病児・家族支援研究室 Lana-Peace(ラナ・ピース)
Lana-Peace 「大切なお子さんを亡くされたご家族のページ」
大切なお子さんに先立たれたご家族のために…
 
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「いつまでも、そんなにめそめそしていてはだめだ。亡くなったお子さんがうかばれないよ。」
お子さんが亡くなって数カ月経った頃に、周囲の人からそんな風に言葉をかけられたことはありませんか?
周囲の人は決して、悲しみに沈むあなたの姿を否定したり、非難する気持ちから言葉をかけたわけではありません。あなたがどうか元気になってほしい、と励ますつもりでかけた言葉のはずです。
しかしながら、あなたの心の中には、「悲しいものは悲しいのに…」と孤独な気持が、広がってしまうかもしれません。

今日ここでご紹介したいのは、浄土真宗の祖である親鸞(1173-1262)の言葉です。私は浄土真宗の門徒ではありませんが、大学院の授業で初めて浄土真宗を学ぶ機会があり、親鸞の教えがずいぶん多く書き遺されていることを知りました。その中で『口伝鈔(くでんしょう)』をのぞいてみましょう。これは親鸞から孫の第二代宗主の如信(にょしん)に語られたものが親鸞曾孫の第三代宗主覚如(かくにょ)に伝えられ、覚如によって筆録されたものです。
二十一条ありますが、ここでは第十七条「凡夫(ぼんぶ)として毎事勇猛(まいじゆうみょう)のふるまひ、みな虚仮(こけ)たる事」を取り上げたいと思います。「凡夫」というのは様々な欲や執着を手放せず、仏教の理をわかっていない者、といった意味の仏教用語です。
第十七条は かけがえのない人と死別する時に、人の心は決して理性的に冷静に割り切れるものではなく、激しく悲しみ動揺する心の動きを当時広まっていた教え(親鸞の考えとは異なるもの)によって戒めたり、辱めてはいけないということが書かれている条です。少し長い文章なので、ここでは一部を抜粋いたします。

愛別離苦にたへざる悲嘆にさへらるべからず。(中略)なげきもかなしみももつともふかかるべきについて、後枕にならびゐて悲歎嗚咽し、左右に群集して恋慕涕泣すとも、さらにそれによるべからず。

引用文献:
教学伝道研究センター編(2004)『浄土真宗聖典 註釈版第2版』本願寺出版社, p.906

このような内容です。

長原私訳:
愛する者と死に別れる辛さをこらえることができず、嘆き悲しむことがあっても、それが亡くなる者のこれから往く先に障害をもたらすわけではありません。死別の悲しみとは、数ある悲しみの中でも最も深いものです。だからこそ、これからまさに亡くなろうとする者の枕元や足元に寄り、悲しみ、そして嘆き、恋しく思ってその人の左右に群がり激しく泣いてもかまいません。亡くなる者が浄土へ往きて生まれることの妨げには、ならないのです。

親鸞が生きていた当時、人が亡くなる時には、愛情深くつながっていた家族をそばに近づけず、引き離す習慣があったようです。その背景には、これからまさに亡くなっていく方が、後ろ髪ひかれる思いでこの世を旅立つと、悪道に落ちるという考えが当時広まっていたからです。そのために浄土への往生を望む者はこの世への執着を断ち切り、ひたすら念仏するようにという教えがありました。ですから、周りの者が嘆き悲しむということは、亡くなろうとする者のこの世への思いや執着を強く引き止めることになり、かえって本人のために良くないことだと考えられたのでしょう。

親鸞はそうした考え方とは、一線を画していました。そもそも人間というものは皆、たくさんの欲望や思いを抱えて生きているものだという立場をとっていたのです。そのような愚かな存在であったとしても、阿弥陀様の深大な慈悲によって、人々は浄土へと救われるのだという考えを持っていました。したがって苦行を重ねたり、厳しく心を律することができた者だけが浄土へと救われるのではなく、阿弥陀様に帰依することを心に決め、誓った者ならば、何かのやり方にそって行動をとらなくても、阿弥陀様の慈悲のお力によって救われ、浄土へ往きて生まれることが身に定まると考えていました。

つまり周りの者が亡くなろうとする者にすがりつき、泣いたとしても、それは浄土へ往生することの支障にはならないのですよ、なぜなら阿弥陀様の慈悲のお力が護り、導いてくださるのですから、という考えから上記のような言葉が伝え遺されているのです。

親鸞の言葉は、嘆き悲しむことをいさめようとする者へ向けられた戒めでした。でも親鸞の向けられた眼差しの先にあるものは、互いに揺れ動く心を持つ人間(亡くなる本人と遺される者)であることがわかります。

大きなダメージを受けた人の心を包み込むような思想は、信仰の有無の垣根を越えて、心の中にやさしさがもたらされるような気がいたします。

 
泣きたい時は泣いてください。だって本当に辛いのですから。
雨降りの後は、必ず雲の晴れ間がやってくるように、
あなたの心にも、どうか小さな晴れ間がおとずれますように。
2013/5/29  長原恵子