病児・家族支援研究室 Lana-Peace(ラナ・ピース)
Lana-Peace 「大切なお子さんを亡くされたご家族のページ」
大切なお子さんに先立たれたご家族のために…
 
ご案内
Lana-Peaceとは?
プロフィール連絡先
ヒーリング・カウンセリングワーク
エッセイ集
サイト更新情報
日々徒然(ブログへ)
 
エッセイ集
悲しみで心の中が
ふさがった時
お子さんを亡くした
古今東西の人々
魂・霊と死後の生
〜様々な思想〜
アート・歴史から考える死生観とグリーフケア
 
人間の生きる力を
引き出す暮らし
自分で作ろう!
元気な生活
充電できる 癒しの
場所
お子さんを亡くした古今東西の人々
救われる子と他力

現代の言葉として「他力本願」という言葉がありますが、通常の会話の中では、自分は何も努力をしなくて、誰かの庇護の下、誰かのおかげによって自分に得になる状態を手に入れる、といったずるい状況を表すときに使われます。
しかしながら、ここで出てくる「他力」とは、本来、浄土真宗の中で阿弥陀様のお力を表現する言葉であり、「本願」とは阿弥陀様が法蔵菩薩であったころに、仏となって人々を救いたい、と立てた願いを指すものです。決して、自分だけ楽をして、のほほんと過ごして利益を手に入れるようとする人の様子を表す言葉ではありません。本来の言葉が転じて、広く使われていること阿弥陀様がお知りになったら、きっとびっくりなさることでしょう。

さて浄土真宗の門徒であった小林一茶は、阿弥陀様のお力によって救われると信じること、すなわち「他力信心」を強く欲することは、本来の意味からはずれるのではないだろうかと考えました。
そもそも、「欲(煩悩)」を捨てることが大前提であるはずなのに、「阿弥陀様、どうか私を助けてください。私を助けてください。」と執拗に願うことは、欲だらけの証拠ではないか…そんな風に一茶は考えたように、私は思います。
そこで 一茶は、他力信心とはそもそもどのようであるべきなのか、自問自答をしました。それが一茶の『おらが春』で「あなた任せ」と題された中で触れられています。

問ていはく、いか様に心得たらんには、御流儀に叶ひ侍りなん。答ていはく、別に小むつかしき子細は不存候。
たゞ自力他力、何のかのいふ芥もくたを、さらりとちくらが沖へ流して、さて後生の一大事は、其身を如来の御前に投出して、地獄なりとも極楽なりとも、あなた様の御はからひ次第あそばされくださりませと、御頼み申ばかり也。

引用文献:
校注 矢羽勝幸(1992)『一茶 父の終焉日記・おらが春』岩波書店, 「おらが春」よりp.192

このような内容のお話です。

長原私訳:
それではいったいどのような心境であれば、浄土真宗の本来の教えに沿うのでしょうか。それを自分なりに考えてみると、別にあれこれと難しいことなどいらないのだと思います。
これは自力だとか、これは他力だとか考える自分の気負いを、ただひたすら、さらりと海の遠くへと流してしまえば良いのです。
そして自分の身体を阿弥陀様の前に投げ出して、「地獄であろうとも、極楽であろうとも、阿弥陀様のお計らいによって、どうぞ私をお送りください」とお願い申し上げれば良いのだと思うのです。

これが書かれたのは文政2(1819)年12月29日のことでした。一茶はこの半年前に、満一歳を過ぎたばかりの長女さとちゃんを、疱瘡(天然痘)のため、亡くしていました。(詳細は露の世は露の世ながらさりながらをご参照ください)
一茶は夢の中に笑顔で出てきたさとちゃんのことを、5つの句にも詠んでいるのですが、心の底ではいつもさとちゃんが気がかりだったのでしょう。
「あなた任せ」の項では、さとちゃんのことは一つも触れられていませんが、さとちゃんのことを念頭に、綴られたものではないかなと思います。

ともかくもあなた任せのとしの暮       五十七齢 一茶

引用文献:
校注 矢羽勝幸(1992)『一茶 父の終焉日記・おらが春』岩波書店, 「おらが春」よりp.193

『おらが春』はこの句が結びとされています。
「娘のことはとにかく、阿弥陀様にお任せしよう。だからあれこれ案じずとも、阿弥陀様によって娘は救われているのだから、自分はゆっくりと年の暮れを過ごせば良いのだ」そんな風に自分自身に言い聞かせているような気がいたします。

 
先立ったお子さんは何かの力によって、必ず救われているはずです。
お子さんはご両親やご家族に対して「これ以上、心配を重ねて傷つかないでね」と思っていることでしょう。             
2013/12/6  長原恵子