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療養中の出会いで得た内省と成長
濃化異骨症と共に生きたアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック

前回(※1)はフランスの画家アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックの幼少期、学童期のお話を取り上げましたが、今回は第2回目です。足の治療のためフォンターヌ学院を辞めて長期入院生活を送り、その後は足の不調の更なる悪化や感染症等に悩まされ、10代前半で2度も足を骨折した頃のエピソードをご紹介します。

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■親元を離れた長期療養生活
ロートレックは1875年1月15日、関節治療に定評のあったパリ郊外のヴェリエ医師の元に入院し、本格的に足の治療を受けることになりました。1年半にも及んだ治療でしたが期待された改善には至らず、1876年6月末、ボスク城に戻ってきました。退院時の彼は歩行時に杖を手放せない状態でしたが、父のハヤブサ狩りにお伴したり、狩猟の罠づくりを手伝ったり、のびのびした自由な時間を謳歌しました。その年の夏の終わり、彼が母に画板用のピンを4本購入するよう頼んだ手紙が残っています(※2)。きっと屋外での写生にも積極的に出かけていたのでしょう。精神的に張りのある生活の一方、足の不調は増悪し、翌年2月には足首に痛みが及ぶようになり、3月には母アデルがまるで足が木でできているようだと思う程、固くなっていました(※3)。特に左足の安定性が悪く、電気ブラシ治療を受ける話も出ていました(※4)。悩んだ母はついに息子の治療をヴェリエ医師に再び委ねようと決断しました。しかし今度は親子離ればなれの長期入院ではなく、ロートレック母子が滞在していたパリのホテルへの訪問診療です。足の負担を減らすために歩行禁止になり、毎朝ヴェリエ医師による足のすねのマッサージが行われました(※5)。足の状態が少し良くなると治療は隔日となり、他動運動や牽引等も始まりました。

この頃ロートレックの体調は足以外にも心配事が続きました。4月上旬には右中耳炎を起こし、聴力回復までに6週間を要すほど重症化しました。5月中旬には朝4時に泣きながら目覚めるほどの頭痛に襲われるようになりました。一難去ってまた一難です。そこで母アデルは息子を連れてバレージュに向かい、夏の終わりまで回復支援に努めました。当時バレージュの硫黄泉は様々な病気に奇跡的な治癒がもたらされる、とクチコミが広がっていたのです。翌1878年2月、避寒と療養のために訪れたアメリ=レ=バンではロートレックは麻疹(はしか)にかかってしまいました。その経過の中で激しく鼻出血が見られたり、気を失って倒れる等、心配な症状もありました。そのように具合が悪く伏せている時でも、ロートレックの心を支えていたのは「絵を描くこと」でした。そして豪華な水彩絵の具のセットを箱買いし、その絵の具を使えるように回復することを心待ちにしていました(※6)

■1回目の骨折
1878年5月13日(※7)、13歳のロートレックは人生の節目になるアクシデントに見舞われました。それはアルビの家の大広間でロートレックが両親、祖母のガブリエルらと共に座っていた時のことです。体調を崩した祖母の往診のため、アルビの主治医セガン医師がやってきました。父は息子に医師を出迎え、挨拶するように命じました。ロートレックは急いで低い椅子から立ち上がろうと杖を突いたその時です、床の上で杖が滑り、彼はバランスを崩して転倒してしまいました。左大腿骨骨折と診断され、重い段ボール箱を副木にして脚を固定されました。

最初の3日間は夜から朝まで父が付き添いました。ロートレックは歌ったり、本を読んだり、朗読してもらったり、笑顔も見られましたが、時折踵に刺すような痛みも起こりました。そういう時、看病で長く傍にいることの多かった叔父のシャルルが甥の求めに応じ、踵を撫でてあげました。ロートレックは幼い頃よりシャルルに絵の指導を受けており、気心が知れて甘えやすかったのでしょうか。またこれから始まる安静生活用にベッド上には彼の起き上がりを補助する空中ブランコのようなものが用意され、クッションの位置等も工夫されました。両親にとってまるで落雷の如く衝撃をもたらした息子の骨折でしたが、元気そうな様子が見られ始め、母の気持ちはようやく落ち着くようになりました。当時の家族総出の看病の様子は父方祖母の手紙(※8)に克明に残されており、いかに彼が親族の中で大切に育てられていたのかが伝わってきます。

骨折から一週間後、副木が外され、患部から膝下まで固定する装具を付けて更に1カ月、ベッド上での生活を余儀なくされることとなりました。その間、絵を描くことがロートレックの心を支えてくれました。教科書の余白は彼の描きこんだ風刺画や挿絵等で埋め尽くされました。またロートレックの良き理解者でもあった大叔母のジョセフィーヌは、彼の手掛けた作品を額装してくれました。自分の作品を他者が高く評価しくれる、その喜びは療養生活の中でどれほど大きなスパイスになったことでしょうか。

松葉杖で歩けるようになると、母子は温泉巡りを始めました。まずはアメリ=レ=バンに向かい、夏の間はバレージュの温泉で過ごし、秋になるとボスク城に戻りましたが、この年はいつもと違う光景が広がっていました。当時ボスク城近くに軍が駐留していたのです。騎兵隊、大砲隊、鼓笛隊、それらにがっちりと心を捉えられたロートレックは見学に出かけ、夢中でスケッチしました。この頃からロートレックは初めて、本格的な油絵を制作するようになりました。折しも前年の冬、叔父のシャルルからは巨匠の絵画や彫刻を忠実に模写し、そこに自分と巨匠の名前を記して作品を仕上げるよう指導を受けていました。そのような教育の中で学び得た構図や様々な技法は、彼がオリジナル作品を描く上でとても参考になったことでしょう。とは言え、最初は油絵の具を使いこなすだけでも一苦労でした。しかし少なくとも当時の9枚の力作が現存している(※9)ことからも、生み出す喜びは次の作品を生み出す原動力へと繋がったと考えられます。

翌1879年の1月中旬、まだ足に体重をかけることが怖く、脚力に自信もなかったロートレックは医師の勧めもあり、暖かい海沿いのニースで療養を始めました。ここで母は息子のために20歳の船乗りを家庭教師として雇いました。彼はレガッタのレースに出場するような活動的な青年でした。今迄の人脈にはないタイプの出現にロートレックはとても大きな刺激を受け、その嬉しさを母方祖母ルイーズ宛ての手紙(※10)の中でも綴っていたほどでした。
酸化鉄を豊富に含んだニースの温泉に何度も入り、ヨットレース観戦にも足繫く通い、フランス艦隊を招待見学する機会もありました。室内では船や水夫の絵を描く事が多く、切手収集にも熱中しました。そして船への情熱はニースからアルビに戻った後も醒めず、船の模型作りに励むほどでした。ニースでの日々はロートレックの身体にとても良い影響を与え、食欲旺盛、体力も水泳能力も取り戻し、未だ引きずるような歩き方ではあるものの、随分歩けるようになりました。

■2回目の骨折
1回目の骨折から1年経過後の1879年6月末、ロートレックはルルドを経由し、バレージュでの湯治に向かいました。あいにく季節外れの寒さと雨に見舞われましたが、ロートレックにとってはそれも良しです。多くの時間を絵画に費やしました。彼はパリから取り寄せた油絵の具一式をたいそう気に入っており、どこに出かけるにもその絵の具箱を持っていきました。しかし好事魔多し、再び彼の人生に楔を打たれるような出来事が起こったのです。1879年7月21日(※11)、ロートレックが母親と一緒に軍隊病院の先まで散歩していたところ、足を滑らせてしまい数フィート下の干上がった沢の底へと転落したのです。母が助けを求めに走っている間、彼はうめき声も涙も見せず、傷めた自分の太腿をできるだけしっかりと抱え、草むらの中で助けが来るのを待ちました(※12)。幸い転倒により頭をひどく打ったわけではなかったようで、意識は清明なままでした。その分、一人で待つ間、不安や恐怖も強まったことでしょう。前年とは反対側、右大腿骨を骨折してしまいました。

前年の骨折時に父とセガン医師が丹精込めて用意した骨折矯正補助の装具が、保管元のアルビの病院からバレージュに送られ、今回も使われることになりました。ロートレック本人はきっとショックだったはずです。これまでの1年以上にわたる努力の軌跡が、振り出しに戻ってしまったのですから。自暴自棄になって周りに当たり散らしたとしても、不思議ではない状況と言えます。しかし実際は正反対でした。受傷後間もない時期、母方祖母のルイーズに彼が送った手紙(※13)には、周囲の大人が思わずほろりとするような言葉が並んでいました。自分は痛みもなく、元気に過ごし、退屈していないから、どうか僕のことを心配しすぎないでほしい、むしろ自分の不器用さが招いた骨折なのだから、僕は周りから心配してもらう資格はないと綴っていたのです。夏の盛りですから、恐らく青々とうっそうと茂った草が散歩道を覆い、足元がよく見えないところもあったことでしょう。注意深く歩いていたら、滑り落ちるようなことはなかった、そう自戒の意味もあったのかもしれません。

彼の受傷を知り、多くの人々が彼を励まそうとお見舞いにやってきました。その中の一人が「ぶらんこ」(1767年)で有名なロココ後期の画家ジャン・オノレ・フラゴナールの孫でした。その少年は脊椎上部が彎曲して変形し、身長もそれほど高くはない身体的な特徴がありました(※14)。恐らく何か幼い頃から骨格系の病気を抱えていたと考えられます。彼は非常に気立ての良い少年で、彼からプレゼントされた子犬のおかげで、ロートレックは気持ちを上向きにすることもできました。

骨折から2週間後、ロートレックは水彩画を再開し、耕作馬を描きました。幼少期から馬を愛していた彼ですが、わざわざ「畑で働く馬」を選んで描き始めたことは意味深ですね。自分もあんな風に全身をめいっぱい使い力強く動いてみたい、そんな羨望の眼差しがあったのかもしれません。

受傷から1カ月経った8月下旬、足の装具が外され、秋にはボスク城へと戻りました。ロートレックは肌寒くても毎日短い散歩に出かけ、脚力を取り戻すよう努めました。そして翌1880年1月初旬には再び暖かいニースへ療養に向かい、船や船乗りの水彩画を多く描きました。その腕前は確実に上達していたようで、2月にニースにやってきた叔父のオドンは、甥の成長ぶりを喜ぶ手紙(※15)を祖母ガブリエルに送っていたほどでした。この年1880年、ロートレックは300枚ものデッサン、そして50点の油彩画を手掛けました(※16)

■エティエンヌ・ドゥヴィスムとの出会い
彼は人との出会いを通し、あるいは人々の支えを得て様々な成長を遂げてきましたが、特に大きな影響を及ぼしたのはエティエンヌ・ドゥヴィスムだと言えるでしょう。彼はロートレックよりも少し年上の少年で、ロートレックが1度目の骨折後、療養のため滞在していたバレージュで知り合いました。彼もまた歩行に松葉杖が必要な身の上だったのでした。お互い自宅に戻ってからも、文通を通してずっと友好を深めていきました。余談ではありますがロートレックが亡くなって9年後の1910年、ドゥヴィスムは俗世間から離れて修道院生活に入ることを決めた時、ロートレックから送られた8通の手紙を母親アデルに返却した(※17)と伝わっています。母親にとっては亡き息子の生きた証が手元に戻ってきたことで、どんなに嬉しかったことでしょう。

ドゥヴィスムは2度目の骨折時も、バレージュでロートレックの力になってくれました。装具装着中、ベッド上での限られた行動範囲の中、ロートレックはお見舞いに来てくれたドゥヴィスムと創作を通して、実に楽しいひとときを過ごすことができました。二人はアートに対する感性や嗜好が似ていたようです。かつてボスク城で叔父シャルルと一緒に作った船の模型をロートレックはわざわざバレージュに取り寄せました。そしてそれらに本格的な船装備を施す作業をドゥヴィスムと協力しながら熱中して行ったのです。和気あいあいとした時間から生み出される成果を目にすることで、これまで一人で絵を描いていた時とは一味違った達成感や連帯感が得られたことでしょう。あいにくドゥヴィスムはその船の作品が完成する前に、一足早くバレージュを去ってしまいました。ロートレックの喪失感は極めて大きかったようで、まるで絶望しているかのような息子の様子を心配する母の手紙(※18)が残っています。ロートレックにとってドゥヴィスムは楽しい時間の相棒の域を超えて、自分の心を支える大切な存在になっていたのであり、母親の表現が別に大袈裟ではないことは、翌月早々に起こったあるエピソードからも明らかです。それは9月に入って医師がロートレックを立位にさせ、足の様子を確認しようとした時のことでした。医師は彼の足を直角に曲げたところ、激痛が生じ、足にひどい痙攣が起こってしまったのです。ロートレックは恐怖にも近い思いを感じたのでしょう。この診察場面を振り返り、ドゥヴィスムに送った手紙(※19)の中で気持ちを正直に吐露しています。一日僅か5分でも良いから君が僕の傍にいてくれたら、僕はこれから先の大変なことも冷静にじっくり考える覚悟ができるのだけど……と。

ロートレックはなぜドゥヴィスムにそれほど心を許し、自分の弱さを魅せることができたのでしょうか。初めての骨折後の療養中、ドゥヴィスムの人としての優しさに触れ、次第に信頼関係を築き、そこに共に足にトラブルを抱えていたことで相通じる仲間意識が存在していたのかもしれません。1879年1月に送ったとされる手紙(※20)にはそのあたりが垣間見える文面が登場します。ロートレックはドゥヴィスムが事故のため3カ月もの間、不自由な生活を強いられていたと知り、彼のために何かせずにはいられない気持ちになったのでした。なぜなら骨折後、自分が装具を付けてベッド上で過ごしたのは40日間、しかもそのうち半分の期間は痛みも消失していたけれどもじたばた過ごしていた、そしてその間友は自分を励ましてくれた。一方、友は自分の倍以上もの期間、床に臥せるほど大変な目に遭っていたと知ったのですから。ドゥヴィスムがバレージュで自分を励ましてくれたように、せめてその100分の1でも自分が彼を励ましてその恩に報いたい……そう思ったのでした。

「他者を知る」ことは大切ですが、時に危険性も含んでいます。誰かと不幸比べをして、自分の方がどんなにかわいそうだろうと自己憐憫に浸り、周りに対して不平や怒りをぶつける、そういう場合もあるでしょう。あるいは相手は自分よりももっと大変な状況であるにもかかわらず、現状から逃げずに頑張っていたと知った時、他者を通じて己なるものを知ることになります。ロートレックは後者にあたりますね。そしてハッとした後、他者に対する憐みを持つのではなく、他者の努力に対する敬意を払うと共にそこで何か自分で他者のために役立つことはないかと考えてみる。そのような自発的に起こった内なる変化は、自己の心の枠組みを広げていく上で大いに役立ち、それは特に思春期の入口に差し掛かった頃、とても大切な意味を持つのだと思います。

 
引用文献:
※1 Lana-Peaceエッセイ「逆境の中で伸びやかに成長していくにはー濃化異骨症と共に生きたアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック」
※2 Julia Frey(1994) Toulouse-Lautrec : a life, New York, Viking Penguin, p.68, 1876年夏の終わり ロートレックから母への手紙
※3 前掲書2, p.74, 1877/3/3 母から母方祖母ルイーズへの手紙
※4 クレール・フレーシュ著, ジョゼ・フレーシュ著, 山田美明訳, 千足伸行監修 (2007)『ロートレック ―世紀末の闇を照らす』創元社, p.136, 1877/3/1  ロートレックから父方祖母ガブリエルへの手紙
※5 前掲書2, p.74, 1877/3/11 母アデルから母方祖母ルイーズへの手紙
※6 前掲書2, p.83, 1878/2/21 母アデルから母方祖母ルイーズへの手紙
※7 前掲書2, p.87
注:アンリ・ペリュショ著, 千葉順訳(1979)『ロートレックの生涯』講談社のp.48, p.429(年表)では1878/5/30とありますが、その後の手紙の日付等から本稿では1回目の骨折受傷日は1878/5/13と考えて進めます。
※8 前掲書2, p.88, 1878/5/16 父方祖母ガブリエルから父方伯母アリックスへの手紙
※9 前掲書2, p.97
※10 前掲書2, p.101, 1879年, ロートレックから母方祖母ルイーズへの手紙
※11 前掲書2, p.104
注:アンリ・ペリュショ著, 千葉順訳(1979)『ロートレックの生涯』講談社のp.52, p.429(年表)では1879/8とありますが(日にち明記なし)、その後の手紙の日付等から本稿では2回目の骨折受傷日は1878/7/21と考えて進めます。
※12 前掲書2, p.104, 父アルフォンスが後年(1901年)この受傷時の様子について振り返り、綴った手紙
※13 前掲書2, p.106, 1879/7/21から8/1の間に送られたと考えられるロートレックから母方祖母ルイーズへの手紙
※14 前掲書2, p.105, 1879/7/31 父方祖母ガブリエルから父方伯母アリックスへの手紙
※15 前掲書2, p.111, 1880/2/10 父方叔父オドンから父方祖母ガブリエルへの手紙
※16 アンリ・ペリュショ著, 千葉順訳(1979)『ロートレックの生涯』講談社, p.62
※17 前掲書16, 年表(1910年) p.433
※18 前掲書2, pp.p107-108,  1879/8/23 母アデルから母方祖母ルイーズへの手紙
※19 前掲書2, p.108 1879/9/3 ロートレックから親友エティエンヌ・ドゥヴィスムへの手紙
※20 Gerstle Mack(2019)Toulouse-Lautrec, Plunkett Lake Press, ”My dear friend, you would not believe how deeply I was moved by the news of your accident....
(手紙を整理したMaurice Joyantにより日付が1879/1と分類されていたもの。ロートレックから親友エティエンヌ・ドゥヴィスムへの手紙) 
   
   
  <参考文献>
  Julia Frey(1994)Toulouse-Lautrec : a life, New York, Viking Penguin
病状に関する詳細な経過は今回本書を中心に参照利用しています。本書は当時の書簡等から丹念に事実が炙り出されており、その出典一覧だけでも61ページにわたります。
筆者Ms. Julia Freyの力作からロートレックの人生をより鮮やかに知ることができます。
 
療養生活の中で様々な大変なことがあっても、その中に貴重な出会いを得ることがあります。そこで自然発生的に生まれた内省の時間は、思春期のこどもの心の幅をより豊かに広げていくことに繋がるのだと思います。
2022/6/5  長原恵子
 
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