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お子さんを亡くした古今東西の人々
二十代で三度の死別を経験した父の軌跡

江戸時代、仙台藩で第四代藩主を務めた伊達綱村は19歳で良き縁で伴侶を迎え、二十代で三度に渡り子宝にも恵まれました。しかし残念ながら全員、誕生して数年のうちに綱村の元から死出の旅路へと立っていったのでした。度重なる心の痛手を四年半の間に受けた苦しみ、そこから綱村は人生をどう歩んでいったのでしょうか。今日は伊達綱村の人生を彼の仕事の軌跡から振り返り、考えてみたいと思います。

■綱村の誕生・生い立ち
伊達綱村は万治2(1659)年3月8日、仙台藩三代藩主伊達綱宗と側室三沢初子の長男として江戸で生を受け、亀千代丸と名付けられました。彼の身に大きな試練が押し押せたのは生後一年半にも満たない万治3(1660)年7月のことでした。幕府により隠居を命じられた父綱宗の跡を亀千代丸が襲封することになったのです。余りにも幼い亀千代丸を補佐するために一門の関係者である伊達兵部と田村宗良が後見人として定められ、後見政治が開始されました。伊達兵部は初代仙台藩主伊達政宗の十男ですから綱村にとっては曾祖父の子であり、田村宗良は二代藩主伊達忠宗の三男で父の兄すなわち伯父にあたります。やがて寛文9(1669)年、亀千代丸は元服して名を綱基と改めました。後見人が二人いるということは、協力体制が取れていればサポート力も倍増でしょうが、それぞれ派閥間で意見の対立も生じるものです。やがてそれは激化し、収拾がつかなくなり、寛文11(1671)年2月「伊達騒動(寛文事件)」と伝わる刃傷事件へと発展してしまったのでした。当時綱村はまだ年若き者として騒動責任の咎は免れることができ、延宝3(1675)年に入国して施政を開始、延宝5(1677)年には名を綱村と改名しました。

■綱村の結婚
寛文事件の後、綱村の後見人として幕府から新たに命じられたのは小田原藩主稲葉美濃守正則でした。幕閣の一員でもあった正則は当時の将軍徳川家綱の父、家光の乳母である春日局を祖母とする血筋でもあります。たとえ幕命によるものとはいえ、恐らく正則は格別の思いを抱いてその命を引き受けたことでしょう。なぜなら寛永(1634)11年、正則の父稲葉正勝(小田原藩初代藩主)逝去に伴い正則が家督を相続した時、当時まだ11歳だったことからしばらく後見補佐を受けることになったからです。幼い時点で家督を譲られ、後見人による支えを必要とした若き綱村の立場や気持ちを人一倍正則は理解していたのではないでしょうか。

延宝5(1678)年4月、綱村は正則の二女千姫を正室に迎えました。綱村と千姫の誕生日は非常に近く、綱村の1週間前の万治2(1659)年3月1日に千姫は生まれています。お互い同じ時間を共に生きて成長してきた者同士です。千姫にとって夫綱村は同志のような存在であったかもしれません。『東藩史稿』巻之十(※1)では千姫の人となりについて触れられていますが、穏やかで素直な方であり、自分は一歩引いて相手を立て、綱村に対しても敬意をはらっていたことが伝えられています。

■綱村、父になるー長男扇千代の誕生
天和元(1681)年7月15日、綱村夫妻に長男扇千代が誕生しました。扇千代の存在は大きな喜びと幸せをもたらし、周囲からも希望や期待が多く寄せられたことでしょう。綱村が藩主としてだけでなく、父親としても人間的に成長する機会を与えようと岳父正則は考えたのでしょうか、天和2(1682)年4月、江戸の白金にあった黄檗宗の瑞聖寺(ずいしょうじ:現在の東京都港区白金台)二代目住職の鉄牛道機禅師を綱村に引き合わせたのです(※2)。幼い頃から儒教教育を受けてきた綱村でしたが、鉄牛禅師を通して学問、教養を学び、仏教にも傾倒していきました。

写真1、2は2020年2月に訪れてみた瑞聖寺です。現地解説板によると大雄宝殿は棟札から宝暦7(1757)年の再建と推定されるそうですから、綱村の没後40年ほど後年のものとなります。

■長女高姫の生と死
鉄牛禅師による教育が始まった翌年、天和3(1683)年9月6日、綱村夫妻に新たな命が誕生しました。長女高姫(初・栄姫)です(※3, ※4)。『宮城県史』には「栄」とありますが、『伊達略系』を参照すると初名が栄、後に高姫とされたようなのでここでは「高姫」と称します。江戸の藩邸に響き渡る扇千代と高姫の声、そして日に日に新しい表情を見せ、成長していくこどもたちの様子は綱村夫妻にとって生きる力の源になっていたことでしょう。しかし無情にも貞享の時代の始まりは綱村夫妻からその幸せを奪い取ったのです。貞享元(1684)年11月8日、高姫が息を引き取りました。満1歳2カ月と言えば早い子であればもうよちよち歩き、親の目が離せない頃です。表情豊かで実に愛らしい時期の長女の死は、どれほど綱村夫妻を絶望の底に陥れたことでしょう。亡くなった理由は「驚風(きょうふう)」(※5)によるものと伝わっています。驚風には「慢驚風」と「急驚風」とがあります。高姫が亡くなった2年後の貞享3(1686)年に刊行された桂洲甫による『病名彙解(びょうめいいかい)』巻四では慢驚風は身体の状態が陰に傾き手足は血流が悪いため冷たく、脱力したりひきつったり、深い眠りに入っていても開眼している状態であることが記されています(※6)。一方、急驚風については同書巻六でと明代の医師による『壽世保元』を典拠とした解説が記されており、牙関緊急(がかんきんきゅう)と称される開口障害が起こり、なかなか解熱できない高熱が続き、よだれが多く、どこを見ているのかわからないようなうつろな目つきで、体は反り返り、ぴくぴくと動かし、口唇や目や眉も細かく震えている状態のことを指しています(※7)(※写真1) 。急驚風の記載は破傷風の症状に似通っています。2020年現在、日本に住むこどもたちは生後2カ月から破傷風菌に対するワクチンが含まれている4種混合ワクチン(DPT-IPV)を受けることができ、抗生物質治療も開発されていますが、当時は有効な予防と治療法はありません。慢驚風、急驚風そのどちらであったかは不明ですが、高姫の最期を看取った綱村夫妻はどんなに衝撃が大きく、心傷む時間だったことでしょう。高姫は瑞聖寺に葬られたのでした。

■長男扇千代の死
高姫の死からまだ半年も経たない貞享2(1685)年4月29日、参勤交代の制により綱村は仙台藩に戻ることになりました。江戸の藩邸に住む千姫と扇千代を残したままの出立は、随分後ろ髪をひかれたことでしょう。それでも幕府による決まり事ですから戻らないわけにはいきません。千姫の心細い思いが伝わってくるようです。その年の夏8月24日、藩政に精力的に取り組んでいた綱村の元に、江戸から非常に気掛かりな知らせが入りました。扇千代が痢病にかかってしまったというのです。

『病名彙解』巻二によると痢病とは「俗ニ云シブリバラナリ」(※8)と説明が始まります。「しぶりばら」とは切迫した便意があるにもかかわらず排便がない状態のことを指し、「テネスムス」とか「裏急後重(りきゅうこうじゅう)」とも称されます。代表的な疾患は細菌性赤痢ですが、扇千代がかかった病気がそうであるならば腹痛、度重なる便意、膿・粘血便、高熱等の諸症状に扇千代は随分苦しめられたことでしょう。どうしたらこの子を助け出せるだろうか、高姫のようなことが決して起こってはならないと必死に看病する母千姫の姿が目に浮かびます。

仙台から江戸の藩屋敷までおよそ350km。その距離を綱村がこんなにも恨めしく、もどかしく思ったことはないかもしれません。今の自分にできること、それは地元で霊験あらたかな神の力にすがることでした。綱村は扇千代の病気平癒を願って直ちに陸奥国一宮である鹽竈(しおがま)神社(現在の宮城県塩釜市)に名代を送り、翌日25日には自らが仙台城から近い愛宕神社(現在の宮城県仙台市)へ祈願に出向きました。更に26日には鹽竈神社へ別の名代を送りました。しかし同日綱村に届いたのは扇千代の訃報だったのです。そして何とも悲しいことに、綱村が仙台で初めて扇千代の病いを知った日の前日8月23日に、既に江戸で扇千代は息を引き取っていたことがわかったのでした(※9)

9カ月前に高姫を亡くした傷心の綱村に追い打ちをかけるかのような不幸。しかしながら綱村は自分の悲しみばかりに打ちひしがれているわけにはいきませんでした。江戸に離れて暮らし、夫を頼ることもできず息子を看取った妻千姫の心労とショックの大きさを気遣ったことでしょう。直ちに慰めの言葉を届けるよう手配し、父として藩主として、仙台で葬儀を執り行うために必要な指示を出したのでした。

そして8月29日、瑞聖寺の鉄牛禅師と兄弟弟子であった黄檗宗の月耕道稔禅師が開いた仙台の開元菴(現在所在地不明)で、扇千代の初七日の法要を執り行ったのです。扇千代の遺体は江戸で安置されたままだったのでしょうか、翌月9月2日に扇千代は瑞聖寺に眠る妹高姫の隣へ埋葬されました。そして関係者が剃髪して仏門に帰依し、翌3日に瑞聖寺で葬礼が行われ、17日間に渡り法要が営まれたのでした。更に3年後の元禄元(1688)年9月、綱村は扇千代の供養のために光明殿と称する廟屋を瑞聖寺に建立したのでした(現在は失われています)(※10)

瑞聖寺は『江戸名所図会』にも登場します(※写真5)が、こちらが刊行されたのは19世紀前半で扇千代、高姫が亡くなった頃から150年ほど時代が下るものとなります。刊行当時、扇千代のために献納された光明殿がまだ残っていれば、この絵図のどこかに描かれているかもしれませんね。江戸の町はこの後、大きな災害に遭い、瑞聖寺も安政2(1855)年の安政江戸大地震、安政3(1856)年の安政江戸台風によって諸堂は大破し、明治維新の廃仏毀釈時にも損害を被り、かつての大伽藍から残ったのは大殿、庫裡他一部で明治期に唯一鐘楼が再建されたのだそうです(※11)。父母の扇千代への思いが込められた光明殿も、そうした時代の波に消えてしまったのでしょう。

扇千代らの死から300年ほどの時が流れ、伊達家の墓域は昭和34(1959)年1月、「墓地、埋葬等に関する法律施行規則第3条」に基づき無縁墓地として改葬が決定されましたが、寺側の厚意によって改葬されることなく寺管理として供養が続けられていたのでした(※12)。下の写真は本田 勇氏の論文「仙台伊達家・瑞聖寺廟所について 扇千代・高姫の廟所」に登場した平成元(1989)年当時の瑞聖寺の様子です(写真6)。写真手前から墓石が3つ並んでいますが、一番手前の大きな笠塔婆が扇千代、その隣の小さな角柱が十三代藩主伊達慶邦の六男徳六郎、そして右端が高姫の墓碑です。徳六郎は明治23(1890)年、西福寺(現在の東京都豊島区駒込)から改葬されました(※13)。徳六郎も扇千代・高姫と同様に幼く亡くなった子です。『伊達略系』『宮城県通史』そのどちらにも徳六郎の生年月日は記されていませんが、徳六郎は明治6(1873)年6月29日に夭年1で亡くなったとされています。当時は数え年表記であることを考えると、徳六郎は1歳の誕生日を迎える前に亡くなったと考えられます。徳六郎の両親である慶邦と側室松岡氏は徳六郎を亡くした近い過去に二度こどもを亡くしており(松五郎 明治元(1868)年11月14日生・同3(1870)年12月6日没、某 明治4(1871)年7月17日生・同月21日没)(※14)。綱村夫妻と似た状況を経験しているとも言えます。瑞聖寺に眠っていた扇千代と高姫はきっと徳六郎のことをあたたかく迎え入れたことでしょう。

■伊達家墓所の改葬
時が流れて事情も変わり、無縁墓地扱いであった扇千代たちの墓所は伊達家墓所として復されたうえ、平成6(1994)年1月、改葬が行われました。重機で墓所の基壇下が掘り下げられたものの遺骨等が発見されなかったことから、既に改葬されていたと推測されました。そして平成7(1995)年6月、新たな檀家がここに墓を造成している作業中、扇千代の墓域にあたると思われる地点で青銅製の円筒形の容器が発見されたのです(※15)。現地表下1m程の地中から見つかった容器は港区立郷土資料館に引き渡され、調査が行われました。そして青銅容器の内側に蓋と側面に伊達家の家紋である「縦三引両」が描かれた木製の桶と内容物が入っていたことがわかったのです(※16)。その後、青銅製容器一式は伊達家末裔の許可を得て瑞聖寺から資料館へ寄贈され、調査が進められ扇千代の胞衣桶(えなおけ:胎盤等を納めた桶)だと判明しました。それは港区立郷土資料館に展示されていると知り、2020年2月初頭、出かけてみました。郷土資料館の展示品は一切が写真撮影禁止ということなので、今回は残念ながら展示された状態の写真はありません。報告書の口絵写真を紹介いたします。

名称:
仙台藩伊達家胞衣桶 付青銅製外容器
 

時代:
江戸時代
(天和元(1681)年出生者に使用されたと推定されるもの)
出土場所:
東京都港区 瑞聖寺 仙台藩伊達家墓所跡

■胞衣桶 実物
<構造と大きさ>
会場に展示されていたのは報告書の写真よりも随分淡い色調の緑色の容器1点だけでした。大きさとしては大人が両手でお腹の前で抱えるのにちょうど良いくらいの大きさです。報告書によると青銅製容器は蓋と身に分かれ、蓋は総高30.2cm、直径28.2cm、身は胴部高25.4cm、直径27.0cmということですから、容器の上から底面まで外気に晒されないように覆い包むような形状の蓋だと考えられます。展示会場で目にしたのは蓋ということですね。報告書に青銅製容器の身の部分の写真は残念ながら掲載されていなかったので想像するしかありません。蓋の取手の部分は14面体で実にモダンな印象を受けました。発見された時、この青銅容器の表面全体には楮(こうぞ)が付着しており、容器は紙で包まれた状態で埋納されたことが判明しました(※17)

<模様>
青銅製容器の蓋上面には銀で松と竹が、蓋の側面には2羽の鶴とその足元に1匹ずつの亀が毛彫で表現されていることがわかりました(※18)。報告書口絵の写真ではわかりづらいのですが、会場で実物を見ると、蓋の側面には二羽の鶴が向かい合い、向かって右側はくちばしを大きく開き、左側は閉じている様子が線描されています。まるで神社の狛犬や寺の門の両脇に立つ金剛力士像の「阿吽」のようでした。物事の始まりと終わりを意味する阿吽の形、それはまさに誕生の象徴である扇千代の胎盤を守り続け、扇千代亡き後、墓域に納められたことは彼の命の終わりを見届けたかのようです。報告書の中に模様が描き起こされたものがありましたので、その一部を紹介します(図1)

■木製桶
青銅容器の中から見つかった木製の桶は透けて見えるほど薄い平絹で包まれていたことがわかりました。平絹はタンニン系の色素を含む植物で染色され、当時は赤茶系の色であった可能性があり、この平絹にもやはり鶴・亀・松・竹が鉛白で描かれていたのでした(※19)。木製桶は杉材で平たい蓋と深さのある身の部分に分かれており、蓋には外容器と同じ多面体の取手があり、13枚の側板と底板から構成されていました。これらの展示がなかったのは残念でしたが、報告書によると桶の蓋に家紋「縦三引両」そして身の部分の側面にも家紋と鶴・亀・松・竹の模様(図2)(図3)が銀で描かれていたそうです。報告書に木桶の紋様が出されていましたが、大きな鶴二羽と小さな鶴一羽が向かい合ってくちばしを大きく開けている様子は、まるで楽しそうに何か会話をしている綱村夫妻と扇千代を象徴しているかのようです。2匹の亀も亀らしからぬ躍動感があり、活力漲る扇千代の健康と成長が吉祥柄に重ね合わせられているかのようです。

当時、赤ちゃんが生まれた後、胎盤を大切に桶の中に納める風習があったのは大名家だけではありません。一般の家庭でも行われており、江戸時代の女性の生活上の知恵やたしなみなどが示された『女重宝記』の中でも、「胞衣桶(えなおけ)」(写真8)として細かく記載されています。国会図書館のデジタルコレクションで閲覧することができます(※20)。▼印のところが胞衣桶に関する説明です。

翻刻されているものがありましたのでご紹介いたします。

八 産前拵(こしら)へ置くべき物
一、押桶(おしをけ)、常にいふ胞衣桶(ゑなをけ)なり。本式には十二いるものなり。され共一つにてもすむ事なり。さしわたし七寸九寸六寸、高さ六寸七寸、又は八九寸にもするなり。蓋あり。鶴、亀、松、竹をかくなり。十二押桶のときは、小刀も十二いる事なり。押桶一つなれば、小刀も一つなり。右の押桶、小刀、苧(を)、土器(かわらけ)三枚、予(かね)てこしらへおくべし。土器の上に押しあて、小刀にて臍の緒をつぎ、跡を紙にてつゝみ、苧にて結わへ付ておくなり。さて押桶には銭十二文、米すこし入もあり。又苧一筋、藁五筋、熨斗一筋入るもあり。方角を繰り、よき方へ地を一尺あまり掘り、塩水を上へすこしづゝうち、押桶を埋むなり。塩水をうつは、地神を礼(らい)するいわれなり。俗には敷居の下、そのほか人の越(こゆ)る所に埋むべしとも、又は産したる居間の下に埋(うづ)むともいふなり。下〱の産には、胞衣を薦(こも)に包み、路道にすつるを鴟(とび)、烏かけゆきて、宮社の上、神木、鳥居にすておくは勿体なき事なり。胞衣は子胎内にて頭に被(かづ)き、母の食物の毒気を防ぎ、その本は臍より続き、生気これより通ず。よつて胎内にては十月(とつき)が間に子を養ひ、生れ出ると乳をのむ故に、臍緒を絶ちても飢ゆる事なし。

引用文献:
艸田寸木子著, 長友千代治校註(1993)『女重宝記・男重宝記 元禄若者心得集』社会思想社, pp.97-99(※21)

この原文は後々参照しながら進めていくこととします。さて今回の木製桶の中に納められていたも のは「割竹」「銅銭」「石」「布に包まれた黒色有機物」でした(図4)

■割竹
桶の中で一番上から見つかったのは割られた4片の竹でした(写真9)。こちらは折られた部分の接合具合から、2本の割竹が半分に折られたものであることが明らかになりました。長さは約32cm、幅2cm程で一端に刃を付けた小刀です。『女重宝記』には「小刀にて臍の緒をつぎ」とあるように、胎盤から臍の緒を切断する際に用いられたのでしょう。ここで「切り」ではなく「つぎ」と書かれていることは、著者である医師の艸田寸木子(苗村常伯:なむらじょうはく)が、赤ちゃんに対して母体から命を「継がれた」存在として眼差しを向けていたことが考えられます。

この「竹」ですが日本では非常に古くから出産時に使われていたものであることが『日本書紀』巻二、神代下から知ることができます。木花開耶姫(このはなさくやひめ)は天照大神の孫である邇邇芸命(ににぎのみこと)との間に三柱の御子を授かりますが、出産時にそれぞれの臍の緒を青竹を薄くへぎとって作った小刀(あおひえ)で切り、捨てたその小刀は後に竹林になった(※22)と記されています。人々の暮らしの中で行う事柄は、壮大な時間を経ながら続いているものだと改めて驚きと感動が起こります。

■銅銭
木製桶の隅から3つの塊になった「寛永通宝」が見つかりました。これらはすべて裏面に「文」の文字が見られる「文銭」と呼ばれるものです。寛永通宝は17世紀半ばから19世紀末まで流通した通貨ですが、裏面に施された文様や文字(漢字一文字)等から、鋳造された時代や場所をある程度絞り込むことができます。「文銭」が鋳造された時期は寛文8(1668)年から元禄10(1697)年(※23)ですから、この文銭と共に納められた胎盤はこの期間に生まれたこどものものであることが推定されます。扇千代が誕生したのは天和元(1681)年7月15日ですから、確かにこの文銭の流通した時期に重なります。寛永通宝はその中央に正方形の穴が開けられている通貨ですが、そこに藁の紐が通されて73枚、37枚、10枚、合計120枚、すなわち120文が3つの塊として見つかったのでした(※24)。『女重宝記』には「さて押桶には銭十二文」とありますから、この桶はその10倍の金額が納められていたことになります。

■石
木製桶の中からこどものこぶし大の角のない小石が3個見つかりました。桶の底にあった布の包みの上から2個、そして布の包みの内側から黒い物体と共に見つかった1個です。『女重宝記』の「産前拵(こしら)へ置くべき物」には胞衣桶の中に石を入れる記載はありませんが、「生(むま)れ子の次第」の中でお食い初めの時に石を2個用意することが記されていました。それではこの胞衣桶の中の石はどういう意味があるのでしょうか? 港区文化財保護審議会及び胞衣桶の調査及び保存処理を行った元興寺文化財研究保存処理検討委員会の両委員である谷川章雄氏(早稲田大学人間科学部教授)によると、生まれるとすぐに米を炊いてウブメシ(産飯)として産神と子と産婦に供え、その膳の上にウブイシ(産石)と称する小石をのせる地方は多くあるそうで、木製桶から見つかった石も産神の依り代となるウブイシ(産石)に近い(※25)と考えられているそうです。

■黒色有機物
木製桶の底には桶の外側を包んでいた絹よりも太い糸で目も詰まり厚みのある平絹の包みがありました。その中から小石1個と共に黒い物体が見つかったのです。胞衣桶が地下から発見されて容器の蓋が開けられた時、その物体はまるで肉塊を想起させ、みずみずしいといった表現がふさわしいほど黒々とした光沢を持っていたそうです(※26)。しかしながら長年密閉された容器の中と大気中の湿度との差は、あまりにも大きかったのでしょうか。黒い物体は急速に乾燥が進んで収縮し、桶から取り出した段階では既に板状となってしまったのでした(※27)。この物体について名古屋大学医学部法医学教室で組織学的・分子生物学的分析が行われました。その結果、構造上の特徴や各種染色像、そしてDNA分析からヒトの胎盤組織とみて矛盾はないと判明されたのです(※28)

出土した墓所には扇千代と高姫の墓があり、寛永通宝の中でも鋳造時期が限られている「文銭」は扇千代と高姫の誕生した時期にちょうど当てはまり、また他に例のない見事な容器に納められて極めて手厚く処理をされており、伊達家の家紋「縦三引両」の家紋が記されていること等、様々な要因を総合的に検討された結果、この胞衣桶は扇千代誕生時に用意され、扇千代の胞衣が納められていた可能性が極めて高い(※29)と判明したのでした。

■なぜ墓に胞衣?
当時墓域や墓所に胞衣桶を埋めることはこどもの成長に悪影響を及ぼすと考えられていたにもかかわらず、胞衣桶が墓域から出土したのは、別の場所に埋められていた胞衣桶を扇千代の死後、供養のために墓域内へ移したためと考えられています(※30)。また亡くなった後、在りし日の身体の一部を取り寄せて改めて墓域に埋納されるといった例は、綱村の父である三代藩主伊達綱宗の例に見ることができます。正徳元(1711)年に逝去した綱宗は埋葬後、正徳4(1714)年に松島瑞巌寺から智歯が取り寄せられて石櫃に納められ、石室上部に追葬され、正徳5(1715)年に善応殿の本格的な工事が行われたと伝わっていることから、胞衣は墓に葬られた者の身体の一部のように極めて密接な関係にあるものと考えられた(※31)ことが背景にあると見られています。

■伯姫の生と死
扇千代が亡くなって2年後の貞享4(1687)年8月12日、綱村夫妻に二女が誕生し、当初二女は「高姫」と名付けられました(※32)。亡くなった高姫が再び綱村夫妻の元に生まれてきてくれたように感じたのでしょうか。追慕のあまり二女に長女と同じ名前を付けたのかもしれません。高姫は満1歳2カ月で亡くなっていたことから、恐らく綱村夫妻は伯姫が1歳2カ月を過ぎるまでは毎日祈るような気持ちで時間を過ごしていたことでしょう。ようやく無事に超えて時を経た1歳7カ月、またもや綱村夫妻に悲しい別れが待ち構えていたのです。元禄2(1689)年3月12日、伯姫は息を引き取ったのでした。伯姫の死因をたどる文献はみつかりませんが、屋敷内に響き渡るような綱村夫妻の慟哭が聞こえてくるようです。伯姫は弘福寺(現在の東京都墨田区向島)に葬られました。
弘福寺は瑞聖寺から北東に11kmほど離れた位置にあります。なぜ兄扇千代、姉高姫と別の寺に葬られたのでしょうか。その事情を示す手掛かりを今回文献上探し出すことはできなかったのですが、弘福寺は鉄牛禅師による開山、稲葉美濃守正則開基の黄檗宗の寺です(※33)。つまり弘福寺は綱村が信頼を寄せる人生の師、鉄牛禅師と岳父によって開かれた場所。何らかの事情できょうだい一緒に瑞聖寺に葬ることはできなかったけれども、伯姫の安らかに眠る場所として弘福寺が選ばれたのではないでしょうか。

当時の事情として、藩主の夭逝した子がたとえ兄弟姉妹であっても別の寺の墓所に葬られることは、決して珍しい事案ではなかったようです。『伊達略系』に記されている系譜の中で夭逝した人々の埋葬場所を見ると、いくつもそうした例を確認することができます。

■伯姫の改葬
伯姫の死から200年以上経た大正15(1926)年7月20日、伯姫の墓は弘福寺から宮城県仙台市経ヶ峯の御子様御廟へと改葬されました。Lana-Peaceエッセイ アート・歴史から考える死生観とグリーフケア 「御子様御廟(公子公女廟)(宮城県仙台市 経ヶ峯)」(※34)で取り上げていますので、詳しくはそちらを参照してください。御子様御廟の伯姫の墓石には改葬日と改葬前・後の地名が刻まれている(※35)ことから、改葬時に新しく墓石が用意されたのだと考えられます。
御子様御廟の墓域を入ってすぐ左手に伯姫の墓が見えてきます。伯姫の墓石は西側に一回り大きい笠塔婆の五代吉村養女孝姫の墓、東側に無縫塔の年代不明の尼の墓(竜華院分流智禅尼)の間に、まるで守られるかのように立っていました(※写真10)

■父綱村の政治と心の底にあるもの
綱村の政治人生はあまり幸せな終わり方をしていません。領内経済が混乱に陥ったのは藩札発行による物価高騰のせいだとされ、あまりにも集中した寺院建立は藩の経済破綻をもたらしたと糾弾の目にあい、ついには事を穏便に済ませるためでしょうか、義兄稲葉正通から病気を理由にして隠居願を出すよう促されたのです(※36)。その後綱村の養子となった五代吉村は財政窮地の仙台藩を見事に再建した「中興の英主」(※37)と言われますが、時の運と父綱村の布石によって助けられた部分も見落としてはならないと思います。例えば江戸で仙台藩の米を売る買米仕法は確かに約50万両もの利益を上げましたが、それは享保17(1733)年、西日本で起こった飢饉により江戸での米価が高騰した(※38) ことが背景にあります。また莫大な利益を上げた石巻での寛永通宝鋳銭は吉村が幕府から許可を得て着手した事業ですが、実は綱村の時代から幕府へたびたび出願していた(※39) のでした。
綱村が手掛けた寺院建立の主なものについて見てみると、元禄2(1689)年から始まった日光東照宮の修営事業が目を引きます。幕府から普請を命じられた綱村は元禄2(1689)年7月から翌年の6月まで1年かけて大事業に取り組みました。その範囲は「五重塔を除く東照宮及び大猷院廟関係日光山内建築全般に亘り、且つ東照宮主要建物については解体修理に及ぶ徹底した大修理」(※40)と評価されています。元禄2年と言えば、二女伯姫を3月に亡くした年です。綱村にとっては藩の財政的にもマンパワーとしても随分苦労を要したけれども、彼がこの事業に携わり、成し遂げていくことは彼が生きてい行く上で必要不可欠だったのかもしれません。ついに三人目の子までにも早く先立たれてしまった悲しみを抱えながら、自分は何を生きがいに生きていけば良いのか。そうした心境の折に幕府にとって重要課題の大仕事に自分が責任者として抜擢され、仕事を任されたことは彼を奮い立たせる起爆剤となったことでしょう。初代将軍徳川家康公を祀る東照宮の修営を数ある大名の中から任されたことは自身の誇りとなり、自分が生き続けることへの意味を見い出すきっかけになったと言っても過言ではないかもしれません。

また彼はその後も仙台藩内で大きな寺社の建立、改築を着手しています。元禄8(1695)年、孝勝寺釈迦堂(仙台市)建立、鹽竈神社(塩釜市)の社殿改築着工、元禄9(1696)年は伊達氏の墓所にもなった大年寺(仙台市)を建立、元禄10(1697)年は善応寺(仙台市)建立、と連続して大きな事業に取り組んでいたことがわかります。しかしそれも「元禄8年」を皮切りに続いたことは、彼にとって大きな意味があったと思うのです。なぜならこの年の12月26日、宮床伊達家初代当主・伊達宗房の長男を世子として養子に迎えたからです(※41)。後の五代藩主吉村です。扇千代没後10年の節目として心の中で何か踏ん切りがついたのだろうかと想像します。実子亡き今、これからの未来を託す吉村がどうか健やかに、禍に遭うことなく成長してほしいと心から切に願っていたことでしょう。それゆえ自らの寺社建立が神仏に功徳として認められ、養子吉村へご加護が振り向けられることを願う親心が強く綱村に働いたのだと思います。たとえ藩の財政が苦しくてもできることをやらずにはいられない、そんな風に気持ちが駆り立てられたのかもしれません。

妻千姫は幼い頃から観世音菩薩に対する信心が深い人で、朝早くから読経する声が絶えることがなかったと伝わっています(※42)。我が子と悲しい死別を重ねるうち、その読経は早世した三人の極楽浄土での救いを心より願うものとして声を大にしていたことでしょう。

更に神仏による救済の力に頼るという点とは別の角度から想像を膨らませてみると寺社の「修繕」「改築」「新規建立」といった建築事業は、綱村にとっては特別な意味があったように思います。なぜなら事業の終わりに成果物として自分で目で見て、触ることもでき、周りからの評判を耳にすることもできるからです。「古く見劣りしていた建物が立派になった」「無だった場所に新しく建物が立つ」それらは自分の努力の軌跡を振り返り再認識する上で、実に大きな意味を持つことになります。そして更に重要なことはこうした建築物は「立派な建物ができた」こと以上の価値を含むところがあるという点です。寺社は人々の心の拠り所となり、人々が集い、人々を導き、やがて長く慕われる場所になるということは、まさに綱村が我が子が成長した暁に求めていた理想の姿だったのではないでしょうか。寺社の建築事業に我が子を産み育て、成長を見守るかのような思いを重ね合わせていたのだろうと思います。

綱村はアカデミックな領域でもしっかり結果を残しています。伊達家の歴史書編纂を手掛けたのは綱村であり『貞山(政宗)公年譜』『伊達出自世次考』『伊達正統世継考』『治家記録』等の編纂はいずれも綱村の命によって始まったものです。伊達家の先祖の繋がりの中で、次世代に「伝える」ことの重要性を強く意識していたとも考えられます。調べ、書き残すこと、それを伊達家の長い歴史の中で自分が果たすべき役割として強く自覚していたのかもしれません。

三人の子に先立たれた後、綱村は千姫との間に新たに子を授かることはありませんでした。江戸時代、正室の他に複数の側室を侍らすことはよくありましたが、綱村は側室を置くことなく、前述の吉村を養子を迎えた他に、綱村の異母妹にあたる綺羅姫を養子に迎えています。それがいつであったのか記録を見つけることはできなかったのですが、綺羅姫は延宝8(1680)年12月25日に生まれています(※43)から、兄綱村とは20歳ほど年が離れており、養女として迎えても自然な親子関係を築けたのかもしれません。また綺羅姫が誕生したのは扇千代誕生の7カ月ほど前です。綱村にとって綺羅姫の成長はすなわち扇千代の成長にも等しく思える節があったとも考えられます。

享保4(1719)年6月20日、綱村は60年の生涯を閉じました。仙台藩は三代藩主までは経ヶ峯に瑞鳳殿、感仙殿、善応殿といった立派な廟が設けられましたが、綱村は自らの廟を作ることを禁じたのでした。それはひとえに藩の財政を憂うためです。自分の跡を継ぎ五代藩主として藩を治める養子吉村の苦労を減らしたい一心だったのでしょう。綱村はかつて自らが鍬入れの式を行って地を拓き、元禄10(1697)年、鉄牛禅師により開山された大年寺(現在の宮城県仙台市太白区)に葬られたのでした。

 
<図>
図1 青銅製容器 側面模様
松本健(1998)「瑞聖寺旧伊達家墓所出土「胞衣桶」の保存処理に伴う調査」『港区文化財調査集録』第4集, pp.5-6 図引用
図2 木製容器 側面模様
松本健(1998)「瑞聖寺旧伊達家墓所出土「胞衣桶」の保存処理に伴う調査」『港区文化財調査集録』第4集, p.7 図引用
図3 木製容器 側面模様
松本健(1998)「瑞聖寺旧伊達家墓所出土「胞衣桶」の保存処理に伴う調査」『港区文化財調査集録』第4集, p.7 図引用
図4 図4:胞衣桶内容物(割竹除去後)
胞衣桶内容物の配置概念図(蓋及び割竹を取り出した後の状態)
 
図はいずれも下記論文(※)各ページ掲載図より引用
図1 pp.5-6, 図2及び3 7, 図4 p.8
※松本健(1998)「瑞聖寺旧伊達家墓所出土「胞衣桶」の保存処理に伴う調査」『港区文化財調査集録』第4集, pp.1-16
<写真>
写真1 瑞聖寺 大雄宝殿(東京都港区白金台, 2020/2)
写真2 瑞聖寺 鐘楼(東京都港区白金台, 2020/2)
写真3 桂洲甫(1686)『病名彙解』巻六, pp.22-23(国会図書館デジタルコレクション 25コマ「急驚風」)
写真4 桂洲甫(1686)『病名彙解』巻二, p.10(国会図書館デジタルコレクション 12コマ「痢病」)
写真5 斎藤幸雄ほか編(1922)『江戸名所図会 二』巻之三,有朋堂書店, pp.82-83(国会図書館デジタルコレクション45コマ)「瑞聖寺」(原本:斎藤月岑(1834)『江戸名所図会』)
写真6 本田 勇(1990)「仙台伊達家・瑞聖寺廟所について 扇千代・高姫の廟所」『仙台郷土研究』15(1), p.58 写真「瑞聖寺伊達家墓碑」引用
写真7 松本健(1998)「瑞聖寺旧伊達家墓所出土「胞衣桶」の保存処理に伴う調査」『港区文化財調査集録』第4集, 巻頭カラー図版 「仙台藩伊達家墓所後出土胞衣桶と銅容器」引用
写真8 艸田寸木子(1692)『女重宝記』巻三, 吉野屋次郎兵衛ほか, p.12 (国会図書館デジタルコレクション 45コマ「胞衣桶」
写真9 松本健(1998)「瑞聖寺旧伊達家墓所出土「胞衣桶」の保存処理に伴う調査」『港区文化財調査集録』第4集, p.15 写真「割竹」引用
写真10 御子様御廟(宮城県仙台市経ヶ峯, 2019/7)
 
写真3-5, 8 当方作図, 写真1-2, 10 当方現地撮影
 
<文中引用>
※1 作並清亮 編(1915)『東藩史稿 四(自十至十二)』出版 渡辺弘,pp.9-10 (原本 巻之十) 国会図書館デジタルコレクション 11コマ
※2 本田 勇(1990)「仙台伊達家・瑞聖寺廟所について 扇千代・高姫の廟所」『仙台郷土研究』15(1), p.51
※3 作並清亮編(1905)『仙台文庫叢書 ; 第1集 伊達略系』作並清亮, p. 15 (国会図書館デジタルコレクション18コマ)
※4 清水東四郎(1931)『宮城県通史』新約社書店, p.411
※5 前掲書2, p.45
※6 桂洲甫(1686)『病名彙解』巻四, p.5(国会図書館デジタルコレクション 29コマ「慢驚風」)
※7 桂洲甫(1686)『病名彙解』巻六, pp.22-23(国会図書館デジタルコレクション 25コマ「急驚風」)
※8 桂洲甫(1686)『病名彙解』巻二, p.10(国会図書館デジタルコレクション 12コマ「痢病」)
※9 前掲書2, p.48
※10 前掲書2, p.50
※11 紫雲山瑞聖寺(東京都港区)ホームページ
※12 松本健(1998)「瑞聖寺旧伊達家墓所出土「胞衣桶」の保存処理に伴う調査」『港区文化財調査集録』第4集, p.3
※13 前掲書2, p.52
※14 清水東四郎(1931)『宮城県通史』新約社書店, p.430
※15 前掲書12, p.3
※16 前掲書12, pp.3-4
※17 前掲書12, p.9
※18 前掲書12, p.4
※19 前掲書12, pp.8-10
※20 艸田寸木子(1692)『女重宝記』巻三, 吉野屋次郎兵衛ほか, p.12 (国会図書館デジタルコレクション 45コマ「胞衣桶」)
※21 艸田寸木子著, 長友千代治校註(1993)『女重宝記・男重宝記 元禄若者心得集』社会思想社, pp.97-99
※22 前掲書21, p.98
※22 小島憲之ほか校注・訳(1994)『新編日本古典文学全集 日本書紀 1』小学館, p.143
※23 前掲書12, p.13
※24 前掲書12, p.8
※25 谷川章雄(1998)「瑞聖寺出土の伊達家の胞衣樋について」『港区文化財調査集録』第4集, p.20
※26 前掲書12, p.3
※27 前掲書12, p.9
※28 勝又義直・山本敏充・打樋利英子 (1999)「瑞聖寺伊達家墓域出土『胞衣桶』の胞衣組織の同定」『研究紀要』第5号, 港区立港郷土資料館, p.28
※29 前掲書12, pp.13-14
※30 伊達泰宗(2010)「扇千代君の胞衣桶」, 伊達泰宗/白石宗靖『伊達家の秘話』PHP研究所, p.79
※31 前掲書25, p.21
※32 前掲書14, p.412
※33 牛頭山弘福寺(東京都墨田区) ホームページ
※34 Lana-Peaceエッセイ アート・歴史から考える死生観とグリーフケア 「御子様御廟(公子公女廟)(宮城県仙台市 経ヶ峯)」
※35 佐藤明(1980)「経ヶ峯霊廟の遺構・遺物一金工・石工を中心として―」『仙台市文化財調査報告書第22集 経ヶ峯』仙台市教育委員会, p.220
※36 伊達宗弘(2007)『伊達八百年歴史絵巻 時を超へ輝く人の物語』新人物往来社, pp. 101-102
※37 山本博文(2014)『江戸三〇〇藩物語藩史 北海道・東北篇』洋泉社, p.125
※38 前掲書37, pp.126-127
※39 前掲書37, p.127
※40 横山秀哉(1960)「日光廟元禄修営の顛末」『日本建築学会論文報告集』第66号, p.532 
※41 前掲書14, p.412
※42 前掲書1, pp.9-10 (原本 巻之十) 国会図書館デジタルコレクション 11コマ
※43 前掲書14, p.410
   
 
<引用文献 論文原本・参考文献>
本田 勇(1990)「仙台伊達家・瑞聖寺廟所について 扇千代・高姫の廟所」『仙台郷土研究』15(1), pp.48-58
松本健(1998)「瑞聖寺旧伊達家墓所出土「胞衣桶」の保存処理に伴う調査」『港区文化財調査集録』第4集, pp.1-16
谷川章雄(1998)「瑞聖寺出土の伊達家の胞衣樋について」『港区文化財調査集録』第4集, pp.17-22
勝又義直・山本敏充・打樋利英子 (1999)「瑞聖寺伊達家墓域出土『胞衣桶』の胞衣組織の同定」『研究紀要』第5号, 港区立港郷土資料館, pp.25-34
仙台市教育委員会(1980)『仙台市文化財調査報告書第22集 経ヶ峯』仙台市教育委員会
横山秀哉(1960)「日光廟元禄修営の顛末」『日本建築学会論文報告集』第66号, pp.529-532 
両足山大年禅寺(宮城県仙台市太白区)ホームページ
 

先立たれた悲しみを抱えたまま、生きていくことの辛さは今も昔も変わることはありません。そうした自分を支えてくれるのは、何か打ち込めるものを人それぞれ見つけることなのだろうと思います。

2020/3/15 長原恵子
 
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「御子様御廟(公子公女廟)(宮城県仙台市 経ヶ峯)」
「二十代で三度の死別を経験した父の軌跡」※本ページ