病児・家族支援研究室 Lana-Peace(ラナ・ピース)
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思いの限りを尽くした最期のお別れ

今日は鳥取西館新田藩第五代藩主池田定常(松平冠山)公の十六女・露姫に関するお話の第3回目です。疱瘡(ほうそう)に臥した露姫が19日間の闘病生活の末に命尽きた後、弔うまでの父冠山公の姿について取り上げていきます。

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■最期の時間
<文政5年11月26日・27日>
文政5(1822)年11月9日の発熱から始まった疱瘡(天然痘)は、懸命に頑張る露姫の生きる力を徐々に奪っていきました。やがて11月26日の夜には脈も弱まってきました。露姫の治療にあたっていた2人の藩医はこの先、露姫の命はそう長くないと判断しました。日付が変わった27日深夜、露姫は気持ち良さそうにすやすやと眠りを得ていたことから、そのまま静かに休める環境を整えてあげることになりました。夜中に無理に露姫を起こして薬の内服をさせることも控え、看病にあたっていた人々は隣の部屋に移りました。そして露姫が赤ちゃんの頃からずっと世話をしていた侍女のときが露姫の傍に残り、露姫を見守り、夜を明かしました。

11月27日、闘病19日目の朝、露姫はついに息を引き取りました。冠山公の腹心の家臣、服部脩蔵が手掛けた露姫の生涯記「むとせの夢」では「辰の刻すぐるほどに、たえ入給ひぬ。」(※1, 2)と短く記されています。辰の刻を過ぎた頃とは午前9時過ぎあたりのことです。それまでの闘病についてはこと細かく書かれていた分、絶命時の露姫の様子があまりに短い文章で留められているところに言葉にしつくせない悲しみが、凝縮されているようにも思えます。

「露霜と成り川となる露の玉」(※3)、そう父が詠んで祝った露姫の満5歳の誕生日から、まだ1カ月も経っていない早すぎる終焉でした。露姫の時代から30年ほど下り種痘普及のために作られた「種痘之図」では種痘によって期待される効果として「親の苦もぬけてたのしむ みとり子の千代の命を結ぶとうとさ」(※資料1)と解説が結ばれています。露姫が種痘を受けて疱瘡を予防することができていたならば、露姫はしっかりと成人を迎え、存分にこの世の人生を生き抜くことができたでしょう。幼女ながらも大人顔負けの深い博愛精神と利発さが抜きんでていた露姫です。世の中を大きく変えるような人物へと成長していたのではないか、そう思うのは家族やご縁のあった人だけでなかったことは、この数年後、浅草寺に奉納される運びとなった『玉露童女追悼集』全30巻の中にも表れています。これは露姫の死を悼み、その人生を讃えた全国の人々が冠山公に寄せた俳句、和歌、詩文、絵画等が納められたもので、その数何と1,600点余りにも上ります(※4)。「むとせの夢」の中では家族や周囲の悲しみを次のように記されています。「さて、上々の御なげきハ申もおろか、御もと人より末々の輩までも、この君のかくれさせ給ふときゝ奉りてハ、涙に袖をしぼらぬハなく、殊によるの鶴の御心の中おもひやり奉れバ、はらわたをたつばかりになん。すでに御枕を北になし、右脇にふさしめ奉りけれバ、おん水たむけまゐらするさへ、手ふるへ、涙せきとめがたく、よるひるのわかちさへおぼヘざりけり。」(※5, 6)いかに人々が露姫の死を悲しみ嘆いたか、伝わってきます。

ここに出てくる「よるの鶴」とは白居易の漢詩「五絃弾」の中の一節、「第三第四絃冷冷夜鶴憶子籠中鳴」(※7)に基づくと思われます。五弦の琵琶の第三・第四の弦の音は、夜、籠の中で子鶴を思って鳴く親鶴の哀愁漂う声のようだ、と詠まれている部分です。露姫を亡くした両親の胸中を白居易の詩の表現を借りて慮り、我々臣下もまさに断腸の思いで末期の水を捧げる時も手元が震え、こらえきれない多くの涙は着物の袖を濡らした、と記していたのでした。

■露姫の葬礼
<文政5年11月27・28日> 読経
露姫が亡くなった当日、江戸の菩提寺である弘福寺へ露姫逝去の一報が届けられました。幼き命の訃報に鶴峯和尚はどんなに驚いたことでしょうか。こちら(※8)で少し触れましたが、3年前、冠山邸を来訪した鶴峯和尚を露姫は大歓迎し、こどもながらにも和尚様をもてなそうとおはじき遊びを提案したことがありました。きっとあの日の露姫の笑顔が、鶴峯和尚の脳裏をよぎったに違いありません。老身の鶴峯和尚は病気がちであったことから代わりの者を冠山邸に送りました。そして27、28日、昼も夜も絶えまなく露姫のそばで読経をあげさせたのでした。

<文政5年11月29日> 湯灌・納棺・剃度式
冠山公が見守る中、侍女のとき、たつ、服部脩蔵、露姫の姉達に仕えていた家臣井村正蔵によって露姫の身体が清められました。そして家族皆が揃って露姫の納棺を行いました。「むとせの夢」には「御瓦棺」とあります。素焼きの棺ということでしょう。そして露姫の身体が隠れるほど多くの経文や仏名、お題目等が納められました。それらは皆、家族が心を込めて書いたものです。更に侍女や家臣らが行った写経も納められました。

侍女の中には遊び道具を一緒にいれてあげてはどうかと申し出る者もいましたが、冠山公はそれを厳しく制しました。思い出の品を納めることは人の情として自然であったはずですが、なぜ冠山公はそれを許さなかったのでしょうか。これは推測の域を過ぎませんが、露姫はこれから往生し、仏様として生きるのだからこれまで人間界で使っていた遊び道具を入れることでこの世に未練を残してはいけない、そういった思いが父の胸にあったのかもしれません。

冠山公は子息・息女の死の折、納棺時に共に収める物について、一方ならぬ思いがあったようです。長男定興(さだおき)が文化4(1807)年11月3日、国許で亡くなった際、冠山公は江戸にいたことから、葬儀の実際の準備は地元の家臣等が進めていました。そこで冠山公は懸念することが一つありました。それは日頃息子が身に着けていた刀剣を定興に仕えていた者が良かれと思い、棺の中に一緒に収めたのではないか、ということです。まだ埋葬していないのであれば刀剣を取り出し、代わりに木で作った剣を収めるようにと手紙を出しました。「道にちがひたる事を打すておくは不慈と思ひ寄りて」(※9, 10)と冠山公は後年したためた随筆『思ひ出草』の中で述べています。「本来あるべき姿や方法ではない状態を見逃して放置することは、人として持つべき情けを欠いたことになると思って」ということでしょう。家臣は定興公が死後悪しきものから守られますように、と願っていたとしても、墓荒らしによって刀剣が盗み出され、万が一悪用されて国許の民に危害が及んではいけない、といった配慮の末の指示だったのかもしれません。

露姫の瓦棺は更に柩の中に収められました。その際冠山公は家族に炭を持たせて瓦棺の周りを埋め尽くさせました。「およそ上つかたには、かゝるためしをいまだきかず。」(※11, 12)とあります。身分の高い人々が死者を悼む葬礼の際、このように自らが葬礼行為に直接携わることはなかったということなのかもしれません。冠山公の前出の言葉を借りれば「道にちがひたる事」であったにもかかわらず、家族にそうさせた理由はなぜか? きっと彼の正義の中で善とみなしたことは善、そういう強い信念があったからでしょう。譲れない部分と譲れる部分、そのせめぎあいの中で冠山公が「こうだ」と選択したことは娘のための究極の善だったとも言えます。

考古学者の谷川章雄氏は18世紀以降の江戸のお墓の埋葬形態を14に分類(※13)していますが、露姫の納棺方法はこのうち「木炭・漆喰(石灰)床・槨木槨甕棺墓」に相当すると考えられます。甕棺の外側に木槨があり、甕棺と木槨との間に漆喰(石灰)や木炭が充填されているものです。なぜ炭を瓦棺の周りに詰めたのでしょうか。
ここで参考になるのが昭和30(1955)年、東京都文京区両門町で見つかった幕臣一族のお墓です。開業歯科医として診療の傍ら、人類学者でもあった河越逸行氏の著作の中に登場します。ビル建築のために15mほど掘り下げが必要となった際、人骨が出土し、18世紀末以降の旗本近藤登之助一族の改葬前墓所跡であることがわかりました。続いて発掘調査が行われ、木箱の中の甕から人骨が6例、湿気除けと考えられる木の葉がぎっしり詰まった状態で見つかりました(※14)
また昭和39(1964)年開催の東京オリンピック用の道路造設のため、渋谷区千駄ヶ谷の仙寿院で紀州徳川家関係の墓所改葬が行われました。この際、18世紀初めから19世紀後半の埋葬者が改葬対象となりました。改葬に当たり発掘された棺は錠前がかけられ、中に収められていた遺体の周りからは、木炭が見つかりました。こちらも湿気対策として考えられ、炭も細かいものではなく、相当の長さを持ち、太さが直径6cmものしっかりした木炭であったことが明らかになっています(※15)

このような江戸時代の埋葬例から考えると、瓦棺の中の露姫の身体を覆った経文、仏名、お題目等の紙、そして瓦棺の周りに詰められた木炭は、湿気対策としても大いに役割を果たしたことでしょう。また木製・素焼きの二重の棺をとったことで、雨水による棺内の直接の汚染、地震等に伴う地下土層の変化と土砂流入のリスク等から遺体を守ったであろうと考えられます。露姫が浄土に往生する、すなわち往きて浄土の世界で生きるならば、今世の墓所での身体がどうであろうと気に病むことなどない、という考えもあるかもしれません。とはいえ、道理を度外視して娘のために善と思われることは手を尽くしてやってあげたい、それが冠山公の親心であったのではないでしょうか。

11月29日夕方、光雲寺の揚州和尚を戒師として冠山邸で剃度の式が行われることになりました。光雲寺は大和国高取郡(現在の奈良県高市郡)のお寺ですが、揚州和尚は宇治の萬福寺からの使者としてしばらく弘福寺に滞在していた折、露姫逝去の報を知ったのです。萬福寺は黄檗宗の大本山、そして光雲寺及び弘福寺は黄檗宗の末寺でした。
揚州和尚と池田(松平)家とは深き縁がありました。露姫の姉で八女の昌姫が15年前の文化4(1803)年、満4歳で亡くなった時にも剃度を務めた方だったのです。冠山公の悲しさと幼く逝った姫君たちの無念さを思うと、揚州和尚の胸に迫る思いもあったことでしょう。その夜、露姫のために夜通し読経が行われました。

<文政5年11月30日> 出棺
11月30日酉の刻(午後6時前後)、弘福寺の墓所に向けて出棺となりました。露姫の葬列には兄定保の代理として家臣の神戸左橘、そして姉達の代理として前日、露姫の身体を拭き清めた井村正蔵がお伴することになりました。

菩提寺墓所へと埋葬される時間は刻々と迫りゆく中、娘のために父としてできることは何だろうか、死してなお娘が心残りを病まぬように……。そこで冠山公は娘の願いを結実させようと、ある一つの決断を下しました。葬列を直接弘福寺に向かわせるのではなく、浅草寺の前を通る経路を採らせたのです。露姫が篤く信仰を寄せていた観音様への参拝を叶えるためでした。弘福寺は冠山邸からは北北東に約6.3km、隅田川(当時は大川)中流の東岸側にありました。冠山邸は隅田川河口付近、川を挟んで西側に位置しており、弘福寺に向かうには北上して隅田川を渡る必要がありました。当時利用できる橋は4本、冠山邸から近い順番に永代橋、新大橋、両国橋、吾妻橋(大川橋)です。どの橋を渡っても良いわけですが、冠山公は吾妻橋(大川橋)を渡るよう指示したものと思われます。吾妻橋の西側200mほどの位置に浅草寺の雷門がありました。冠山邸から北上して浅草寺へ向かった後、浅草寺雷門経由で東に向かい、吾妻橋を渡って弘福寺へ向かう経路を選んだのでしょう。冠山公は雷門の前で葬列をしばらく止めさせ、露姫の代わりに侍臣高橋栄助がご本尊へ代理参拝するよう、命じました。

江戸時代の浅草寺の様子について文政3(1820)年の魚屋北渓(ととや ほっけい)による浅草寺全体図(※資料2)を見ると、現在は本堂の南西に位置する五重塔が当時は南東にあった違いはありますが、雷門から本堂までの位置関係は現在と違いはないことがわかります。雷門から本堂までの距離は約380m、雷門手前に置かれた棺の中から露姫は観音様から生前いただいた御加護に対し、感謝を伝えたことでしょう。幼児らしからぬ気遣いを見せる子でしたから自分の死後、家族や周囲の者がどうか無事に過ごせますようにと観音様に願わずにはいられなかったのではないでしょうか。

冬の夕刻、外はもう日が落ちて暗闇です。提灯の明かりを頼りに冠山邸を後にする露姫の葬列の出発、その折、冠山公はどうだったのでしょうか。「むとせの夢」では「大殿ハ、御ミづからミ送らんと、少し御跡より脩蔵を御供にて出させ給ふ。」(※16, 17)とあります。娘の出発をしっかり見送りたいと望み、葬列出発の少し後から臣下の服部脩蔵を従え、弘福寺へ向かったのでした。しんしんと冷え込む夜道を駕籠で移動したと考えられます。江戸時代後期、19世紀の半ばから後半にかけて当時の生活事情について喜多川守貞が記した『守貞漫稿』の中に「御忍駕籠(おしのびかご)」(※資料3)が登場します。こちらは大名や隠居がお忍びで外出する際、利用していたと記されており、駕籠の窓には簾がかかっています。灯り取りのために簾を上げても、当時の人家で使われていた行灯は十分な道案内になるほど光が漏れ出すわけでもありません。何とか早く先回りして弘福寺に到着し、娘を迎え入れてあげたい、冠山公はただその一心だったのでした。「むとせの夢」には次のように記されています。「御柩に供奉せざりしこと、いとほいなく思ひ給ひしを、大殿ミちをかへさせて、御先に牛島のミ寺にいたりつかせ、まちまうけ給へバ、御柩を迎へ拝ミ奉ることを、かなしきなかにもよろこびぬ。」(※18, 19) 鳥取西館新田藩第五代藩主といった公の顔を取り払い、一人の素の人間に立ち返った様子が伝わってきます。娘の柩にずっと付き添えなかったことは本当に残念だったけれども、でも自分はまだ娘のために父としてできることがある……そこに親としての役割や喜びを見出したのでした。残り僅か共に過ごせる時間を惜しむ冠山公の気持ちが切々と伝わってきます。これが冠山公にとって露姫に声を掛けられる最後の「おかえり」だったのです。
露姫の葬列は無事弘福寺に到着すると、柩は仮屋に置かれ、鶴峯和尚を導師として御法が行われたのでした。

<文政5年12月1日>
12月1日の巳の刻の下り(お昼の12時近く)、露姫の柩は弘福寺の墓所、池田(松平)家のご先祖様の元へと収められました。冠山公は埋葬の場にも立ち会い、露姫の柩に土がかけ終えられるまでずっと、見守りました。あんなに心優しく、聡明でかわいい娘は冬の江戸の土の下に眠ることになってしまった……。心のやり場がなかったことでしょう。弘福寺に葬らた冠山公の子息・息女は五男、七男、八男、五女、六女、七女、八女、十一女、十五女に引き続き、今回で10人目となります(※20)。きっと兄や姉たちは既に往生したであろうけれど、今ここに埋葬されたばかりの露姫をどうかあたたかく迎え、頑張った闘病生活をねぎらい、寂しくないように守ってあげてほしいと願ったことでしょう。

露姫埋葬後、お供の人々は皆隅田川沿いに南下して冠山邸に戻りました。「たゞこゝろたましひもうせはて」(※21, 22)とありますが、まさに文字通り悲しみに打ちひしがれていたのでした。一方、冠山公は帰宅途中、浅草寺に寄って参拝しました。脩蔵は「むとせの夢」で次のように記しています。「大殿ハ、御かへりに又浅草でらにまうで給ひぬ。こハ、大童女をして、はちすのうてなにはやうむかへとり給へとの御いのりなるべしとおしはかり奉れバ、いとゞ涙せきとめがたし。」(※23, 24)
「はちすのうてな(蓮の台)」とは極楽へと往生した者が座ることができるという蓮の座のことです。どうか我が娘を蓮の台へ早く迎えてくださいと冠山公はお祈りされるため、帰路に浅草寺へ立ち寄ることを望まれたのだろう、そのような冠山公の心境を察すると、私はますます溢れ出る涙をこらえることができなかった、と脩蔵は綴っているのです。3週間近くにわたる露姫の闘病生活の間、なかなか改善の兆しが見えない中、冠山公は良医を求めて医師の手配を繰り返し命じました。懸命に治癒回復への道を探していたのです。そして露姫が亡くなった後は葬儀が滞りなく行われるよう気丈に振る舞い、露姫の埋葬準備を丁重に進め、葬列を浅草寺経由にするよう指示を出しました。露姫の雑司が谷鬼子母神参詣への願いを聞き届けることはできなかったものの、浅草寺の観音様への参詣を形の上でとれるよう父が取り計らったことを、きっと露姫も喜んでいたはずです。

露姫の埋葬を見届けた後、冠山公が欲していたのは素の自分でいられる時間だったのではないでしょうか。それゆえ葬列に集った多くの部下らと一緒に帰ることを選ばなかったと考えられます。そしてやはり自分自身が娘のために、直接観音様にお願いしないまま帰る気持ちにはなれなかったのでしょう。

昼下がりの浅草寺は多くの参拝者で賑わい、露姫と同じくらいの幼児の姿も目にしたかもしれません。露姫は生前何度も浅草寺に参詣しており、この年の春と秋にも足を運んでいました。あの頃は誰も露姫がこんなに早く逝ってしまうとは想像だにしなかったはずです。何とも悲しく、悔しく、やりきれないこの気持ちを屋敷に戻る前にどうにかしなくては……そんな冠山公の心の声が聞こえてくるかのようです。見知らぬ人々の喧騒の中に紛れて身を置いていた方が気持ちが楽になり、屋敷で働く者たちの人目を気にせず心のままに涙する、そういう時間を過ごしたのかもしれません。前日の夜、しばし雷門の前で時を過ごした娘を思い、その経路を逆に辿ることによって、冠山公は娘の一生の最終章を心の中に深く刻みこんでいったのでしょう。

さて弘福寺ですがLana-Peaceエッセイ「二十代で三度の死別を経験した父の軌跡」(※25)で取り上げた仙台藩第四代藩主 伊達綱村二女「伯姫」が葬られていた場所でもあります。元禄2(1689)年3月12日、1歳7カ月で亡くなった伯姫は弘福寺に葬られていました。大正15(1926)年7月20日に宮城県仙台市経ヶ峯の御子様御廟へ改装されるまでおよそ100年間、伯姫と露姫は同じ地で時を過ごしたことになります。

この後、冠山邸では不思議なことが次々と起こりました。偶然というにはあまりにも啓示的でしたが、決して死者への畏怖の念を掻き起こすものではありません。人々が生前の露姫の存在を心にしっかりと留め置く、心あたたまる出来事でした。それは次回一つずつお伝えしようと思います。

次回へ続く

 
<図・資料>
資料1 「種痘之図」59×71.5cm, 三井元圃接痘所作製
佐賀県立図書館データベース

https://www.sagalibdb.jp/iiifviewer/?uid=06000028
資料2 北渓 写「東都金竜山浅草寺図」泉屋市兵衛 [ほか1名]
国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/8369264/1/2
資料3 喜多川守貞(1934)『類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿』10版, 更生閣書店, 「下巻, 第29編 駕車」p. 460
国立国会図書館デジタルコレクション, 559コマ
https://dl.ndl.go.jp/pid/1444386/1/559
<引用文献>…国会図書館のデジタルコレクションは一般公開されているものと、登録した個人が閲覧可能(登録申請・閲覧利用共に無料)なものがあります。是非ご利用になると良いかと思います。
 
※1 服部 遜 謹撰(1824)『玉露童女行状 全』牛島弘福禅寺蔵板,
「むとせの夢」
国文学研究資料館 新日本古典籍総合データベース, 21コマ
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200023937/
※2 玉露童女追悼集刊行会(1988)『玉露童女追悼集 1』金龍山浅草寺, 附録2『玉露童女行状 全』「むとせの夢」, p.171
※3 小谷恵造(1990)『池田冠山伝』三樹書房, pp.324-325
父冠山公が露姫の文政5年の誕生日祝に詠んだ歌として、県立鳥取図書館所蔵『池田家墨蹟集』に収載されてた和歌が『池田冠山伝』の中で紹介されています。
※4 前掲書2, 解題, p.178
※5 服部 遜 謹撰(1824)『玉露童女行状 全』牛島弘福禅寺蔵板,
「むとせの夢」
国文学研究資料館 新日本古典籍総合データベース, 22コマ
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200023937/
※6 前掲書2, 「むとせの夢」, p.171
※7 白居易「五絃弾」李攀竜 選, 銭謙益 評, 斎藤実頴 抄録(1881)『増補唐詩選 1-2』巻2, 磯部太郎兵衛, p.17
国会図書館デジタルコレクション 28コマhttps://dl.ndl.go.jp/pid/903740/1/28
※8 Lana-Peaceエッセイ「我が子17名との死別後、新たな命を守る父の覚悟」 長原恵子
※9 冕嶠陳人(1832)『思ひ出草』続編巻4
国立公文書館デジタルアーカイブ
「喪祭の事」38-46コマ
https://www.digital.archives.go.jp/img/4124115
※10 池田定常著『思ひ出草』続編巻4「喪祭の事」p.327(翻刻版)森銑三ほか編(1980)『随筆百花苑』第7巻, 中央公論社
※11 前掲書1,「むとせの夢」
国文学研究資料館 新日本古典籍総合データベース, 23-24コマ
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200023937/
※12 前掲書2, 「むとせの夢」, p.171
※13 谷川章雄(2004)「江戸の墓の埋葬施設と副葬品」江戸遺跡研究会編『墓と埋葬と江戸時代』吉川弘文館, pp.224–250
※14 河越逸行(1965)『掘り出された江戸時代』丸善,
「近藤登之助一族の出土」p.46
国会図書館デジタルコレクション, 32コマ
https://dl.ndl.go.jp/pid/2988075/1/32
※15 前掲書14, 「仙寿院・紀州徳川家関係の墓所改葬」p.137
国会図書館デジタルコレクション, 77コマ
https://dl.ndl.go.jp/pid/2988075/1/77
※16 前掲書1,「むとせの夢」
国文学研究資料館 新日本古典籍総合データベース, 23コマ
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200023937/
※17 前掲書2, 「むとせの夢」, p.172
※18 前掲書1,「むとせの夢」
国文学研究資料館 新日本古典籍総合データベース, 23-24コマ
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200023937/
※19 前掲書2, 「むとせの夢」, p.172
※20 鳥取県 編(1972)『鳥取藩史 別巻』鳥取県立鳥取図書館, 「校正池田氏系譜」pp.308-313
国会図書館デジタルコレクション, 175-177コマ https://dl.ndl.go.jp/pid/9573526/1/175
※21 前掲書1,「むとせの夢」
国文学研究資料館 新日本古典籍総合データベース, 24コマ
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200023937/
※22 前掲書2, 「むとせの夢」, p.172
※23 前掲書1,「むとせの夢」
国文学研究資料館 新日本古典籍総合データベース, 24コマ
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200023937/
※24 前掲書2, 「むとせの夢」, p.172
※25 Lana-Peaceエッセイ「二十代で三度の死別を経験した父の軌跡」 長原恵子
 

露姫の最期を見届ける時、たとえもう言葉を交わすことはできなくても、父冠山公の思いは波動となって娘の魂に届き、溶けあったことでしょう。そしてそれは消耗しきった露姫のエネルギーを少しずつ増やすことになったはずです。だからこそ、露姫が死後、家族や親しき者たちに向けて不思議な力と導きを発揮することができたのだと思います。

2023/4/16 長原恵子
 
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