病児・家族支援研究室 Lana-Peace(ラナ・ピース)
Lana-Peace 「大切なお子さんを亡くされたご家族のページ」
大切なお子さんに先立たれたご家族のために…
 
ご案内
Lana-Peaceとは?
プロフィール連絡先
ヒーリング・カウンセリングワーク
エッセイ集
サイト更新情報
日々徒然(ブログへ)
 
エッセイ集
悲しみで心の中が
ふさがった時
お子さんを亡くした
古今東西の人々
魂・霊と死後の生
〜様々な思想〜
アート・歴史から考える死生観とグリーフケア
 
人間の生きる力を
引き出す暮らし
自分で作ろう!
元気な生活
充電できる 癒しの
場所
アート・歴史から考える死生観とグリーフケア
古作貝塚 貝輪
(東京国立博物館 蔵)
 
 
貝輪
古作貝塚 貝輪
(撮影許可あり)
場所・時代:
古作貝塚, 千葉県船橋市
縄文時代(後期)・前2000〜前1000年
所蔵先:
東京国立博物館(東京)列品番号
J-23291, J-23292, J-23293, J-23337, J-23338
出展先・年:
東京国立博物館(東京)「縄文時代の装身具と祈りの道具」平成館 考古展示室, 2017
 

昭和58(1983)年に千葉県の古作貝塚から出土した女性とこどもの人骨のお話をこちらでご紹介しましたが、今日はもっとその前、昭和の初めに古作貝塚から出土した貝輪のことをご紹介したいと思います。

明治時代には既にその存在が知られていた古作貝塚でしたが、この地に競馬場が作られることとなりました。現在の中山競馬場です。そのためついに昭和3(1928)年、古作貝塚は破壊の憂き目にあうこととなりました。
当時の『人類学雑誌』に寄稿された八幡一郎先生の論文「最近発見された貝輪入蓋附土器 下総古作貝塚遺物雑感の一」に、松村瞭先生がはしがきを寄せられていますが「東洋一の大競馬場となつてしまつて、最早貝塚の面影は殆んど見られない程にも変形してしまつた。(※1)」と書かれていることからも、相当大規模な工事が行われたかがうかがえます。その際、この蓋付土器が出土したのでした。
保管していた工事者の厚意により東京大学人類学教室に寄贈されたこの土器は、土器周囲に付着していた土も洗い落とされない発掘当時のまま、土器を壊したり、中身を取り出されることもなく、研究者の手元に渡ったのです。松村先生は「特筆して感謝する次第である」と記されていましたが、まさに今こうしてこの土器と貝輪について知ることができるのは、工事関係者と研究者のおかげだと言えます。

千葉県船橋市の飛ノ台史跡公園博物館の展示解説パネルにその土器の写真がありましたので、右に出しておきます(※写真1)。あたたかみのある色合いで、素朴な形状の蓋付の土器です。本体と蓋にはそれぞれ掴みやすそうな持ち手がついています。装飾重視の持ち手ではなくて、実用性重視のデザインといった印象を受けます。
古作貝塚
※写真1 貝輪の入っていた壺

八幡先生の論文の中には土器の概要と内容物について細かく記されていました(※2)ので、ご紹介しましょう。 向かって右側の土器、蓋がのせられたままの土器は蓋付の状態で高さが22cmあったそうです。この中には土器の底から貝輪が水平に重なり合うように入っていました。ツタノハガイ製の貝輪9枚、ベンケイガイ製の貝輪20枚、サルボウガイ製の貝輪3枚、合計32枚もの貝輪が入っていたのです。
そして写真向かって左側、蓋をとった方の土器は少々小ぶりで、蓋付の状態で高さは18cm、同じく貝輪が水平に重ねられていました。内訳はベンケイガイ製の貝輪 1枚、サルボウガイ製の貝輪 18枚、合計19枚の貝輪が入っていました。
それらの貝輪のうちの5枚が、東京国立博物館の平成館で目にすることができたわけです。貝輪の年代は縄文時代(後期)・前2000〜前1000年と記されていました。随分昔のものになりますが、実にきれいです。

ページ最初の写真を大きく表示したものがこちらになります。

古作貝塚
写真2-a  古作貝塚出土の貝輪
古作貝塚
写真2-b  古作貝塚出土の貝輪

貝輪の穴はとてもきれいです。石器を使って硬い貝にきれいな円形の穴を開けるのは、至難の業だと思いますが、実になめらかな穴です。当時の人々の技術は本当に素晴らしいと思います。私が作ったらうっかり亀裂が入って貝が割れたり、いびつな形になってしまいがちだと思うのですが…。

古作貝塚
写真2-c  古作貝塚出土の貝輪

八幡先生は「貝輪を貴重品として土器に収めたと云ふ解釈は古作の場合にも適用出来るかと思ふ。」「貝輪を何等かの必要上貯蔵する風習があつたものとも思はれるのである。」(※3)と記されていました。当時貝輪が大切なものではあったけれども、どういう意味があったのかについては明らかにされてはいませんでした。

さて古作貝塚では、人骨と共に見つかった貝輪もあります。飛ノ台史跡公園博物館の展示解説パネルにあった写真を当方が撮影したものが、下の写真です。黄色の矢印で示した部分が貝輪です。いつ出土されたものか、年代が併記されていなかったので詳細不明な点が残念です。

古作貝塚
写真3-a  古作貝塚出土の人骨と貝輪
(パネル写真に当方が矢印を追加挿入)
古作貝塚
写真3-b  右手首あたりの骨と貝輪

ちょうど人骨の右手首のあたりに1つ、そして足首のあたりと想像される位置にもう1つ貝輪が見えます。貝輪を装着したまま、葬られたのでしょうか。

展示解説パネルには 「貝輪は単なるアクセサリーではなく、悪霊から身を守るためにつけたのかもしれません。」と記されていました。

貝輪を伴った人骨の中でも、こどもの人骨が山口県下関市の土井ヶ浜遺跡で見つかっています。山田康弘先生の著書『老人と子供の考古学』の中にそのお話が登場します。そちらによると土井ケ浜遺跡の3号幼児人骨と呼ばれるこどもは、マツバガイ製の貝輪を9個伴っていました。貝輪はシンプルに打ち欠いただけで内側面の加工が粗いことから、山田先生はこの貝輪はこどもが生前から身につけていたものではなく、亡くなってから埋葬されるまでの間に装着されたもの、すなわち死装束としての意味があったという考えを示されています(※4)。
実際縄文時代に戻ってみなければ、アクセサリーやお守りの意味で貝輪をずっと身につけていたのか、あるいはそれが死出の旅を安らかにすることを願って添えられ、共に埋葬されたものなのかはわかりません。しかし、もし後者であれば、そこには当時の人々が感じていた「死後の生」といった世界観が浮かび上がってきます。そして死者へ向けられたあたたかい眼差しがだんだんと感じられます。

貝輪を身につけたこどもの人骨は、島根県八束郡の古浦遺跡からも数体発見されています。古代の貝輪の持つ意味について、これからもう少し探ってみようと思いますが、八幡先生の述べられるように当時「貝輪は貴重品」であったことは間違いないですね。そしてそれは、人々にとって何らかの力を発揮するものだったからこそ、大切にされ、身につけていたのだろうと思います。貝輪一つをとって見ても、そこにはいろいろな人々の思いがたくさんつまったものであることを、忘れてはいけないと思います。

参考文献:
※八幡一郎(1928)「最近発見された貝輪入蓋附土器 下総古作貝塚遺物雑感の一」人類学雜誌, 43(8),pp.357-366
※古浦遺跡調査研究会、鹿島町教育委員会(2005)『古浦遺跡』

引用文献:
※1 八幡一郎(1928)「最近発見された貝輪入蓋附土器 下総古作貝塚遺物雑感の一」人類学雜誌, 43(8), p.357
※2 前掲書, p.360(第一表), p. 363(第二表)参照
※3 前掲書, p.364
※4 山田康弘(2014)『老人と子供の考古学』吉川弘文館, p.69

写真1, 2-a, 2-b, 2-c, 3-a, 3-b 
飛ノ台史跡公園博物館 展示解説パネル撮影物

2017/12/8  長原恵子