年5月号掲載)が開かれた際、心霊研究に造詣の深い浅野和三郎氏及びその兄の浅野正恭氏、土井家のお子さん方の招霊に携わっていた小林寿子氏、そして主婦之友社 社長の石川武美氏と共に参加された晩翠氏は「此座談会筆記を読まるる方の多数は、恐らく平生は如上の問題に関心を持つ暇のない方々であらう。それで心霊現象は愚夫愚婦女の迷信の対象ではない、厳然たる科学的事実であつて、之から多大の教訓と人生苦に対する慰安が求め得らるることを保證して一言する」(※3)と開会のご挨拶をされました。それは自分の発言が、決して我が子の霊との交信でまるで熱に浮かされた如く、浮足立った末の言葉ではないと、伝えたかったからだと思います。

※2 前掲書A, p.142
※3 前掲書A, p.144

そうした晩翠氏の思想の集大成は、次の言葉に現われていると思うので、最後にご紹介いたします。

しかし思へば目に見る現世界其物は三世に亘る霊魂の向上史上の一段階に過ぎぬ。
ダンテのプルガトリオの如く人間霊魂の修業道場である。
私は三世因果を永遠不滅の真理と信ずる。そして縁あつて本書の訳述を敢へてした。一切の先入見に煩はされず、虚心坦懐に本書を開かれんことを一般読者に切望する。


引用文献:前掲書A, pp.144-145

 
お子さんのこの世の命はどれほど短くても、その魂は永遠で、いきいきと成長し、あなたを慕い、愛情を送り続けていることを、忘れないで。
2015/9/26  長原恵子
 
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