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縄文時代、手足が不自由な人を支えること 3. 栃木県

栃木県宇都宮市にある天開山 大谷寺(おおやじ)は、坂東三十三観音 十九番札所として知られるとともに、本堂及び脇堂の見事な磨崖仏が有名でもあります。海底火山由来の火山灰や軽石・岩片などが固まってできた中新世の緑色凝灰岩(大谷石)を基盤とする大谷丘陵に、自然にできた洞穴は間口30m、奥行き13m、高さ12mもあります(※1)。2017年12月、訪れてみましたが、屋根付き空間のような岩肌にお堂が二つ建っており、迫力満点です(写真1)。これまで厳しい気象条件や大地震にも耐えてこうして形を保ち続けてきたことに、何かものすごい力が宿っているように思えます。写真の向かって右側が磨崖仏の千手観音が祀られている本堂で、左側の脇堂には磨崖仏の釈迦三尊、薬師三尊、阿弥陀三尊が祀られています。とても見事な磨崖仏については、また別途機会を設けて記事として取り上げたいと思います。

こちらの磨崖仏は昭和37(1962)年より保存修理が始まったそうです。そして昭和40(1965)年、お堂の防災建築が施されることになりました。同年3月下旬から4月上旬まで木造の脇堂が取り除かれたわけですが、その際、磨崖仏の足元下方の岩陰内の堆積土砂も取り除かれました(写真2)
堆積土は厚さ3m、7層に及び丁寧に掘り進められました。そして古くは縄文時代にまで遡る遺物や人骨が出土したのです。
「大谷寺岩陰遺跡」と名付けられることになったこちらの遺跡は、学術的にも非常に素晴らしい意味を持つことがわかってきました。
出土人骨のうち、第1号人骨(個別)は細隆起線文土器を伴って出土しました。それは何千年も続く縄文時代の中でも特に古い時期のものです。つまり一緒に出土した骨もそれだけ古いということになります。出土した左脛骨(すねの内側の骨)片(写真3)の長さは121mm、これまで発見された縄文時代の人骨の中で最古(※2)だそうです。

大谷寺境内の宝物館には出土した遺物や人骨一体分が保管展示されていました。鹿角製の刺突具やイノシシの牙製のヘラ、奈良時代の土師器片、9世紀初め弘仁年間に発行された富寿神宝、鎌倉時代の懸仏、そして手のひら大の石に墨書きされた貞治2年(1363)の経石等、数々の遺物はこの天然屋根の空間が、長きにわたり人々の暮らしに大きく関わってきたことを物語っています。そして興味深かったのは、いくつも見つかった貝。ハイガイ、ハマグリ、シオフキは海水、イシガイ、カワニナは淡水に生息する貝です。現代の宇都宮市は内陸部ですが、縄文海進によって当時この近くまで海水が押し寄せていたのでしょうか? もしくは海岸部の住人と交易があったとか?

大谷寺の近くには姿川が流れていました。関東バスの大谷観音前バス停あたりから姿川を眺めると、川底にはまるで床のような大きな石の底が見えてきます。磨崖仏の岩肌ととてもよく似た感じです。縄文時代当時から姿川があったのならば、水辺近くの岩陰の地は人が住む場所として適していたことでしょう。

そして磨崖仏の足元の岩陰から出土した人骨のなかには、いくつかの特徴が見られたのです。それは手足が不自由な人がここに生きていた証となるものでした。
岩陰の七層の堆積土のうち、黒色腐植土の第一層下部からは弥生土器・縄文土器(前期から晩期)が見つかり、同一層位で3mほど離れたところから一括した形の人骨が5体分見つかりました(※3)
成人の骨の頭骨と上・下肢骨、椎骨、肋骨、寛骨、幼児の頭蓋、乳児の大腿骨と脛骨片はそれぞれが完全な解剖学的な位置を伴って出土したわけではなく、不規則に散乱していました。しかし諸磯式土器を伴い、洞窟壁に意識的に収集されて同一層位にあり、一部は配石遺構を見た状態で出土しており、成人女性3体、4歳幼児1体、新生児又は乳児期の極めて初期の乳児骨1体(※4)と判明したのです。

このうち成人の骨の特徴から、右第3大臼歯の歯周炎が原因と推定される歯性上顎洞炎、左肘の変形性肘関節症、左膝の変形性膝関節症といった病気があることがわかりました。これらの病気が同一の方のものかどうか特定できませんが、3名のうちのどなたかがそうした病気だったということです。小片丘彦先生は「縄文時代前期に属する大谷寺人骨も地質学的,気候学的なきびしい環境と不安定な生活を背景にして,激しく身体を使うことが要求されたにちがいない.肘や膝の変形性関節症の強い所見がこのことを物語っていると思われる.」(※5)と述べられています。

そしてこの他にも特徴的な骨がありました。押しつぶされたかのように扁平化した細い右大腿骨、小さな右膝蓋骨、そしてとても細い右脛骨が見つかったのです。同一人物の右足を構成していたとされるこの骨は、その特徴から骨のカルシウム代謝障害や栄養障害はなく、大殿筋やヒラメ筋の発達は良かったけれども、大腿四頭筋の機能がほとんどなく、膝蓋骨は膝関節として働いていなかったと推察されました。その女性が罹患がしていた病気として第一に脊髄性小児麻痺(ポリオ)を挙げられました。この他にも脳性小児麻痺や進行性筋萎縮症等の可能性も挙げられました(※6)

成人骨は老年期に近い熟年期1名、熟年期1名、熟年期か壮年期1名(※7)と考えられていますので、左肘や左膝の関節症は病的というよりは加齢に伴うものかもしれません。またポリオは成人がかからないわけではありませんが、5歳以下のこどもがかかることが多い病気であることから、幼い頃にポリオを患い、右足が麻痺になっても力強く成長し、熟年期前後まで生きた人がいると考えることができます。当時の生活環境を思うと、痛む膝や肘、そして自由の利かない右足で暮らすことは、随分大変だったことでしょう。

洞穴の奥、岩壁に近い傾斜した大谷石の岩盤の上からは、完全に近い形で横臥屈葬(横向きになって身体を折り曲げて葬られている)の人骨が一体見つかりました。上記の5体分の人骨が見つかった第一層よりも下の第一灰層からの出土です。縄文土器早期(茅山式)を伴っていたこの人骨は7000年ほど前のものと考えられました。また当時鑑定が行われ、この人物は20歳前後の男性で身長154.6センチだと判明しました(※8)

この屈葬人骨は保存処理が行われ、現在、実物を大谷寺宝物館で見学することができます。頭蓋骨の頭頂部が天側、顎先が地側にあることから、実際現地で見ると何かをじっと見据えているかのような、強い意思を持った表情のようにも見えてきます。出土した際、顔面は北東に向いていた(※9)そうです。

人骨から復元された生前像は写真4の通りです。鼻が高く精悍な顔つきの青年です。

この青年の腕の骨ですが、その太さに随分左右差がありました。写真5はこの人骨の上腕骨の写真です。実際、宝物館の展示ケース越しに頭頂部側から足の方向に向かって見てみると、右上腕骨骨頭はとても力強い感じであることが、よくわかります。また右腕の橈骨(とうこつ:肘から手首にかけて内側の骨)や尺骨(しゃっこつ:肘から手首にかけて外側の骨)も太くしっかりしていました。
一方、左腕は右腕に比べて随分華奢な印象を受けました。

写真6 保存処理後の屈葬人骨
 
 
※写真8 第2号人骨(個別)の左右上腕骨 左側後面(上)右側後面(下)

実際上腕骨の左右差は中央最大幅で2mm(右側20mm, 左側18mm)、中央最小幅で1mm (右側14mm, 左側13mm)の差が認められる(※10)そうです。鈴木隆雄先生は骨の示す特徴から、麻痺性疾患によると考えられる骨の発達不良が左側上肢に認められるものの、筋の収縮や運動機能はわずかながらも保たれており、頸椎や肩関節領域での骨折や脱臼などの顕著な外傷性変化は認められないことから、原因疾患は比較的軽度な脳性麻痺や分娩麻痺、あるいは脊髄性小児麻痺等の可能性が高い(※11)と考えられました。

さて横臥屈葬の人骨が出土してから30数年の月日が経ち、栃木県立博物館で人骨の複製品が作られるため、人骨保存処理及び年代測定が行われることになりました。そして平成10(1998)年5月、放射性炭素法とフッ素法によってその人骨が1万1千年前の縄文時代草創期のものと判定されたのです。新聞などでは1万1千年前の人骨だ、と大いに報道されました。しかし発掘当時、辰巳四郎氏、大和久震平氏らと共に調査団の一員として発掘に加わっていた塙 静夫先生は疑問を挙げられています。その理由はこの遺跡の草創期と早期の文化層は全く攪乱されていなかったこと、そして両者の間に1.4mから1.5mもの深度の開きがあった(※12)からなのです。つまり1万1千年前と判定された人骨の下よりも1.4mもの土下に数千年新しい時代の土が、手つかずの状態で深く堆積していたのは、おかしいのではないか、ということです。

屈葬人骨の青年が生きていた時代が、当初考えられていた7000年ほど前であるのか、あるいは1万1千年前であるのか? それぞれ根拠となる事実を伴うため、その違いをどう考えて良いのか、私にはわかりません。しかし大谷寺岩陰の地では人々の暮らしが営まれ、或いは墓地として埋葬に用いられ、やがて時を経てその岩肌には磨崖仏が彫られるようになり、お堂が立ち、信仰の場として人々の心の拠り所になっていきました。そして遥か昔、何らかの病気によって手足が不自由だった人が、しっかりとそこで生きていたことは、骨が語る事実なのです。 別の見方をすれば、当時病気や麻痺と共に彼等、彼女らが成人するまで生きてこれたのは、周りの関わりが十分だったからと言えますね。例えば水汲み1つをとってもそうです。水道の蛇口をひねればすぐにきれいな水が出てくるような現代と違い、縄文時代、片手の麻痺、片足の麻痺があった人にとって姿川から水を運ぶことは決して容易なことではなかったはずですから。
また予防接種もない当時は感染予防が難しく、一度感染者が出ると一気に家族や集落の中で広がる確率も高かったことでしょう。そうすると罹患した人の率も、罹患後、同じような後遺症が残る人の率も今より随分多かったとも言えます。そのような状況では健康な人が手足の不自由な人をお世話すると言うより、みんなどこか不自由さがあって、それをお互いに支え合いながら生活していたという方が、現状に近いのかもしれません。

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さて大谷寺を訪れた翌日、宇都宮市内のバスの中である光景に出会いました。私が乗っていた車内は乗ってくる人も少ない穏やかな昼下がり。とあるバス停に男性と車椅子の少年が待っていました。楽しそうに二人で話をしながら待っていたようで、バスが到着した時、少年はニコニコ笑顔でした。
少年の顔立ちは、その男性にとてもよく似ていましたので、親子だろうと思います。バスが到着すると少年は車椅子から降りて、男性がその車椅子を抱え、バス中央のドアから一人で乗車してきました。そして大きく曲がった両足で自分の体重を支えた少年は、両手でバスの取っ手をつかんでゆっくり、自分の力でバスの中に足を踏み込み、乗車したのです。少年の上半身は一歩進むたびに、左右に大きく揺れます。少年は自分でもよくそれをわかっているようで、揺れながらも転倒することなく、上手にバランスをとっています。そして一人で運転手席の真後ろの数段高くなっている座席へと登って行きました。慎重に、でもささっと慣れたような感じで、誰の手も借りないで。その間の時間、恐らく2分程度だったでしょうか。あまりにさりげなく、あっけなく過ぎた場面でした。 少年が着席すると運転手さんは特に少年に何も声をかけることもなく、まるでいつもの日常場面であるかのように静かにバスを発車させました。
バスに乗っている間、男性は少年の2、3席後方の座席に座り、横に車椅子を置いていました。少年は一人で乗ったままです。道路前方をよく見るためなのか、前の方に何度か身を乗り出していましたが、目的地のバス停に到着するとゆっくりと座席から一人で降りて、何かカードを見せて、バスの前方から降車しました。

バス中央のドアから降車した男性は車椅子を広げて待っていました。そして少年は車椅子に乗ると、男性は少年の背後に立ち、二人で進み始めました。男性はなぜか両手で車椅子の取っ手を支えていませんでした。男性の右手は車椅子の左手の取っ手(少年の左肩の方の取っ手)をつかんで歩いていました。それがどうも不自然な形に見えて、どうして両手で車椅子を押さないのだろう?と私は不思議でした。彼らはバス通りから曲がると、住宅街の細い道を進んでいきました。その道の向かって右側の方を進む二人の後ろ姿を見て、ようやく私は合点がいきました。なぜ男性が右手で車椅子の左の取っ手を持ったのか。歩道を進む車椅子の左側の取っ手を男性が右手で持つことにより、男性の身体の位置は胴体一つ分、車椅子よりも車道側に出ることになります。道路の向こう側から自動車がやって来る時、ドライバーには背の高い男性の姿がよく見えているはず。男性があえて車道側を歩いていたのは、少年が自動車とすれ違いざまに危険な目に合わないよう、自分が盾になるためだったのでしょう。そしてもし道路の左側を二人で進めば、自分たちと車は同じ方向を進むのですから、男性は後方からくる車に気を配ることが難しくなります。ですから、あえて二人で右側を進んでいたのでしょう。

バスはあっという間に走り出し、その少年と男性の後ろ姿は快晴の午後の日差しの中、過ぎ去ってしまいました。でもその男性と少年の二人で進む背中は私にとても強烈な印象を残しました。そして彼らの姿がとても神々しく思えました。もしかしたらこの光景を私に見せるために、こどもの病気の神様はあのバスで私を彼らに会わせてくれたのかもしれない、と思いました。

両足が不自由でも、自分の行きたいところに出かける…。きっとその少年はバスの運転手さんに憧れているんだろうなあ。だってバスの中はほとんど空席で、少年の連れの男性の他に乗っていたのは私ともう一人地元の方だけだったから。わざわざ運転手席の後ろの高い位置に座らなくても、彼は容易に移動できる位置の座席を選び放題だったのに、あえてあの座席を選んだ。それは一体どうしてか? いつもの生活とは違う、うんと高い視線から眺める世界、そして動く世界は、本当に新鮮なのだろうなあ。

身体の不自由さはこどもの心の中に仕切りなんて作らないと思いました。 私が東京でいつも利用するバスには、運転席の後ろの座席には注意書きがあります。こどもやお年寄りは危ないからこの座席、注意して、と。そういう観点からは、少年がこの座席に座ることをよろしくないと思う人がいるかもしれない。でも少年が運転席の後ろに座っている間、男性は少年をしっかり見守っていました。万が一、少年の姿勢が不安定になったら、転落しないようにいつでも手助けできるように。
少年の座席のすぐ横に立つのではなく、数席後ろに座る……その距離感が実に良いなあと思いました。少年が自分の世界を少しずつ広げていくためにも。そして車椅子で散歩する少年が、より安全に楽しいひと時を過ごしながら、だんだん自信をつけながら、できることを増やしていく姿に何だかジーンとしました。
 
引用文献:
※1 栃木県立博物館 (2000)『大谷寺洞穴遺跡出土屈葬人骨の保存処理及び自然科学的調査報告』, p.1
※2 小片保ほか「付編1 大谷寺洞穴遺跡縄文早期及び前期人骨群の所見一特に細隆起線文土器を伴う人骨及び創痕、病変のある人骨についてー」, 前掲書1, p.19
※3 小片丘彦, 森本岩太郎(1972)「古病理学的にみた日本古人骨の研究」新潟医学会雑誌 86(11), p466
※4 小片保ほか「付編1 大谷寺洞穴遺跡縄文早期及び前期人骨群の所見一特に細隆起線文土器を伴う人骨及び創痕、病変のある人骨についてー」, 前掲書1, p.20
※5 前掲書3, p. 471
※6 前掲書3, p. 472
※7 小片保ほか「付編1 大谷寺洞穴遺跡縄文早期及び前期人骨群の所見一特に細隆起線文土器を伴う人骨及び創痕、病変のある人骨についてー」, 前掲書1, p.21
※8 塙静夫(1999)『図説とちぎ古代文化の源流を探る 旧石器時代〜弥生時代』随想舎, p.53-54
※9 小片保ほか「付編1 大谷寺洞穴遺跡縄文早期及び前期人骨群の所見一特に細隆起線文土器を伴う人骨及び創痕、病変のある人骨についてー」, 前掲書1, p.19
※10 鈴木隆雄「大谷寺洞穴遺跡屈葬人骨の病変について」, 前掲書1, p.7
※11 鈴木隆雄「大谷寺洞穴遺跡屈葬人骨の病変について」, 前掲書1, p.7
※12 前掲書8, p.54

 

引用写真:
写真1 2017年12月拝観時 天開山 大谷寺 本堂と脇堂 (当方撮影, 2017/12)
写真2 昭和40年大谷寺脇堂撤去時, 読売新聞栃木版 1998/5/29 記事「33年前に出土の人骨 一万一千年前と判明」より引用
写真3 第1号人骨(個別) 左脛骨体片 右より前面観, 内側面観, 外側面観, 後面観写真, 栃木県立博物館 (2000)『大谷寺洞穴遺跡出土屈葬人骨の保存処理及び自然科学的調査報告』写真図版1より引用
写真4 姿川(当方撮影, 2017/12)
写真5 姿川の川底の石(当方撮影, 2017/12)
写真6 保存処理後の屈葬人骨写真, 栃木県立博物館 (2000)『大谷寺洞穴遺跡出土屈葬人骨の保存処理及び自然科学的調査報告』巻頭図版2より引用
写真7 屈葬人骨の復元模型, 栃木県立博物館 (2000)『大谷寺洞穴遺跡出土屈葬人骨の保存処理及び自然科学的調査報告』巻頭図版3より引用
写真8 第2号人骨(個別)の左右上腕骨 左側後面(上)右側後面(下), 栃木県立博物館 (2000)『大谷寺洞穴遺跡出土屈葬人骨の保存処理及び自然科学的調査報告』写真図版3より引用
写真9 宇都宮の青空(当方撮影, 2017/12)
 
参考文献
大町雅美他著(1974)『栃木県の歴史』県史シリーズ9 山川出版 
鈴木隆雄(2010)『骨から見た日本人  古病理学が語る歴史』講談社
小片丘彦, 森本岩太郎(1972)「古病理学的にみた日本古人骨の研究」新潟医学会雑誌 86(11) pp.466-485

 

本人の意思を大事にして、持ちうる可能性を存分に引き出せるような関わりをすることにより、人は自分の人生を自分らしく生きてけるのではないかと思うのです。たとえ縄文時代であっても、現代の世であっても。

長原恵子
 
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