病児・家族支援研究室 Lana-Peace(ラナ・ピース)
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我が子を亡くした直後に判明した父の心臓の病気。こどもに先立たれた悲しみだけでなく、自分の生命についても恐れを持つとき、父の胸中は、はかりしれない複雑さを帯びてくることでしょう。大黒柱として稼いでいた自分が危うくなることは、家族の生活までも危うくなるのですから…音楽の才能にあふれているにもかかわらず、自分の仕事の道を閉ざし、全力で夫のサポートにまわってくれていた若い妻と、幼い娘の生活。そうした危機的状況を、乗り越えていった先人の例をご紹介したいと思います。19世紀から20世紀にかけて、作曲家、指揮者とし活躍したオーストリア出身のグスタフ・マーラー(Gustav Mahler, 1860/7/7-1911/5/18)です。

グスタフは多くの歌曲や交響曲を作曲しましたが、こちらで紹介したフリードリヒ・リュッケルトの「こどもの死の歌」に曲を添えたことでも知られています。この詩は、わずか半月の間に長女と五男を相次いで亡くしたリュッケルトが、悲しみの胸中を563もの詩に綴ったものです。その中からグスタフは5つの作品を選び、歌曲「亡き子をしのぶ歌」を作りあげたのです(Kindertotenlieder)。

1901年夏、ウィーン宮廷歌劇場の監督に就任し、もうすぐ丸4年、という時期、グスタフは夏期休暇先で「亡き子をしのぶ歌」の中の3曲「いま太陽は輝き昇る」「なぜそのような暗いまなざしで」「おまえのおかあさんが入ってくる時」を作曲しました。独身でこどももいなかったグスタフが、なぜこどもを亡くした父の悲しみの詩を、歌曲にしようと思ったのか…?グスタフの言葉として残り伝わっている文献を、今回探し出すことはできませんでした。ですから、個人的な推測の域を越えないのですが、悲しい体験をしたリュッケルトの辛さを、立場は違えどグスタフは共感し、心を寄せずにはいられなかったのではないでしょうか。そこにはグスタフの生い立ちが関係すると思うのです。

グスタフは14人きょうだいでしたが、そのうち7人は皆、幼い頃に亡くなっていました。6番目の子、12歳の弟エルンストは心嚢水腫で亡くなりましたが、少年グスタフは何か月も闘病中の弟のそばで、いろいろな話を聞かせてあげていたのだそうです。大切な人が先立ってしまうことの辛さは、身に沁みていたことでしょう。弟エルンストはリュッケルトの夭逝した五男と同じ名前でした。それがグスタフの詩の選択に影響した、あるいはしていないと研究者の間ではいろいろな見方があるそうですが、とても他人事と思えない気持ちがあったのかもしれません。「子を亡くした父」とか「弟を亡くした兄」といった立場を越えて。悲しい思いが綴られた言葉を、自分の作った旋律にのせ、歌として大勢の人々の耳へ届けること自体に、グスタフは意味を感じていたとも考えられます。それは、早世したこどもたちの命を惜しみ、その命の存在を世に改めて知らしめるといった意味があったように思うのです。

さて1902年春、41歳のグスタフは、前の年に知人宅の食事会で出会った19歳年下のアルマ・シンドラーと結婚し、同年11月3日、長女が誕生しました。父になったグスタフは、その日から長女を溺愛するようになりました。そしてグスタフの母の名前にあやかり、長女はマリア・アンナと名付けられました。生後数カ月目にマリア・アンナは重い病気にかかり、意識不明の状態が長く続いたことがありました。生死が危ぶまれた長女をグスタフは抱きかかえて歩き回り、しきりに呼びかけていました。なぜなら、自分の声だけが、娘をこの世につなぎとめておけるのだと固く信じていたからでした。長女は無事回復しました。グスタフは、どんなにほっとしたことでしょう。

そして1904年6月15日、もう一人、家族が増えました。次女アンナ・ユスティーネが誕生したのです。グスタフはきっと、父としてもっともっと仕事に励まなくては…と、気持ちを新たにしたことでしょう。第六交響曲を完成させ、続いて「亡き子をしのぶ歌」の中の、残る2作品の作曲にとりかかりました。「こどもたちはちょっと出かけているだけだ」と「こんな嵐に」です。夏期休暇中の滞在先で作曲に集中する夫の姿に、妻アルマは尊敬の念を抱いていました。

当時の彼はまだ元気だった。自分の偉大な仕事の価値を自覚していた。彼の枝はみどりに茂り、花を咲かせていたのだった。


引用文献 A:
アルマ・マーラー著, 酒田健一訳(1999)『マーラーの思い出』
白水社, p.86

一方、子を亡くした追悼の詩に作曲する夫の心情を、理解し難い気持ちもアルマは隠せませんでした。

私にはこうした執着が理解できなかった。子供のない人か、子供に死なれた人ならば、こういう恐ろしい詩に作曲をすることもわからないではない。じっさいフリードリヒ・リュッケルトにしても、子の心をゆるがすような悲しい詩をたんなる空想によって書いたのではなく、子供を失うという生涯でもっとも無残な体験をしたのちに筆をとったのだ。

しかし元気にはしゃいでいる娘たちを抱きしめたりキスしたりしてからものの三十分もたたぬうちに、子供の死を歌にできるというのはどういうことか。わたしはあるとき思わずこう言ったものだ。

「ああ、お願いよ。
不幸を呼ぶようなまねはよしてちょうだい!」


引用文献:前掲書A, p.85

それでもグスタフは作品に向かい続け、作品を完成させたのです。

こうして歌曲集「なき子をしのぶ歌」(Kindertotenlieder)が誕生し、ウィーンで1905年1月29日、グスタフ自身の指揮によって初演されました。

芸術監督、指揮者、作曲家として活躍するグスタフですが、彼を支える妻アルマの役割は、とても大変でした。アルマの手記には一日の過ごし方が克明に記されていますが、多忙で、気を抜くことのできない日々だったことが、容易に想像されます。グスタフは規則正しい生活を好みました。午前7時に起床し、朝食を済ませるとオペラ劇場に向かいます。お昼になると、グスタフの部下からアルマに電話がかかってきます。なぜなら、午後1時ちょうどに昼食をとるグスタフに合わせて、昼食が整っていなければいけないのですから。彼の行動を邪魔しないように、部屋のドアは開け放たれ、向かったテーブルの上にはちゃんとスープを用意しておくのです。グスタフは食後短く休憩をとると、公園に出かけ、駆け足で四周しました。そして午後5時にお茶をして、またオペラ劇場に向かいます。夜になると、劇場の仕事を終えたグスタフをアルマは迎えに行き、自宅で夕食を共にしました。そんなグスタフ中心の生活を支障なく進めるために、アルマは自分の個人的な外出を控えました。家計のやりくりが苦しい時も、夫には一流店から服や靴を取り寄せ、自分は贅沢をしないで家事や育児にいそしむ日々が続きました。
また時には、不愉快な知らせで気分を害さないように、そうした話を伝えるタイミングまで、二人で約束していました。それもこれも、皆、彼の消化と十分な休息、身体の抵抗力が得られるために。

アルマは自分自身も音楽の才能豊かな人でしたが、夫の指揮の仕事が自分の喜びと考えていました。「私が男を愛するのは、その人のなしとげた仕事を愛するということなの。成果が偉大であるばあるほど、いよいよその人に打ち込んでしまうと思うわ。」(※前掲書A, p.86)と夫との散歩中に語ったこともありました。         

そんな仕事一辺倒のグスタフでしたが、こどもたちの存在は彼に大きな影響を与えました。彼はこどもたちの誕生後、そばを離れていられず、家にいる時間が増えるようになりました。アルマの手記には長女、次女それぞれにあった遊び方をする夫の姿が、嬉しく綴られています。たとえばドイツの詩人クレメンス・ブレンターノの童話『ゴッケル、ヒンケル、ガッケライア』を読み聞かせしたり、お化けの話をしたり、ふざけて、しかめっつらをみせたり。気難しいエピソードが多く伝わるグスタフがゆえに、そうした子煩悩さが、際立っています。

そのような幸せな家庭に、1907年夏、暗雲が立ち始めました。次女アンナ・ユスティーネが手の指を三本やけどし、猩紅熱にもなってしまったのです。当時母アルマは病いの身でしたが、次女の猩紅熱の看病に専念しました。幸いアンナ・ユスティーネの病状は落ち着いたので、アルマは自分が入院し、手術を受け、毎年、夏を過ごす避暑地へ向かいました。
そこで、3日も経たないうちに今度は、長女アンナ・マリアが体調を崩したのです。猩紅熱とジフテリアでした。アンナ・マリアは段々衰弱し、2週間後、呼吸困難が起こってきました。アルマの手記にはその時の様子が、詳細に綴られています。

身の毛もよだつような瞬間!自然もこの不吉な運命に加勢した。雷鳴がとどろき、天は赤く燃えあがった。マーラーのこの子への愛情はひととおりでなかった。彼はますます部屋にこもりがちとなり、心のなかで愛する娘に別れを告げていた。

喉頭切開がおこなわれた最後の夜、下男はマーラーの寝室のドアの前に立ち、彼が物音で目を覚まして出てきても、なだめすかしてもとのベッドへつれ戻すために寝ずの晩をした。こうして彼はその夜を――イギリス人の女中と私とで手術台の用意をし、かわいそうな、かわいそうな子供を寝かしつけたあの恐ろしい一夜を、なにも知らずに眠りつづけていたのだ。手術のあいだ、私は湖の浜辺を走り、だれにも聞かれないところへ来ると、声を放って泣いた。朝の五時だった。女中が迎えにきて(医師は私が部屋にはいるのを禁じていた)、「手術は終わりました」と言った。

私は娘を見た。この花のような少女は大きな目をいっぱいに見聞
き、苦しそうにあえぎながら横たわっていた。こうして私たちの苦しみはもう一日延びたのだ――いっさいが終わるまで。

マーラーはむせび泣きながら娘の寝ている部屋のまえを、というのは私の寝室のまえを、行きつ戻りつ走りすぎるのだった。私は一種の自己破壊の衝動にかられて娘を私のベッドに寝かせていたのだ。彼がこの部屋に近づいてもすぐに逃げ出してしまうのは、娘のたてるどんな音も聞くまいとするからだった。彼にはとても耐えられることではなかったのだ。

私たちは母に電報を打った。母はとんで来た。私たちは三人いっしょに彼の部屋で寝た。一時間も離れてはいられなかった。だれか一人が部屋を出ると、もう戻ってこないのではないかと不安になるのだった。私たちはあらしのなかの小鳥のように、次の瞬間になにが起こるかという恐怖におののきながらすごした。私たちの予感のなんと正しかったことか!


引用文献:前掲書A, pp.142-143

両親の願いもむなしく、1907年7月5日、長女マリア・アンナは息を引き取りました。まだわずか4歳8カ月でした。
傷心の両親に代わり、長女の葬儀に関するいろいろなことは、身内の人が行ってくれました。長女が亡くなって2日目、長女の棺が霊柩車へ運ばれる日、グスタフは妻と妻の母に湖へと降りているよう、勧めました。旅立っていく長女の姿を見送ることは、あまりにも酷だと考えたのでしょう。
グスタフの考えは正しいものでした。遠くにいたはずの祖母の視界に、長女の車が入ったのか、祖母はそこで突然、心臓発作を起こしてしまったのです。続いて妻も失神し、医者が呼ばれました。医者からは、妻の心臓がかなり弱っているため、安静が必要だと診断されました。その時、グスタフは普段から妻が自分の心臓を気にかけてくれていたことを思い出しました。実は数年前、アルマは夫の心音の二拍目に、異常に強く響く耳ざわりな鼓動があると気付き、何か心臓に病気があるのではないかと不安に思っていたのです。グスタフ自身は、自分の心臓はきっと大丈夫だろうから、医者の口からそうだと聞けば、妻は安心し、気分も少しは明るくなるだろうと考えました。そこでグスタフも受診しました。しかし彼に心臓病の存在を思わせるエピソードは、いくつかあったのです。合唱隊に指導をしている最中にも、息切れしたり、胸のあたりを押さえて立ち止まるといった様子が、仲間に見られていました。グスタフ本人はそれを病気だと、自覚していなかったのかもしれません。診察した医者は、グスタフに心臓病があることを告げました。

長女を亡くし、2日後迎えた47回目の自分の誕生日。新しく1つ年を重ねたグスタフにとって、我が身の病気の指摘は、より切実な問題だったに違いありません。何せまだ次女アンナ・ユスティーネは、3週間前に3歳になったばかりなのですから…。グスタフは次に出るウィーン行きの汽車に乗り、コヴァーチュ教授の元へ向かいました。

しかし、結果は同じでした。「代償作用で補整されてはいるが先天性の両弁膜疾患」(※前掲書A, p.143)と言われたのです。登山、自転車、水泳が禁じられ、だんだん距離を伸ばしていく歩行療法を勧められました。

子供の死とマーラーの病気のために悲嘆と不安に明け暮れしたこの年の夏は、私たちがすごした、私たちがいっしょにすごすことのできた夏のなかで、もっともつらく、もっともみじめなものだった。どこへ遊びに行っても、どんな気晴らしをしようとしても、むだだった。彼の救いは仕事だけだった。


引用文献:前掲書A, p.166

マーラー夫妻はこれからの生活を考えるために、気持ちを一新したいと、長女の悲しい思い出が詰まるマイアーニヒからシュルーダーバッハへと移りました。そして、グスタフは心臓のために歩行療法に取り組みました。

身体ばかりではなく、グスタフの心も変わっていきました。以前から、アルマの父の友人の中に、グスタフのことを大切に思ってくれている人がいて、グスタフの作曲意欲がもたらされるような詩を探し出しては、持ってきてくれていました。中でもハンス・ベートゲ翻訳による詩集『中国の笛』は、グスタフの大変気に入った作品でした。それを思い出したグスタフは、シュルーダーバッハで歩行療法を行いながら、オーケストラ付き歌曲のスケッチを始めたのです。長女を亡くした悲しみのエネルギーは、創作のエネルギーへと転化されていったのですね。

1907年の秋、ニューヨークのメトロポリタン・オペラ劇場から招聘されたグスタフは、1907年から1908年にかけて、4か月の契約を結び渡米しました。ウィーンでは仕事上の人間関係で悩まされていたグスタフにとって、新天地での仕事は心の重石がとれたような感じだったのかもしれません。しかし長女マリア・アンナを亡くして、初めて迎えた冬、マーラー夫妻の心の中には大きな寒風が吹きすさんでいたのです。

ほんとうならこれほどたのしい生活はなかっただろう。だが私たちは子供の死に打ちひしがれていた。マーラーはからだをいたわって、一日の半分はベッドに寝ていた。子供の名は禁句だった。そして私は、眠れぬ一夜をあちこちと歩きまわって明かしたときなどは、朝が白みかかるころおい、十二階(マジュスティック・ホテル)の階段に腰をおろして、ときどき下から伝わってくる人の声を聞くともなしに聞いていた。 

そのころ、マーラーと私のあいだは一時よそよそしかった。悲しみが二人を疎遠にしたのだ。彼は無意識のうちに子供の死を私の落度にしてうらんでいた。しかも、いまは自分もまた病気だという自覚があった。あれやこれやで、そのほかのことはすべて彼にとって現実味を失ってしまった。彼はとげとげしく、短気になり、いつもいらいらしていた。この年の冬は私にとって、いや、私たち二人にとって、ひどくみじめなものだった。 

だがもっともみじめだったのはクリスマス・イヴだった。それは子供たちのいない、しかも異国で迎える最初のクリスマス・イヴだった。マーラーはクリスマスの来たことを思い出すのもいやがった。私は見拾てられ、ひとりさびしく、一日泣き暮らした。 

夕方ちかく、ドアを叩く音がして、バウムフェルトがはいってきた。(この人はドイツ演劇の固定観念にしがみつきながらニューヨークに住んでいるふしあわせな善人だった。)彼は私の泣きぬれた顔を見て事情を察知すると、私たち二人をクリスマス・ツリーや子供たちや仲間の顔が見られるところへつれ出すといってきかなかった。そこへ行くだけで気がまぎれるだろうというのだ。私たちは出かけた。ところが夕食のあと、数人の男女の俳優が現われて、私たちをその揚にいたたまれなくさせた。連中の一人に身持ちの悪そうな女がいて、それが《プッツィ》と呼ばれたことで、私たちは思い出と苦痛をかき立てられたのだ。(《プッツイ》は死んだ子供の愛称だった。)

引用文献:前掲書A, p.151

夫婦の間で気持ちの行き違いがあったり、苦しい思いをしたマーラー夫妻でしたが、『中国の笛』から選び出した中国古典詩への作曲は、グスタフの気持ちを支えていく上で力となりました。

李白による「大地の憂愁を歌う酒の歌」(第一楽章) では、天も地も揺るぎない存在であり、季節が巡れば新しい命が生まれるけれども、人間は頑張っても100年にも満たない命の存在であることが表されています。
そして、銭起による「秋の寂しさ」(第二楽章)は、グスタフの当時の心境を映し出したものだと言える内容です。

秋の霧が青白く湖面を漂い、
草はみな、露の重みでしなだれている。
人は思う。まるで工匠(たくみ)が翡翠の粉を、
精妙な花びらの上に撒き散らしたようだ、と。

花々の甘い薫りは吹き飛ばされ、
冷たい風がその茎を薙ぎ倒す。
金色の葉はたちまちにして萎み、
水蓮の花は水の上を流れる。

私の心は疲れ果て、私の小さなともし火は、
かすかな音とともに消えてしまった。
それは私を眠りに誘っている。

お前のところに行こう、愛しい憩いの場所よ!
そうだ、私に安らぎを与えておくれ、
私には気力の回復が必要なのだ!

私は孤独のなかで大いに泣こう。
私の心の中の秋は、あまりに長く続く。
愛の太陽よ、お前はもはや二度と輝いてはくれないのか、
私の苦い涙を優しく乾かすために?


引用文献 B:
アルフォンス・ジルバーマン著, 山我哲雄訳(1993)
『グスタフ・マーラー事典』岩波書店, pp.315-316

そして最終楽章の第六楽章では孟浩然、及び王維による「告別」が登場します。安らぎを求め、新たに歩みを進めていこうとする人の姿が描かれたものですが、そこにはグスタフの決意が重なるようにも思えます。

私のいる松の木陰に、冷たい夜風がよぎる。
私はここに立ち、友が来るのを待っている。
最後の別れを告げるために、待ちわびている。

わが友よ、私がどれほど君と共にいて、
この美しい夕べを共に味わいたいと切に望んでいることか!
君はどこにいるのか?
なぜ、私をこんなに長く一人で待たせるのか!

私は竪琴を手に、しなやかな草に覆われた道を、
行きつ戻りつさまよう。
おお、美よ!
おお、永遠の愛と命とに酔いしれた世界よ!

彼は馬から降りて、別れの杯を差し出す。
彼は尋ねる。どこに行くのか、
なぜそうしなければならないのか、と。

彼は語りかけるが、その声はよく聞き分けられない。
わが友よ、私には、この世で幸福は得られなかった!

私がどこへ行くかだって? 私は行こう。
私は山並みの中にさまよい入ろう。
私は、私の孤独な心のための安らぎを探すのだ。
私は故郷に戻ろう、私の場所へ!

二度と私は、はるかな地にさまよい出ることはない。
私の心は静まり、時が来るのを待っている。

春になれば、愛する大地では、
再び到るところで花が咲き乱れ、
緑が芽をふくのだ!
到るところで、永遠に、はるか彼方の四方まで、
青く光り輝くのだ。
永遠に、永遠に!

引用文献:前掲書B, pp.322-323

グスタフはこの「大地の歌」について、1908年、指揮者ブルーノ・ワルターへ送った手紙の中で、次のように記しています。

「私が美しい時を持つことができた。
これは、私が信ずるところによれば、
私がこれまで作曲した中で、おそらく最も個人的なものだ」。

引用文献:前掲書B, p.324

グスタフにとって大地の歌を作り上げている時間は、苦悩と向き合う時間であり、その苦悩のエネルギーを作曲へと昇華させていった時間でもあったのでしょうか。だからこそ「美しい時」といった表現をとったのかもしれません。
苦悩を美化する必要などありません。でも、長女マリア・アンナはこの世の人生の去り際に、父へ残したものは、苦悩という名の置き土産ばかりではなかったのです。

悲しい気持ちは決して消えるわけではないけれど、マリア・アンナと共に過ごした時間は、父グスタフにとってまさに「美しい時間」であったし、マリア・アンナ亡き後、その悲しみを原動力として向かった楽譜には、この世における有限の命に対する様々な思いを、グスタフが音符の調べに託すことができたのですから。
それはまさに「美しい時間」だと言えるでしょう。

マーラーは1911年5月18日、他界しました。彼の渾身の作『大地の歌』はそれから半年後、1911年11月20日、ミュンヘンでが初演されました。その時の指揮者は「美しい時間」と綴った手紙の送り先ブルーノ・ワルター氏です。偉大な先輩作曲家の心の軌跡がしっかりと伝わるよう、心を込めて、指揮棒を振っていたことだろうと思います。

 
お子さん亡き後、親が長年苦悩をひきずることを、お子さんは望んではいません。親を悲しませるために、生まれてきたのではないのですから。
2017/1/28  長原恵子