病児・家族支援研究室 Lana-Peace(ラナ・ピース)
Lana-Peace 「大切なお子さんを亡くされたご家族のページ」
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甚大なる感化とは

小樽港の美しい北防波堤、これは明治30(1897)年、広井勇(いさみ)先生によって、その工事が着工されたものです。広井勇先生(1862-1928)は、明治、大正、昭和にわたり、日本の土木工学の発展に寄与されました。
小樽の風雪や荒波に負けない強靭な防波堤を作るために、広井先生はコンクリート作りから手掛けられ、北防波堤の造営に尽力を注がれました。
また、国家で本州と九州を隔てる関門海峡を結ぶ方法が検討された時、海上と地下のどちらにするか提案を出す際に、広井先生は鉄路が4線、道路が2線通る鉄橋案を作成された方でもあります。
その広井先生が遺された言葉があります。

「若し工学が唯に人生を繁雑にするのみのものならば何の意味もない事である。是によって数日を要するところを数時間の距離に短縮し、一日の労役を一時間に止め、人をして静かに人生を思惟せしめ、反省せしめ、神に帰るの余裕を与へないものであるならば、我等の工学には全く意味を見出すことが出来ない」


引用文献:
1) 故広井工学博士記念事業会編(1930)『工学博士広井勇伝』工事画報社, p.98
現在、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できます。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1030859

とても潔く、またとても立派な言葉だと思いませんか?
広井先生の生きていた時代よりも、もっともっと発展が進んだ現代は、実に多くの事柄が手軽に、短時間でできるようになりました。
世の中の様々なものの発達によって、得られた時間と余裕を無駄にしてはいけませんね。

さてその広井先生ですが、六人のお子さんがいらっしゃったそうですが、
明治39(1906)年に誕生した次男厳(げん)くんは、生来、身体が不自由だったのだそうです。そして大正7(1918)年9月、病気で亡くなりました。
父である広井先生には、札幌農学校2期生時代からの友人、宮部金吾氏からお悔やみの手紙が届きました。広井先生は次のお返事を出されました。

拝啓 
過日不幸の節は御懇篤なる御弔問を忝(かたじけな)く候段、深謝の至に御座候、

厳の生涯は短く且つ同人の為には夢の如くにして一見無意味なる一生の如くに有之候得共、拙家に対しては実に甚大なる感化を与え一家各(それぞれ)の余命をして益々神に近づかしむることを得せしめたるものに有之候。

一言ご挨拶申し述べ度、
神恩貴家之上に益々豊ならんことを祈候。  
九月二九日 勇 

宮部兄


引用文献:
2) 高崎哲郎(2003)『山に向かいて目を挙ぐ 工学博士・広井勇の生涯』鹿島出版会, p.245

「甚大なる感化」という言葉は、厳くんと過ごした12年間の中から学びを得た、ということを表すものだと言えるでしょう。
広井先生は、当時、東京帝国大学工科大学教授として学生の教育や研究に携わっていらっしゃいました。一方、自宅では身体の不自由な厳くんと生活を共にすることにより、自分が教える側ではなく「学ぶ側」として、様々なことを感じるものがあったのでしょう。

「益々神に近づかしむることを得せしめたる」
そのように広井先生はおっしゃっていることをヒントに考えてみると、広井先生の晩年の言葉が、「甚大なる感化」と表現した心の奥底を表しているように思いますので、ここに取り上げてみます。

晴夜天空塞の星のまたゝきを眺めて居ると、其の悠久さと、其偉大さと、其壮美さとに実際打たれる。神は悉く之を統べ給ふのである。其幾億光年に比べては人生は実に朝露にも例へられない、宇宙の無限に比べては此地球の如きは粟粒にも足らない、其中の人間などが、神の経倫の中に数へられるなどゝは考へることも出来ない……

けれども此の人間に神に通ずる所のものが在るのだ、夫故に人生が尊くあるのだ……

政治も、権力も、名誉も、学問も、何の値もないものだ。


引用文献: 前掲書1), p.97
※旧漢字はWEBの表示上、こちらで当用漢字に改めています。

広井先生は札幌農学校時代、明治10(1877)年6月、同級生の内村鑑三氏と共にキリスト教の洗礼を受けて入信されました。内村氏は広井先生が亡くなられた時、弔辞として次のようにお話されました。
「まことに一時は君自身が伝道師になられて、不肖私が今日居るべく余儀なくせられし地位に君が立たるゝのではあるまい乎と思はれた位でありました。」(前掲書1 p.3)
弔辞の言葉からもわかるように、広井先生は非常に熱心なキリスト教信者でした。朝方仕事を始める前に、静かに祈りの時間を設けていました。
厳くんの生きる姿を通して広井先生は「神に通ずる所のものが在る」と見出したのではないでしょうか。
短い命だと嘆くことよりも、 生きた人生を十分に振り返ることは
寂しさを埋めていく力になっていくのかもしれません。
それでも、この世でもう会えない寂しさは拭えないけれど、不自由な身体で頑張って生き抜いた息子を誇りに思い、その人生の中で大きな学びをもたらしてくれた息子に感謝し、天国で再会することを励みに生きられたように思います。

 
たとえ短い人生であったとしても、お子さんはこの世で何らかの大きな仕事を成し遂げていたことに、どうか気持ちを向けてください。
2014/6/9  長原恵子