病児・家族支援研究室 Lana-Peace(ラナ・ピース)
Lana-Peace 「大切なお子さんを亡くされたご家族のページ」
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詩作を通した娘とのつながり・神とのつながり

『レ・ミゼラブル』の著者ヴィクトル・ユゴー(1802-1885)には、レオポルディーヌという長女がいました。1824年に誕生したレオポルディーヌのことを、父ユゴーは大変かわいがっていました。「ああ、思い出よ! 春よ! あけぼのよ!……」という詩の中で、長女のことを自分の妖精であり、自分にはやさしい星のように見えたと表現するほどですから、どんなにいつくしんでいたか、伝わってきますね。ユゴーは長女が生まれた前年、誕生したばかりの長男を生後2か月で亡くしていたそうですから、長女の快活に生きる姿が、夭逝した長男と重なり、本当にいとおしく感じたのだろうと思います。

さて、18歳になったレオポルディーヌは1843年2月、弟の級友の兄であったシャルル・ヴァクリーと結婚しました。娘の幸福を願う父の気持ちと、娘が巣立つ寂しさを、ユゴーは結婚式の教会で次のように詠んでいます。

わが家では引きとめられ、他家からは望まれる。
娘よ、新妻よ、天使よ、わが子よ、
ふたつながらの務めをお果たし。
わが家には別れの嘆きを、あの人たちには希望を与えよ。
涙を浮かべてわが家を出て、ほほえんで他家にお入り!

引用文献:A
ヴィクトル・ユゴー著, 辻 昶, 稲垣直樹訳
「一八四三年二月十五日」, 静観詩集より(1984)『ユゴー詩集』潮出版社, p. 231

末永い幸せを祈られたレオポルディーヌでしたが、結婚の約7カ月後、突然、ボートの転覆事故で亡くなってしまいました。
1843年9月4日、その日はお天気も良く、波も穏やかな日でした。レオポルディーヌの夫のシャルルは自分の公証人であるバジル氏に会いに行くため、コードベックに向けて得意のヨットを出帆したのです。シャルルはヨット・レースで一等賞を取ったことがあるほどの腕前でした。

レオポルディーヌも乗っていくはずでした。しかし、ヨットが軽すぎると危険を感じた義母から乗船を引き留められ、シャルルと伯父のピエール・ヴァクリーとその息子の11歳になるアルチュスが乗っていったのです。
一度は出帆したヨットでしたが、重量調整のために再び石を積みに戻ってきたのを見て、レオポルディーヌは自分も乗りたくてたまらなくなりました。そして早速着替えて、ヨットに乗り込んだのです。

往路は問題なく到着し、バジル氏を乗せて、ヴィルキエに向かうはずでした。しかし義母と同様、そのヨットがセーヌ川で走行することに不安を感じたバジル氏は、自分の馬車で陸路移動することを提案したのです。シャルルはどうしても船旅の楽しさを味わってほしかったのでしょう。到着先のコードベックの岸壁で、石を追加して乗せて、バジル氏と共に出帆しました。しかしバジル氏は揺れのひどくなったヨットに危険を感じ、礼拝堂のあたりで降ろしてもらい、そこから歩いて昼食場所へ合流することにしたのです。
シャルル夫妻ら4人を乗せたヨットが再び出帆した数分後、不運なことに丘と川の間を吹いた風によって、ヨットは転覆してしまいました。シャルルは妻を救おうと懸命にもがきましたが、力尽きて、妻と共に流されてしまい、乗船していた全員が溺死したのです。

ユゴー夫人は、娘の訃報をその日の夜遅くに受けました。ユゴーは、恋人のジュリエット・ドルーエとピレネー旅行に出かけていたため、娘が亡くなった5日後、訪れた村のカフェで目にした新聞により、初めて娘の死を知ったのです。旅行前にユゴーは若夫婦の新居を訪れていましたから、その報道をとても信じられなかったことでしょう。
ユゴーのショックな様子を、ジュリエットは9月9日の日記に書き残しています。

すぐまえのテーブルのしたに新聞が何枚か置いてある。トトはどれということもなく、そのうちの一枚を手にとる。
私は<シャリヴァリ>紙。

しかし、私が見出しを見るまもなく、あのかたは急に私のほうに身を乗りだし、手にした新聞をつきつけながら、しめつけられたような声で、
「大変だ、大変なことが起った!」とお叫びになった。

私は思わず目をあげてあのかたを見た。
そのときのあのかたのお顔。あのけだかいお顔に現れたなんとも言いようのない絶望の色。
私はそれを一生けっしてけっして忘れはしないだろう。
ついさっきまではにこにことしてお仕合せそうだったのに、それがものの一秒とたたないうちに、あのようにうちひしがれておしまいになろうとは。

お気の毒に唇からは血の気が失せ、美しい目もうつろに宙をさまよってあらぬかたを見つめるばかり。
お顔もおぐしも涙にぬれ、手を胸に押しあてて、まるで心臓が飛びだすのを抑えているとでもいうかのような、そのあわれさ。

引用文献:B
辻 昶, 横山正二(1969)『ヴィクトール・ユゴーの生涯』新潮社, p.330

ユゴーは旅行を中止し、パリの自宅に戻ることにしました。
そして様々に交錯する神への思いを持って、神と対峙していました。妻アデールに書いた手紙と、作曲家で友人のルイーズ・ベルタンにあてた手紙には、その相反する気持ちがしたためられています。

(妻への手紙)

かわいそうに、アデールよ、もう泣かないでくれ。
ふたりともあきらめよう。あの子は天使だったのだ。
だから、いさぎよく神さまにおかえししよう。

ああ! あの子はあまりにも仕合せすぎたのだ。
おお!あの子のことを思うと、とてもたまらない。

一刻も早くおまえのところに飛んで帰って、かわいい三人の子供たちといっしょに思う存分泣きたい。(略)

こんなおそろしい目にあった以上、ふたりはもっともっと愛しあい、もっともっとしっかり、心をひとつに結びあわせていかなくてはね!……

引用文献:前掲書B, p.333

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(友人への手紙)

あんなにおとなしい、やさしい娘はなかったのに、
おお、神よ、
一体、わたしがあなたになにをしたというのです?……

引用文献:前掲書B, p.332

そして神への気持ちは、その後ユゴーが亡くなるまで続いたのです。

私は神を信じている。魂も信じている。人間はその行動に対して責任があることも信じている。
私は宇宙を支配される神の加護をもとめる。

引用文献:C
辻 昶 (1979)『ヴィクトル・ユゴーの生涯』潮出版社, p.197

一方、事故の起きたその日の夜に、訃報が知らされたユゴーの妻アデールは、娘夫婦が7か月の新婚生活を過ごした証を手元に残しておきたかったのでしょう。画家に頼み、娘夫婦の家を数枚の絵に描き残してもらいました。それは実物そっくりのデッサンでした。
そして、どうしても娘とのつながりがほしかったのでしょう。 一日中、娘の遺髪を両手にしっかりと握りしめて過ごす生活を送っていました。
やがてアデールは、現世での姿を失った娘との交流を、魂レベルで求めるようになっていました。

あたくしの魂は体からぬけだして、あのふたりのところへ行って、安らいでいるのです。……


引用文献:前掲書B, p.334
ヴィクトール・パヴィーに宛てた1843年11月4日付の手紙より

そうしたつながりを感じるため、父ユゴーはお墓参りをしたり、詩を詠んでいたようです。
レオポルディーヌ夫妻はひとつの柩に収められて、教会隣りの墓地に埋葬されましたが、ユゴーはたびたびそのお墓のあたりを訪れ、毎年命日の頃になると、娘の死を悼む詩を書くようになったのです。
詩の中には、悲しみだけが詠まれているわけではありません。
幼い頃、元気に過ごしていた娘へ向けられたあたたかい眼差しが、そこに登場してくるのです。父の胸に懐かしく、溢れてくるそうした思い出は、悲しみにくれた心を一時、当時の晴れやかな時間に引き戻してくれるのかもしれません。そして、娘と共に過ごした時間が確かにそこにあったのだと、再認識できるのかもしれません。それが娘の生きた証のようにも感じられるでしょうから…。

時間が経っても、年若くして突然逝ってしまった娘の人生を悲しむ思いと、無念さや理不尽さは色褪せることはありません。ただそうした詩作の中で、ユゴーは娘の命を永遠に生かし続けることができました。
こうして160年以上経った今も、レオポルディーヌの存在を、私たちが知ることができるように。
そして娘に伝えたかった思いは、詩作を通して、ゆっくり時間をかけて言葉にできたのだろうと思います。あまりにも突然のお別れに、亡くなった当時は心が瞬間凍結してしまったでしょうから…。

次の「ヴィルキエにて」は、レオポルディーヌが亡くなった4年後に書かれたユゴーの詩です。
大変長い詩なので、その一部を抜粋したいと思います。

私は思います、死者を葬って閉ざされた墓石は
天国を聞く扉なのだと、
また、私たちがとの世では終わりと思っているものが、
じつは始まりなのだというととを。 1)

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どうか思ってもみてください、
こんなにも打ちひしがれた魂は不平を言いたくなることを、
ついあなたを罵って、
冒涜の叫びを投げつけたくなったことを、
まるで海に小石を投げる子供のように!

ああ神よ! 思ってもみてください、
人は苦しむと疑いをもつことを、
涙にかきくれた目はついには盲目になり、

愛する人に死なれた悲しみのために
絶望の暗い深淵に沈んだ者には、
もうお姿が見えなくなると、
心の目でもあなたを見られなくなることを、

さらにまた、人が深い悲しみに沈んだときには、
空にまたたく星座の
暗い静けさが心を訪れることなど
ありえないことを! 2)

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深い苦しみがつねに私の魂の主となり、
私の心は運命に従っています。でも諦めてはいません。

お怒りにならないでください!
たえず喪の悲しみに付きまとわれる私たちは、
涙にくれがちな死すべきもの。

私たちにはむずかしいのです、
こんなに深い苦しみから
自分の魂を数い出すことは。

そうです、子供は私たちにはなくてはならぬもの。 3)

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愛するわが子が、私たちの
魂や家の中に光を与えているのだと分かったとき、

また子供こそ、私たちの抱いたいろいろな夢のうちで、
いつまでも残るこの世のただひとつの喜びだと分かったとき、
思ってもみてください、
あの子がこの世から消えてしまうのを見るのは、
またなんと悲しいことであるのかを!

ヴィルキエにて、一八四七年九月四日 4)

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引用文献:A
ヴィクトル ユゴー,「ヴィルキエにて」, 静観詩集より
1) p. 239
2) pp. 243-244
3) p. 246
4) p. 247

 
気持ちを言葉にして書き出すことにより、行き場のない気持ちを、どこか落ち着くところに収めて行くことができるのだと思います。 
2015/7/10  長原恵子