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家族の気持ちが行き詰まった時

こちら(※1)ではフランスの画家アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックの両親、特に母アデルの苦悩と自己効力感について取り上げてきました。今日は彼女が如何ともし難い息子の病状を親としてどう受け止めていったのか、彼女の信仰にフォーカスを当てながら考えてみたいと思います。

---*---*---*---

母アデル・ド・トゥールーズ=ロートレック=モンファ伯爵夫人の実家はは広大な農地、ブドウ畑、各地の不動産物件を有する裕福な男爵家でしたが、敬虔なキリスト教徒の家族としても知られていました(※2)。信仰心が篤く、献身的で、自分の立場を受け容れ、子育にも熱心であった彼女はローマ・カトリック教会が理想とする全ての資質を備えていると言われていました(※3)。アデル26歳の夏、次男リシャールが明日は1歳の誕生日を迎えるという記念すべき日に病気で亡くなった時も、信仰心が薄れることはなく、神は試練に耐える力を自分に与えたと考えていた(※4)ほどでした。また長男アンリ(以下ロートレック)が9歳の春からキリスト教の教理の勉強(カテキズム)を受講開始しした折も、学校の勉強より神の教えの理解を深める方がずっと大切だと考えていました(※5)。彼女にとって神の教えは大きな道標であったことは間違いありません。

息子の頻発する身体の不調により母アデルの心が随分揺さぶられ、現状打破したいけれども手詰まり感でいっぱいだった時、神への信仰心が彼女を救ってくれました。7歳の息子を連れてアデルがルルド巡礼に向かったのは1872年5月のことでした。身体がなかなか大きくならないことと、もうすぐ8歳になるというのに年の割に舌足らずであった発音が気になり、息子の成長の行く末を大変心配していたからです。ルルドは19世紀半ば、出現した聖母マリアの奇跡により病人が治ったというエピソードが広がり、当時既に年間10万人もの巡礼者が訪れていた大注目の場所でした(※6)。ぜひとも神の御力によって息子のより良い成長を望みたい、そのためには単に心の中で祈るだけではなく、現地へ向かう行動として形に起こされていました。その気持ちは褪せることはなく、5年後の夏にもバレージュで療養をする前に再びルルドに寄っていたのでした(※7)

■十字架を背負うとは何か ー神と試練ー
ロートレックの骨格の成長障害は年を重ねるごとに他児との違いが明らかになっていきました。特に親族の中でロートレックと同年生まれであった男児ルイ・パスカルの存在はアデルに複雑な胸中をもたらしました。彼はフォンターヌ学院でもロートレックと机を並べ、また生涯にわたりロートレックの良き友でしたが、大柄で体力もしっかりしており、息子とルイの成長の差は歴然としていたからです。

フォンターヌ学院での生活も2年目に突入していたロートレック9歳の春、彼は優秀な成績を収めつつも身体は悲鳴をあげていました。痙攣や関節の痛み、重度の歯痛が起こっていたのです。そばで見ている母としてはやりきれない気持ちでいっぱいだったことでしょう。当時、地元の親族から離れて息子と暮らすパリでの生活に、アデルは深い悲しみと孤独を感じていました。彼女は姑宛ての手紙の中で意味深な表現をとっています。自分の人生の最大の利点とは、考える時間がないことだと主張していたのです。そして神から重い十字架を背負うにふさわしいと判断された時、それに対して不満を言える者などいないと心の叫びを綴っていました(※8)。考えることがないことを「人生の最大の利点」と表現することは、随分シニカルな表現である気がしますが、彼女なりの精一杯の受容、現状肯定だったのかもしれません。彼女が目を閉じても、耳を塞いでも、息子から痛みが消えるわけではありません。なぜ無情にも痛みは息子をこれほど襲うのか。当時どれほど医師が介入して治療しても解消されない問題を、医師ではないアデルがどうにかできるわけではありません。それならば、むしろ思い悩むような時間の余裕がない方が良いと思う気持ちもわかります。彼女の言葉の中にはよく「十字架」が登場していました。もちろん敬虔なキリスト教徒であるが故に、直接的な意味としてあるいは間接的な比喩として使っていたのでしょう。ただしアデルは比喩である場合、十字架すなわち試練が具体的に何を指すのか、いつも曖昧にしていたと伝わっています(※9)

■息子の左足骨折
そんなアデルにとって神への帰依を大きく揺さぶるショックな出来事が起こりました。それはロートレック13歳の初夏に起きた左大腿骨骨折です。
これまで息子の体調不良と成長障害を十分大きな試練だと感じていたけれども、神様はまだそう思っていないのか。人間として神に従わなければと思うけれど、さすがに今回の一撃は完全に私を打ちのめし、他に言葉が見つからない(※10)と、義妹宛ての手紙に赤裸々な心情を吐露しています。受傷後、早い時期から息子が明るい様子を見せていたことは、せめてもの救いだったに違いありません。この骨折では本来期待される治癒過程から大きく遅れをとったことから、かかりつけ医師も「医学の謎」と表現するほどでした(※11)。これもすべては神の思し召しなのか……そうだとしても辛すぎる。そうアデルの気持ちが葛藤しても不思議ではありませんね。

■翌年生じた息子の右足骨折
左足の骨折は時間がかかりながらもどうにか治り、杖を突いて歩けるようになっていた翌年の夏、更なる試練がロートレック親子を襲いました。今度は右足の大腿骨骨折です。母子が一緒に散歩していた時の受傷でした。二度目の骨折から六日後、母アデルは姑に手紙を書きました。再びの骨折だというのに息子は驚くほど活気があり痛みもなく、よく食べ、眠り、読書したり字も書ける。それは孫の様子を知りたい姑にとって、ほっとできるお知らせであったことでしょう。一方、共に綴られていたアデルの様子は対照的で看過できないものでした。「苦しんでいるのは私だけ……」それは嫁からのSOS発信でもあったのです。再びこんな試練に直面するとは思いもよらず、この気持ちをどう伝えて良いかわからない。自分はすっかりどん底で、こんなにも悲しい人生を送る自分に、今こそ精神的支えが必要だとアデルは姑に切々と訴えていたのでした(※12)

■悪条件が重なって……
アデルにとって文字通り息子と二人三脚で回復に向けて歩んできた道のりでした。一年かけてようやく戻ってきた日常、それが一瞬のうちに、それも今度はこれまで頑張ってきたもう一方側の足を骨折してしまったのです。振り出しに戻ってしまった落胆は筆舌し難いものです。左右は違えど同じ大腿骨骨折、そこに更にアデル側に悪条件が重なっていました。
その一つが療養環境です。最初の骨折時、受傷現場だった祖母宅からすぐに自宅のボスク城へ戻り療養しましたから、息子の生活を支えてくれる使用人たちもたくさんいました。生活空間としても馴染みの場所です。ところが今回は湯治先での出来事で人手は限られています。また息子よりも後に療養に来ていた少女たちが元気になり、歩いたり小走りできる姿も目にしていました。二度目の骨折からもうすぐ一カ月という頃、母の焦りと苛立ちはピークを迎えました。他の子らは元気になって帰っていくというのに、息子の回復は遅々として進まない。私も湯治場にいなければならない。その事実を彼女自身受け入れ難かったのです。神の意思に盲従するのは良いけれど、この苦境を私が悩むことにどんな意味があるのだろうと思ったら、ひどく落胆する……そう母親宛ての手紙に綴りました(※13)

■自分を信じる
2度目の受傷から1カ月以上過ぎ、9月を迎えそろそろ立ってみてはどうか、と医師がロートレックを支えながら立たせてみましたが、痙攣が起こってしまい立つことはできませんでした。そこに更に追い打ちになったのは家の経済問題です。ロートレック家の収入の大部分は所有するワイン用のブドウ畑の出荷と小作料に頼っていました(※14)が、その頃、ブドウ畑がブドウネアブラムシ(フィロキセラ)の被害を受け、大きな収入源の一つが失われる危機に晒されていたのです。息子の治療にはお金がかかるのは仕方ないのだからと姑から諭されました(※15)。しかし息子の回復は思わしくなく、その一方、どうやってお金を工面するべきかアデルは思案が必要でした。増々心の中は混沌とします。それでも一週間後、アデルは心を立て直していました。今回のことは初めてではないのだから、少しばかり孤独を感じても、きっと自分は耐える方法を見つけ出すだろう、と(※16)

■親が心をメンテナンスする意味
どんなに周囲から心を寄せられたとしても、苦しい状況を引き受けるのは、結局アデル本人しかいないのです。アデルは親としての責任を放棄するわけにはいかない、そう心の中で強く決めていたのでしょう。これまで病気やけがで息子は大変な経過を辿ってきましたが、必ずどうにか回復してきました。それを一番間近で見てきた母だからこそ「きっと自分は耐える方法を……」そう思えるのです。幾度も経験した打ちのめされるような思いは、決して彼女を屈服させたわけではなかったのでした。むしろ逆境に負けず、そこから更に立ち上がって進む精神力(レジリエンス)を自分のものとしていったのだと思います。彼女は本当に辛かった時、一時的に息子から離れて実家で充電して立ち直った時もありました。それはロートレックが8カ月近くパリ郊外で入院治療を受けていた頃のことです。あれから4年の月日が経ちました。もちろん物事がうまく運ばない時、思い悩む気持ちを消し去ることはできないけれど「初めてではないのだから」と自分を鼓舞し、立ち直る自分を信じられるようになったことは、驚異的な変化であると思います。苦境は神の与えた試練なのか、そう自問自答しながらも、次から次へとやってくる問題と向き合い、解決していく姿は潔さと共に凛とした強さと美しさを秘めています。

アデルが自分を信じることができたのは、どれほど大変な苦境であっても、それは神が「あなたは乗り越えていける人だ」と期待を寄せ、またそうした成長を遂げることを自分は神から願われていた存在なのだと思えたからではないでしょうか。つまり信仰の存在を通して自分で自分の価値を見出すことができ、自己肯定に繋がったということです。それはアデル本人にとって良かっただけではありません。息子であるロートレックにとって何より大きな良い影響をもたらしたことでしょう。10代前半、まだまだ成長過程です。自分の健康問題のせいで親が苦悩していることを知り、こどもが心を痛めたとしても、まだ親の庇護が必要な年齢です。だからこそ親の苦悩の行く先を方向転換していくことはこどもにとっても、大きな意味があるのです。

信仰があるから良い、ないから良くない、決してそういうことではありません。自分を信じられるようになる思考のきっかけは、信仰がすべてではないのです。大切なことはそういうきっかけを得られるかどうかです。一人で殻に閉じこもっていると、八方塞がりに感じてしまいがちです。他者との対話によって新たな視点、気付きを得ることで、今の自分の力を信じられるようになることもあるでしょう。

 
引用ウェブサイト・引用文献一覧:
※1 Lana-Peaceエッセイ 長原恵子
6- 先が見えない渦中で自己効力感を取り戻す時
※2 Julia Frey(1994) Toulouse-Lautrec : a life, New York, Viking Penguin, p.26
※3 前掲書2, p.13
※4 前掲書2, p.31
1868/8/30  母アデルから父方祖母ガブリエルへの手紙
※5 前掲書2, p.58
1874/4/27  母アデルから母方祖母ルイーズへの手紙
※6 前掲書2, p.48
※7 前掲書2, p.103
※8 前掲書2, p.58への手紙
1874/4/2  母アデルから父方祖母ガブリエルへ送った手紙
※9 前掲書2, p.58
※10 前掲書2, pp.87-88
骨折から2日後, 1878/5/15  母アデルが母方叔母アリックスに宛てた手紙
※11
前掲書2, p.93
1878/7/3  母アデルから母方祖母ルイーズへの手紙
※12
前掲書2, pp.104-105
骨折から6日後の日曜日, 1879/7/27  母アデルが父方祖母ガブリエルに宛てた手紙
※13 前掲書2, p.108
1879/8/19 母アデルから母方祖母ルイーズへの手紙
※14 前掲書2, p.35
※15 前掲書2, p.108
1879/8/27  父方祖母ガブリエルから母アデルへの手紙
※16 前掲書2, p.109
1879/9/3  母アデルから母方祖母ルイーズへの手紙
 
苦しい時こそ、これまで自分の歩んだ時間を振り返り、今の自分が携えている解決力を信じて欲しいなと思います。
2022/9/10 長原恵子
 
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