病児・家族支援研究室 Lana-Peace(ラナ・ピース)
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魂・霊と死後の生〜様々な思想〜
仏教の父とキリスト教の子
ー土井晩翠 長女 照子さん・長男英一さんー

ご夫婦それぞれが異なる信仰を持っていたとしても、結婚などにより相手先の家の宗教に合わせて変更する、という話を聞くことがあります。
また、葬儀や法事などは確かに嫁ぎ先の宗教のやり方で行うけれども、心の中で信じているものは、別という方もいらっしゃいます。そしてお子さんがご両親とは異なる信仰に進まれる場合もあります。

土井晩翠氏のお宅では、ご夫婦の信仰は異なりましたが、互いの信仰を尊重し合っていました。晩翠氏のおうちの菩提寺は曹洞宗 大林寺(仙台市)で、土井家では檀徒総代も務めていました。しかし晩翠氏は若い頃、仏教を敬遠され、特に長読経を嫌がって、晩翠宅での読経は短めに切り上げられていたといったエピソードも伝えられています。しかし年を経るにしたがって、次第にその信仰を深められたようで、お彼岸や、お盆、ご先祖の命日には必ず墓参りをされていたそうです。また、晩翠氏が書かれる文章の中にも、仏教思想を反映した世界観が表されていくようになりました。

一方、奥様の八枝さんはキリスト教徒でした。晩翠氏とご結婚後もその信仰は変わらず、基督教婦人会の幹部として活躍し、八枝さんが亡くなられた時、葬儀は東北学院教会で行われたのだそうです。
奥様の影響もあったのか、土井夫妻の長女の照子さん、長男英一さんはキリスト教の信仰を持っていらっしゃいました。
照子さんと英一さんは、共に20代前半で結核のために亡くなってしまいましたが、晩翠は我が子の行く末をどのように考えていたのでしょう。

それからこのかた二十七春秋、照子は確かに如実に霊界に昇つたと信ずる。照子はクリスチヤンであるから、前に述べた通り大聖キリストの御姿を拝した、もし仏教徒であつたらなら二十五菩薩聖衆来迎を或は之と等しいものを拝見したであらう。
華厳経に『諸仏は広大の智慧を以て、衆生の機根に応じてそれぞれの御姿を現し給ふ……』とある。(如来出現品)

引用文献:
土井晩翠「子を喪ふ悲み」(1934)『雨の降る日は天気が悪い』大雄閣, pp.244-245

晩翠氏の言葉は、何か大きな1つの真理の元、仏教徒とキリスト教徒がそれぞれ異なる解釈・見解をとったとしても、その道は結局1つに通じるということを意味するのだろうと思います。どの宗教のどういう解釈が正しいとか誤っているとか、そういうことではないと。だから照子さんが亡くなる前に見たイエス・キリストの姿は、きっと仏教で言うならば二十五菩薩聖衆来迎に等しいのだろうと思われたのでしょう。自分とは異なるこどもの信仰を否定するわけではなく、それを尊重し、それを自分流に解釈するなら、こういうことだろう…と考えていたのだろうと思います。それは次の晩翠氏の言葉にはっきりと、表されていますね。

道は一つ理に二つなし種々の教の名をば問はずもあらなむ
名は仮ぞのりの教の名の差別争きたす悲しからずや

引用文献:
成田正毅(1955)『想い出の土井晩翠先生』晩翠先生を讃える会, p.71

晩翠氏は娘の信じた世界観をいつまでも尊重していました。照子さんが亡くなって2か月後、軽井沢星野温泉に到着した晩翠氏が娘を回想する次の言葉からも、知ることができます。

昨年の今頃は照子がたのしく、ここに滞在しつつありし也。
幽明を隔てて彼女を思ひ、彼女の霊の祝福を祈ること切なり。

引用文献:
黒川利雄(1971)『生誕百年記念 晩翠先生と夫人 資料と思出』p.18, 昭和7(1932)年8月25日の日誌

「霊の祝福」という表現は、照子さんがクリスチャンであったことを尊重していたからですね。きっと。

 

親子・夫婦で異なる信仰、考え方であっても、先だったお子さんが安らかで楽しい場所で過ごせていることは変わりないと思うのです。
2015/9/17  長原恵子
 
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