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縄文時代、片足麻痺でも自分の人生を歩む 2. 岩手県

中沢浜貝塚は宮城県と岩手県の県境、陸前高田市にある貝塚です。広田半島の先端部南西、広田湾側に面した所にあるこのあたりは、縄文時代以降の様々な遺物が見つかっています。現在、広田半島にはなんと41もの遺跡が確認されている(※1)そうですから、このあたりは当時から非常に住みやすい場所だったのでしょう。中沢浜貝塚からは貝層、埋葬人骨、縄文土器(旱期〜晩期)などが出土しています。
さて、現代の考古学研究では出土した人骨骨片に残存するコラーゲンを抽出・精製して分析することが可能になっているそうです(※2)。そこで中沢浜貝塚から出土した人骨(97-1号人骨)にその調査をしたところ、97-1号は生前「タンパク質源として海産の魚類が比較的重要であった可能性が指摘できる」(※3)と判明しました。97-1号人骨と同時期に中沢浜貝塚からは石器や鹿角製の単式釣針の他、軟骨魚綱7種、硬骨魚綱23種、合計30種の魚類が同定(※4)されています。貝、ウニ、マアナゴ、マイワシ、マアジ、マダイ、カツオ、ヒラメ、サメ、エイ…その他書ききれないほど多種にわたる水生生物の他に、例えばイノシシ、ニホンジカといった陸の動物も出土しています。中沢浜貝塚の辺りでは水生生物を中心に、陸の動物も含めて多くの自然の恵みを受けた生活が営まれていたことが伝わってきます。
その中沢浜貝塚から出土した人骨(KG−40)はある特徴を示していました。

KG-40の右頭頂骨,下顎骨,右橈骨(とうこつ:肘関節から親指側に向かう腕の骨)、左右の破損した大腿骨と脛骨(けいこつ:膝関節から親指側に向かう足の骨)が見つかったのですが、下肢の骨には著しい左右差が認められたのです。
写真1はKG-40の大腿骨の写真ですが、向かって左側(すなわち人体にとって右大腿骨)の大腿骨は向かって右側(左大腿骨)に比べて、華奢であることがわかります。
鈴木隆雄先生の論文の中で大腿骨(ふとももの骨)、脛骨(すねの骨)の左右差が比べられていましたのでそちらの情報を元にこちらで作表したものを載せておきます(表1)

大腿骨、脛骨の「骨幹部」とは関節と繋がる上端・下端部分を除いた、比較的まっすぐな細長い部分のことです。こちらを見ると、数字からもその形状の違いが明らかとなります。

 
大腿骨骨幹部
矢状径
32mm 39mm
脛骨骨幹部(栄養孔)
矢状径×横径
18mm×20mm 32mm×22mm

矢状(しじょう)径は厚みを表しますが、左右を比較した時に右の厚みが薄い、すなわち扁平であることがよくわかります。また筋肉が付着する粗線の形成も右大腿骨ではほとんど見られなかったそうで、大腿骨に付着する筋肉の発達が非常に乏しかったことが推察されます。
そのため鈴木先生は「本例もまた,おそらくポリオの後遺障害による片側性下肢の廃用性骨萎縮例であろうと推定される.」(※5)と考えられています。

この骨の人間がいつごろ生きていた方であったのか、その詳細な年代には触れられてはいなかったのですが、貝塚が形成されていた遥か昔の時期に、ポリオ罹患による後遺症で片足麻痺の不自由さを抱えた人が、集落の中で生きてきたことがうかがえます。その生活は一体どのような感じだったのでしょうか。現在の中沢浜貝塚は広田半島 大森山山麓西側の緩斜面上にあり、海岸線から250m ほど東の地点、海抜5〜20mの位置にあります。しかしかつては遺跡前面まで海が湾入し、白砂の砂浜があった(※6)そうです。当時の船は丸木舟のような簡素なものだったでしょうから、海上で容易に波にあおられたはず。不安定さを多く伴う丸木舟での漁は、片足麻痺の人にとってかなり厳しかったに違いありません。だからと言って、この人物は動くことなく日々を過ごしていたわけではなかったと思うのです。なぜなら左足には廃用性骨萎縮を示す所見が見られないからです。彼/彼女は麻痺した右足を抱えながらも、左足で懸命に歩いていたのでしょう。自分のできることをする。仲間のとってきた魚や貝はその人が料理したのかもしれません。山に行って木の実を集めてくるのはその人の仕事だったかもしれません。家でこどもたちの世話をしていたかもしれません。たとえ右脚は病魔に侵されたとしても、決してそこで人生を諦めたりはしない。自分のできることを自分で精一杯する…そのような意気込みと努力の跡が、貝塚から見つかった両足の骨から伝わってくる気がするのです。

引用文献:
※1 岩手県陸前高田市教育委員会(1999)『陸前高田市文化財調査報告書第20集 陸前高田市内遺跡発掘調査報告書1 中沢浜貝塚1997 遺構・土器・土製品・石器編』p.2
※2 前掲書1, p.81

※3 前掲書1, p.82
※4 岩手県陸前高田市教育委員会(2001)『陸前高田市文化財調査報告書第23集 陸前高田市内遺跡発掘調査報告書3 中沢浜貝塚発掘調査報告書 平成9年度発掘 骨角器・自然遺物編』p.85
※5 鈴木隆雄(2005)「麻痺性疾患@」THE BONE,p.232
※6 前掲書4, p.2

※写真1
鈴木隆雄(2010)『骨から見た日本人 古病理学が語る歴史』講談社, p.101より写真抜粋

※表1 
前掲書5, p.232情報より当方作表

 
ワクチンも特効薬もない時代の重度の感染症は、人々を恐怖の縁に追い込んだかもしれません。しかしそれに負けずに生きた人々の証しは、こうして数千年の時を経て、骨に現われ、今の人々に伝えていると思うのです。
2017/12/18  長原恵子
 
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