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北海道 洞爺湖の近くにある昭和新山は観光地としても有名な場所で、今も赤茶色の岩肌から時折、静かに白煙を上げています。2019年6月に昭和新山を訪れた時、雲一つなく澄み切った青空の下、昭和新山はとても穏やかな表情を見せていました。
70数年前、かつてこの地は有珠山を背景にした麦畑でした。当時半年にわたる有感地震の末、17回もの有珠山噴火が4カ月の間に起こり、最終噴火から11カ月かけて溶岩ドームが推上して、標高400m近い山になったのです。この山が誕生する過程を毎日観察し続け、山の自然環境を保護しようと個人の財産を投げ打って、山を買い取った人がいました。北海道 壮瞥(そうべつ)郵便局の局長だった三松正夫さん (1888/7/9-1977/12/8) です。

現在、昭和新山の麓にはトランシットという専門の測量計を使って、地表変動を測量している正夫さんの銅像が建っています。台座に刻まれた銘は「麦圃生山」。「圃(ほ)」とは畑のこと。麦畑が山を生み出した、という意味ですね。自然のエネルギーは、想像も及ばないほど大きな底力を持っています。

昭和新山を我が子のように愛し、守ろうと正夫さんを強く駆り立てた背景には、二人の息子さんとの悲しい別れがあったのだと、正夫さんの著書の中で知りました。今日はその話をご紹介したいと思います。
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昭和18(1943)年12月28日午後7時、雪の降る静かな夜、北海道有珠郡の壮瞥郵便局局舎で正夫さんは一人、残業していました。そこに下からドンと突き上げるような地震が起きたのです。午後8時、9時と時間が経つにつれ、揺れは激しくなっていきました。
正夫さんは直感的に、今回の地震はただの地震ではないと感じました。なぜなら30年近く前の明治43(1910)年7月、まだ正夫さんが20代の若かりし頃、有珠山の噴火活動により、その北側と洞爺湖湖畔の間に四十三山(よそみやま:後に明治新山と命名される)が噴出されたことを経験していたからです。当時、東京大学地震学教授の大森房吉先生が来られ、現地調査が行われました。有珠山と言えば、正夫さんにとってまさに地元中の地元です。地理に詳しい正夫さんが案内役兼助手を務めました。かつて札幌の北海中学で学んでいた頃、父に請われて家業手伝いのために退学し、故郷に戻って仕事人生を歩み始めた正夫さんにとって、突如もたらされた学者と過ごす日々は実に新鮮で思い出深い時間になったことでしょう。

そうした経験が長い時を経て、正夫さんの奥底にあった探求心を目覚めさせたのではないでしょうか。正夫さんは誰に勧められるわけでもなく、自ら有感地震の記録を取り始めることにしました。それはとてもユニークな方法でした。小豆、大豆、インゲン豆と皿を用意し、地震の体感の大きさにあわせて小豆、大豆を入れ、地鳴りがあるならインゲン豆という風にして記録をとっていったのです。自分が仕事中も記録が抜け落ちないよう、妻のつるさんに記録を頼んでおきました。それから地震は実に半年も続き、ついに昭和19(1944)年6月23日、有珠山は噴火を起こしたのです。そして17回もの噴火が繰り返され、同年10月末に噴火が収束すると12月から熔岩塔の推上が始まり、翌年の昭和20(1945)年9月20日に全活動が停止したのでした。

麦畑の爆発が口火となり、最終的に7つの火口ができた噴火でした。日常生活の中で繰り返される地震と噴火を前に、ここで生活し続けることへの不安や恐怖を感じていたことでしょう。それでも正夫さんがその場にとどまったのは特定郵便局の局長として、地元の人々の通信網の要であることに責任を感じていたからかもしれません。正夫さんは地殻変動によって地表に現れる変化を調べ、亀裂や断層分布図を作り上げました。郵便配達のため日々、地域を回ることは、現地の生きた情報をリアルに収集する機会につながったとも言えます。鉄道のレールの狂いや国道の隆起、水田の水の張り具合、電線のたわみ具合などを観察していく中で、正夫さんは地震と地殻変動の集中した東九万坪地域に新しい火山の誕生を予見したのです。

かつて大森先生と過ごした時間の中で、火山活動の観測には定点観測が非常に重要であると正夫さんは学んでいました。そこで局舎と自宅から南西に2キロ半の距離を定点観測していこうと決めたのです。とは言っても、正夫さんは火山学者が用いるような専門の観測器具を持っているわけではありません。折しも第二次世界大戦のさなか、カメラがあってもフィルムの入手が困難な時代でした。そこで正夫さんはお手製の測定環境を整えたのです。郵便局舎と物置の間に高さを変えた2本のテグスを水平に張り、その1m手前に更に2本のテグスを同様に張り、この糸から1m手前の柱に丈夫な板を水平に打ち付けました。前後の糸が重なり合って見えるようにこの板に自分の顎を乗せれば、自分の目の位置が常時一定に固定されるためです。
そして目印になる背景が描き込まれた観測用紙をガリ版刷りで用意し、昭和20(1945)年5月1日から毎日一枚ずつ地形の変化を記録し始めました。

やがて噴出した新山の高さが背景の有珠山稜線を越えると、比較物がなく、作図も困難となりましたが、北海道大学理学部地球物理学教室の福富孝治教授からトランシットを貸与されることになり、尾根山7点、溶岩塔7点の観測を毎日続行したのです。それは火山活動が停止した昭和20(1945)9月20日まで行われました。

対象物をしっかり見て、スケッチしていくことは、正夫さんにとって非常に得意な分野でした。北海中学退学後、かつて慶応義塾で学んでいた父から寺子屋形式で中国の古典などを教えてもらう一方で、絵が好きだった正夫さんは仕事休みを利用して土佐派の日本画家 佐藤春玉氏に師事し、3年間絵を学んでいたのです。その後、円山派や南画の通信教育も受講していた正夫さんの描写力の才能は、こうして思わぬところで役立ったのでした。

現在の昭和新山山麓から山頂へと見上げてみると(写真2)、地球の内部に存在するエネルギーがいかに莫大であるか思い知らされますが、それを再認識するものが昭和新山から歩いて数分のところにある三松正夫記念館に展示されていました。角の取れた楕円を呈する河原石です。その幅は大人の肩幅くらいはあったでしょうか。

川のない新山の地表から見つかった河原石。館内の解説パネルによると、まだ有珠山のなかった1万3千年以前にはこの辺りを長流(おさる)川が流れていたそうです。しかし有珠山の成長によって流れが変わり、この地には河原石が取り残されました。そして昭和20(1945)年の噴火活動により地下の溶岩が麦畑や古い地層の土砂を載せて静かに隆起し、河原石もドーム頂上あたりまで押し上げられた(※1)のだそうです。

この新山噴出によって被害を受けた人々もいました。隆起して新山と化した約60ヘクタールもの土地では家が壊れ、耕作もできなくなったのです。困り果てた人々がどうしたら良いかと、正夫さんに相談を持ちかけるようになりました。そこで正夫さんは、国に買い取りを働きかけてもらうよう村役場へ陳情に出向きましたが、聞き届けられませんでした。そのうち新山の火口付近に固まっていた硫黄に目を付けた鉱山師によって、硫黄が盗掘されるようになったのです。これでは新山がどんどん破壊されていきます。新山の自然環境を守るためには、どうすれば良いのか? 正夫さんの出した結論は自分が山を買い取る、というものでした。元々の持ち主にとっては使い道のなくなった土地を売却し、お金を得ることができます。また新山を私有化すれば、部外者の立ち入り規制もできて、自然保護につながります。そこで正夫さんは昭和21(1946)年、2万8千円で新山を買い取ることに決めました。当時、はがきは1枚15銭の時代です。2019年現在、1枚62円であることを元に考えると、当時の2万8千円とは現在の1,200万円近い額に換算できるでしょうか。そんな単純比較ではいけないかもしれませんが、とにかく一個人が自然保護のために即金を用意できるような金額ではないことは確かです。

私はこの前、ふたりの子どもを病気と戦病死でなくしていました。そのための闘病生活で、貯蓄はほとんどつかってしまっており、わずかのたくわえも日常の生活をささえるのに、ぜひ必要なものでした。あとは退職金ですがこれも長年つとめたとはいうものの、ひとつの山が買えるほど多くはありません。残るは父親ゆずりの山林を処分することだけでした。

引用文献 1:
三松正夫(1974)『昭和新山物語 私と火山との一生』誠文堂新光社, pp.210-211

耕作できるわけでもない、再噴火するかもしれない山を買うために、先祖伝来の土地を手放そうとする正夫さんに対して、近親者から大反対が起こりました。それでも正夫さんには、どうしても新山を買い取って守りたい理由があったのです。

今になって、この山を買おうとした動機を考えてみると、これまでお話しした硫黄採掘から守るためとか、自然保護・学術資料の保存という単純明解な表向きの理由ばかりでなく、その他になにかがあったように思えてくるのです。多分それは、新山と私との二年間のつきあいの中から、いつとはなしに山と私との間にだけ芽ばえてきた、不思議な感情・友情なのかもしれません。二年間のつきあい、生命がけのつきあいのなかに、例はちがうかもしれませんが戦友や山男の間に芽ばえる「自分の物は君の物、君の物は自分の物、死ぬときは一緒」という一身同体的な感情といった、それに近いものができていたのだといえましょう。

新山は、私の分身に近かったのかもしれません。誕生をみまもってきた私には、わが子であったのかもしれません。私は息子を胸の病いで昭和十六年に失っており、赤ちゃんのころから、わが子同様に育てた兄の子も、戦病死させていたため、その悲しみを忘れようと打ちこんだ新山です。この山はふたりの子どもの生まれかわりなのだという私の気持から、山肌をいろどる硫黄がわずかすくいとられても、熔山塔をたたき割られても、他人にはわからない、ひどい痛みを心に感じたのです。

引用文献: 前掲書1, p.213

正夫さんの心情を妻のつるさんもよくわかっていました。

私の心にある新山は、他の人びとにはわかってもらえなくても、また金銭的に無価値なものであったとしても、より価値ある土地だったのです。私も人の子、はたしてこれでよいのか、後悔することはないか、と悩みました。しかし、「ここまで打ちこんだことだし、あなたの好きなようにすればよいでしょう」という老妻のひとことで決心したのでした。

引用文献: 前掲書1, pp.211-212

周囲からは無謀に思える話でも、最初の地震の時からずっと一番近くで夫の様子を見てきたつるさんだったからこそ、新山は夫にとってかけがえのない存在であると理解し、夫の決断を尊重したのでしょう。そういう妻への感謝を正夫さんは執筆のたびに綴っています。

家内は初め「正気か」という顔をしました。多少あった蓄えは、物資不足の時代の中にあって、二人のむす子の療養費に使い果たしていましたから、妻が反対するのは当然なわけです。その妻も遂に賛成してくれたのは、二人のむすこを亡くしてやり場のないわたくしの心を汲んでくれたからだと思います。

引用文献 2:
三松正夫「ベロニーテ型火山の観察」(1975)『羽ばたけ北海道 : 北海道回想録2』北海道総務部行政資料課, p.268

ただ、老妻は私の火山に対する執着ぶりをよく知っていたし、長男、次男と二人の息子につぎつぎに先立たれて、いささかしょんぼりしていた私に、息子のかわりに山を与えて慰めるつもりであったのかもしれない。

引用文献 3:
三松正夫(1970)『昭和新山:その誕生と観察の記録』講談社, p.15

買い取った後、つるさんと初めて新山に出かけた時のことを正夫さんは次のように綴っています。

山に初めて足を踏み入れたとき、妻は叫び声をあげた。
「あなたがこの山をどうしてもほしかった気持ちが、わかる様な気がしますよ。極楽と地獄を一か所に集めたみたい!」
白、黄、赤、青、紫等にいろどられた錦絵のような光景、ごうごうたる噴気に見えかくれする荒々しい山容に、妻もまた魅せられてしまったのであろう。私には、陣痛から出産、成長を見守ってきた感慨は深く、この山をわが子にした無上の喜びがあった。

引用文献 4:
三松正夫(1972)「わが子昭和新山の育児日記」『リーダーズダイジェスト』27(1), 日本リーダーズダイジェスト社 , p.82

そこから月に数度、正夫さんは観測のために新山を一巡するようになりました。記念館には昭和23年頃、正夫さんが新山の岩の隙間から噴出する地熱を利用して、持参のじゃがいもや卵を蒸して昼食をとる写真もありました。また、昭和35年頃までの新山は靴底を通して地熱が感じられ、足元が悪いところで岩に手をつくと、火傷するほどだった(※2)そうです。おそらく新山の地熱も、正夫さんにとっては愛しい存在だったことでしょう。我が子のように思いをかける新山は、もう大規模な噴火は見られなくても、地表の下でその生命はしっかり息づいているのだと、強く感じていたのではないでしょうか。

買取により新山が正夫さん個人の所有物となったことから、新山の名前に「ミマツ」や「マサオ」を入れることを周囲から提案されました。しかし新山は日本の宝、世界の宝だと感じていた正夫さんは、あれこれ思案してもなかなか名付けることができず、しばらくの間は名前がつかない状態で「新山」と呼んでいました。昭和21(1946)年4月、国へ天然記念物へ指定申請した時には「有珠新山の熔岩円頂丘」と称されていました。

しかし正夫さんの心はどこかすっきりしていなかったのでした。有珠山はこれまで何度も噴火し、いくつも側火山ができていることから、いつかこの新山も個別性が忘れ去られ、他の山々と同一視されるのでは、と思うようになったのです。

そこで新山の調査研究で親交のあった東北大学理学部地理学教授の田中館(たなかだて)秀三先生に命名をお願いすることにしました。そして田中館先生は津屋弘達東京大学地震研究所長と相談の末、「昭和新山」と命名されました(※3)

同時に明治43(1910)年に有珠山の噴火活動によってできた「四十三山」は、その誕生当時から調査研究にあたった大森房吉先生が「新山」と呼ばれていたこともあり、当時の元号をつけて「明治新山」と改められました(※4)。そして昭和32(1957)年6月、特別天然記念物として認められていた新山は昭和35(1960)年4月、「昭和新山」へ名称変更された(※5)のです。

昭和新山の熔岩塔の要所については、正夫さんが命名することになりました。そこで名前からその形や成り立ちが想起できるように「大剣」「中剣」「コブ山」「サンゴ岩」「火の回廊」「カメ岩」「獅子岩」と名付けられた(※6)のでした。

正夫さんが地道に、そして緻密に観測して得た記録は膨大な量になりました。その中である日、重ねて置いたあった定点観測記録の図を見た時、変化した分だけが透けて見えたのです。正夫さんはこれをヒントに、昭和新山の隆起する経過を1枚の記録用紙にまとめようと思い立ちました。そして数ある中から24枚を選び、変動記録をほぼ1カ月間隔で書き写していったのでした。これが昭和新山隆起図です(図2)

定点観測以外にも現地調査のフィールド・ノート、スケッチ、日記など多岐にわたる記録を元に、地震、隆起、地皺(ちしゅん)・爆発・溶岩塔の推上に項目を絞り込み、経時記録として1つの表にまとめました。図3がその月別表です。

そして観測スケッチの中でも特に重要なものは後世の人のために残そうと、正夫さんは得意の日本画技法で絹地に彩色し、50点もの作品を描きあげたのでした。

これらを田中館先生へ送ったところ、事実を事実のままわかりやすくまとめていることに好感が持てる、と評されました。そして田中館先生は昭和23(1948)年の万国火山会議(開催:ノルウェー・オスロ)でぜひ発表したいと考えたのです。しかし敗戦後の日本は連合国軍の占領下にあり、出国するには軍の許可が必要とされ、学者の学術的目的の出国でさえも簡単に許される時代ではなかったのでした。そこで帰国する駐日ノルウェー大使に、田中館先生の学術論文と共に正夫さんの苦心の成果の記録が託されたのです。

万国火山会議には、メキシコのパリクテン火山観測を続けていた学者らも出席していたが、彼らは“日本にはミマツあり、メキシコにミマツなきはまことに残念”と嘆息したという。パリクテン火山も昭和新山と同じころ畑地から突如生まれた火山であるが、学者らが駆け付けたのは一か月もたってからのことで、その間の活動の実態は永遠に不明になってしまったからである。私はこの会議のもようを聞いて感激した。田舎の一配達夫からスタートした私の人生が、この世に役にたつひとつの仕事を残したという喜びと誇りをひしひしと感じた。

引用文献:前掲書4, p.84

正夫さんの記録は万国火山会議で非常に高い評価を得ました。そして「MIMATSU DIAGRAM(ミマツダイヤグラム)」と命名されたのでした。こうして昭和新山は世界にも知られるようになりました。

写真5と6は記念館でお土産用に販売されていた「ミマツダイヤグラム」です。ミマツダイヤグラムを元に、1冊19ページのミニ冊子になっています。左綴じされ、中のページは1枚ずつ横幅のページが少しずつ長くなっています。左端を押さえて、右端を指でパーッと力を抜くと、最初の地震の日から活動停止日までの変容をパラパラ漫画のように見ることができます。
今、こうして見えている山がどんな風に育ってきたのか、比べてみると実に感慨深いものですね。
ミマツダイヤグラムを作り上げる間、正夫さんの胸に去来する思いは、まさに我が子の成長記録を記す父親そのものだったことでしょう。
写真7は記念館の背後の有珠山ロープウェイから撮影したものです。赤茶けた昭和新山の左手、緑の森の向こうに見える青い部分は洞爺湖です。昭和新山が噴出される噴火活動の頃、その火山灰は洞爺湖まで降り注ぎ、ザリガニも消えてしまったほど濁ったと言われていますが、今では美しい湖水をたたえています。

地殻変動、地熱、火山灰等によってダメージを受けてしまった自然環境は、長い時間をかけながら命を吹き返していきました。そこにはこどもの成長を見守るような正夫さんの視線があったのでした。

私が一番興味を持ち、心うたれたのは、一度は死の世界となったはずのこの辺一帯での、自然界の生命力でした。(略)
また熱石に焼かれ、火山灰にうまり一木一草もない死の世界を見て、当時私はここにはたして生命がよみがえるのだろうかと思った新山にも、自然の生命が観察できました。

引用文献:前掲書1, pp.217-218

一帯のカラマツは枯死したものの、ヤナギ、ハルニレ、アカシアは翌春に新しく芽吹き、林をつくるほどの成長を見せました。そして昭和新山の東部・北部は立ちいれないほど植物が生い茂るようになりました。昭和31年当時、正夫さんは昭和新山で69種もの植物を観察し(※7)、草木、花、虫、小鳥そうした生命の一連のつながりと広がりをしみじみ感じていました。そして雨や風の力によって一部欠損、崩壊していく地表はあっても、それもまた変化の一端だと受け止めていったのでした。昔は雅号を化雪と称して洞爺湖を中心に絵を描いていた正夫さんでしたが、昭和新山が生まれてからは愛山と変え、昭和新山の姿を描くようになりました。その数はなんと千枚以上にのぼるそうです。

昭和新山は正夫さんに新たな世界の広がり、繋がり、そして栄誉をもたらしてくれました。昭和24(1949)年、正夫さんは上野の日本学士院で観測写生図などの解説・報告を行い、東京地学協会、東大地震研究所、日本地理学会、東京中央気象台、東北大、北海道大で講演する機会も得たのでした。
また昭和29(1954)年、第9回北海道国体に臨席された昭和天皇・皇后両陛下が昭和新山にお越しになった際、正夫さんは両陛下に直接ご進講される機会を得たのです。記念館には当時、説明のために用意された絹地彩色と、大きな熔岩塔の模型が展示されていました。実際に昭和新山に登山しなくても、その頂上周辺がよくわかる作りになっています。

昭和新山を愛おしく見守る正夫さんの姿は晩年に渡っても続きました。

息子は緑につつまれ、かつての荒々しい風貌を捨て美しいたたずまいを見せている。新山が静かになり、私の生活も、静かになった。郵便局をしりぞき、日々わが家の窓から間近く息子をながめる。苦労をかけさせられた息子、新山。しかし、このわが子を通じて得た全国津々筒浦々、世界にわたる知人との心楽しい交流。思わぬことから迎えた実り豊かな余生である。

引用文献:前掲書4, p.84
毎日こうして机の前に座ってながめているんです。この山は私の息子ですからね。本当の息子たちはこの山がうまれたころ、戦争などで失いましたが、その代わり新山が私の永遠の息子になってくれました。(略)
ここから一キロちょっとですから、ほんとは毎日でも山に出かけたいんですが、このごろは足腰が自由でないもんで、窓から眺めて山の絵を描いています。
これがただ一つの楽しみでしてね。(略)息子の成長を見守っているので、それが生きがいですから、死ぬまで続けますよ。

引用文献5:
上田満男(1977)「三松正夫」『わたしの北海道 : アイヌ・開拓史 (すずさわ叢書 ; 14) 』すずさわ書店, pp.286-287

記念館には85歳の時に正夫さんが手掛けられた絵画「昭和新山熔岩塔」が展示されていました。絵画としては遺作となりましたが、赤茶色の熔岩塔から青空に向かって一面を覆う如く白い噴煙が立ち上る様子は非常に力強く、ダイナミックな大地のエネルギーが表現されていました。正夫さんの強い愛情もそこに重ね合わせられているかのようです。

正夫さんは亡くなる4カ月前、昭和52(1977)年7月、北海道大学理学部「八木ゼミ」の学生たちが昭和新山を訪れた際、1時間ほど昭和新山の植生の変化について講話を行いました。新山爆発から2年後のスギナを皮切りに3年目、5年目、10年目にどのような変化が起こったのか、動物、鳥はどうであったのか、お話されました。自分の足でしっかりと丹念に山を歩き、見て回っていたからこそ、何十年経っても鮮明に思い起こせるのでしょう。その講話は正夫さんの許諾を得て八木健三教授が筆記され、日本火山学会機関誌『火山』へ寄書として寄稿されました(三松 正夫(1977)「昭和新山生成時における植生」『火山』第2集, 22巻2号, pp.85-86)。インターネット上、PDFで読むことができるようになっています。

現在、昭和新山は特別な許可を得なければ入山できない山ですが、普段立ち入り可能な山麓エリアには「昭和新山野外博物館」と称した散策路が設けられ、案内板が掲げられています。6月の昭和新山の山麓は清々しい緑に包まれていました。正夫さんの愛した我が子は今、こうして実に多くの命を育んでいます。

 

昭和52(1977)年12月、正夫さんは89歳で永眠されましたが、昭和新山との繋がりは、宇宙にもその名を刻むことになりました。平成4(1992)年、平成8(1996)年に日本のアマチュア天文家である円舘 金(えんだて きん)氏と渡辺和郎(わたなべ かずお)氏によって発見された二つの小惑星が関係者のご好意により「SHOWASHINZAN」「MIMATSU」と命名され、2001年5月9日付で国際天文学連合に認められたのです。記念館入口近くにその認定証が飾られていました。
1992年10月26日に発見された星が「SHOWASHINZAN」 (8874)、そして1996年11月7日に発見された星が「MIMATSU」 (8728)です。

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正夫さんの数々の貴重な資料は当初、専門の学者にだけ公開されていたそうですが、孫夫婦の三松三朗さん・泰子さんご夫妻の尽力により、数多くの資料が整理され、昭和44(1969)年6月に「昭和新山資料館」が開館し、昭和63(1988)年4月に「三松正夫記念館」と改称・移設されました(北海道有珠郡壮瞥町字昭和新山184-12)(※8)。火山の専門知識がない一般人にもわかりやすいように展示が工夫されています。

火山以外に関する当時の思い出の品なども展示されており、明治・大正・昭和と三つの時代に渡って生きた正夫さんの横顔も垣間見えてきます。パソコンもインターネットもない時代、一般人の正夫さんが成し遂げた功績を知ると、本当にすごいことだとしみじみ思います。

三松泰子さんは若くして他界された正夫さんの息子さんの忘れ形見で、正夫さん夫妻が親代わりとして幼い頃から大切に育てたお孫さんです。ご主人の三朗さんは会社勤めをされていた方ですが、義父の意志に賛同し、昭和新山の保護を引き継がれ、現在記念館の館長を務められています。来館当日、フロアにいらっしゃった三朗さんに、思いがけなくお話を伺うことができました。まさかご本人にお目にかかるれるとは!三朗さんは昭和新山に関する様々なお話をしてくださいました。実直なあたたかいお人柄が伝わってくる説明でした。そして「彼(正夫さん)の仕事がどう活かされているか、見届けたい」と仰っていました。それは『昭和新山物語』のあとがきの中で正夫さんが綴られていた思いと重なるように思います。

なにか大切なことを言い忘れたような気もしていますが、この本の中から自然界の中にある"なにか"を感じとってください。そして火山活動を自然界の悪、破壊的なエネルギーと見ないで、悪いのは、そこにはいりこんでいる人間にあることを知って、この莫大なエネルギーを人間みんなの幸福のために善用し、活用する道を考えてほしいと思います。また、きっとできると信じています。

引用文献:前掲書1, p.268

「三松正夫記念館」は昭和新山の山麓から徒歩数分、賑やかなお土産屋さんやレストランの並ぶ大きな道路から50mほど奥まったところにあります。正夫さんは『昭和新山物語』の中で「この地を訪れる機会があれば、当時のことをしのびながら、そして私のこともちょっぴり思い浮かべながら、のぞいて見てください。」(※9)と記していました。昭和新山に行かれる際はぜひ、お立ち寄りになって見学されると良いと思います。

■三松正夫記念館へのアクセス

洞爺湖方面から道道703号線を南下して、看板を左折して昭和新山エリアに入ると、右手に大型駐車場と大きな土産屋店(壱番館)が見えてきます。そのお店の手前を右折し、植栽の奥へ進むと三松正夫記念館があります。6月上旬、美しいルピナスが群れを成すように咲いていました。
記念館の前から東の方を眺めると まるで記念館を見守っているかのように、木々の向こうに昭和新山が姿を現しています。

季節限定ですが、地元道南バスの路線バス「洞爺湖温泉〜昭和新山線」を利用すると、洞爺湖温泉エリアから昭和新山の麓の真下部分にある降車バス停まで15分ほどで到着します。こちらのバスは春から秋に1日往路4本・復路4本、限定運行されます。最新情報は道南バスホームページ(※10)をご確認ください。降車バス停から記念館に向かう場合は、駐車場前の道を少し戻る感じになります。

 
 
<図>
図1 局舎裏から定点観測をする三松正夫さん
三松三朗(2004)「火山誕生を見守り続けた郵便局長 三松正夫記念館」『地質ニュース』597号, p.54より引用
図2 昭和新山隆起図(のちのミマツダイヤグラムNo.1)
前掲書図1, p.56より引用
図3 地震・隆起・爆発・地皺・熔岩塔 月別表(のちのミマツダイヤグラムNo.2)
前掲書図1, p.56より引用
図4 三松正夫記念館周辺図(長原作図)
 
<写真>
写真1 北海道有珠郡 昭和新山
写真2 山麓から見上げた昭和新山
写真3 昭和新山 看板と共に 
写真4 昭和新山 熔岩塔
写真5 お土産用ミマツダイヤグラム表紙
写真6 お土産用ミマツダイヤグラム
写真7 昭和新山と洞爺湖
写真8 昭和新山野外博物館
写真9 三松正夫記念館
写真10 三松正夫記念館 経路
写真11 記念館から見た昭和新山
写真12 道南バス
写真13 昭和新山バス停
 
写真1〜13 2019/6/10 長原撮影
 
<文中引用>
※1 三松正夫記念館 展示解説パネル
※2 三松正夫(1974)『昭和新山物語 私と火山との一生』誠文堂新光社, p.217
※3 前掲書※2, p.248
※4 前掲書※2, p.248
※5 前掲書※2, p.246
※6 前掲書※2, p.249
※7 前掲書※2, p.218
※8 三松正夫記念館(昭和新山資料館)のガイドライン
※9 前掲書※2, p.235
※10 道南バスウェブサイト
※11 記念館から見た昭和新山
 

<参考文献>

三松正夫(1970)『昭和新山:その誕生と観察の記録』講談社
三松正夫(1972)「わが子昭和新山の育児日記」『リーダーズダイジェスト』27(1), 日本リーダーズダイジェスト社, pp.74-84
三松正夫(1974)『昭和新山物語 私と火山との一生』誠文堂新光社
三松正夫「ベロニーテ型火山の観察」(1975)『羽ばたけ北海道 : 北海道回想録2』北海道総務部行政資料課, pp.260-273
三松 正夫(1977)「昭和新山生成時における植生」『火山』第2集, 22巻2号, pp.85-86
三松泰子(1978)「有珠山観測に一生を捧げた人 祖父三松正夫のこと」虻田町教育研究会編,『噴火の人間記録 : 有珠山から感謝をこめて』講談社,pp.297-316
三松三朗(1990)『火山一代 : 昭和新山と三松正夫 (道新選書 ; 17)』北海道新聞社
三松三朗(2004)「火山誕生を見守り続けた郵便局長 三松正夫記念館」『地質ニュース』597号, pp52-59
寺田和(1976)『燃える山 : 「愛山」三松正夫の昨日・今日 訪問記』寺田和
上田満男(1977)「三松正夫」『わたしの北海道 : アイヌ・開拓史 (すずさわ叢書 ; 14) 』すずさわ書店
桜井信夫(1982)『わが子 昭和新山 昭和新山の誕生を記録した三松正夫』PHP研究所
吉田忠正著, 藤井敏嗣監修(2012)『日本列島大地まるごと大研究 3 火山の大研究』ポプラ社
合田一道(2016)「昭和新山の生成を描く三松正夫の生涯」『北海道青少年叢書 北国に光を掲げた人々 34)』北海道科学文化協会,pp.72-129
昭和52(1977)年12月9日朝日新聞夕刊 「遺稿も”わが子”昭和新山」
 

息子さんたちとの悲しい別れや寂しさを昭和新山を懸命に守る情熱へと昇華させ、生涯を通して昭和新山を愛した正夫さんの人生は、亡き息子さんたちと共に歩んだ人生と言えると思います。

2019/8/11  長原恵子