病児・家族支援研究室 Lana-Peace(ラナ・ピース)
Lana-Peace 「大切なお子さんを亡くされたご家族のページ」
大切なお子さんに先立たれたご家族のために…
 
ご案内
Lana-Peaceとは?
プロフィール連絡先
ヒーリング・カウンセリングワーク
エッセイ集
サイト更新情報
日々徒然(ブログへ)
 
エッセイ集
悲しみで心の中が
ふさがった時
お子さんを亡くした
古今東西の人々
魂・霊と死後の生
〜様々な思想〜
アート・歴史から考える死生観とグリーフケア
 
人間の生きる力を
引き出す暮らし
自分で作ろう!
元気な生活
充電できる 癒しの
場所
お子さんを亡くした古今東西の人々
悲しみに心惑う時、支えとなる何か

昆虫学者ジャン=アンリ・カジミール・ファーブル氏が長女と長男、そして次男を亡くした時のお話をご紹介しましたが、彼はそうした経験を通して自分にとっての支えを見つけ出していきました。それらは同様の境遇、同様の悲しみを経験した身近な人にかけた言葉、宛てた手紙から知り得ることができます。今日はファーブルの四女とファーブルの弟のお話を取り上げたいと思います。

将来自分の研究テーマを共に分かち合うだろうと期待を寄せていた次男ジュールが、病気のため16歳で他界したのは、ファーブルが50代半ばになった頃でした。すっかり憔悴してしまったファーブルの研究を助けてくれたのは娘たちでした。父ファーブルもそれには深い感謝を示しており、次女のアンドレア=アントワーヌ(アントニア)の名は、当時自分が新しく見出したと考えたハチの名の頭に付して捧げられました。また四女のクレール=ユーフラジー(以下、クレール)の熱心な研究調査への貢献ぶりは『昆虫記』第四巻のドロバチの章で詳しく記されています。彼女らは研究者として世に名を馳せた人物ではありませんが、大きな研究の陰にはこうした人々の尽力があることを忘れてはいけませんね。ファーブルもそれはいつも心に留めていたのでしょう。

1887年4月、31歳だったクレールはマリー・アントワーヌ・ソテルと結婚し、ファーブル家のあるセリニャンから数km離れたオランジュに自宅を構えて暮らしていました。クレールの自宅には一部がアシで作られた鶏小屋がありましたが、1889年6月の中頃、そのアシの茎の中にハチが出入りする様子を彼女は見つけたのです。それは他の人にとっては特に気にも留めないような、穏やかで長閑な自然の一風景であったかもしれません。しかしファーブル家に育ったクレールの着眼点は異なりました。ハチ達は強いビターアーモンドの臭いを放つ小さな虫をアシの茎の巣の中に運び入れていることに、クレールは気付いたのです。父の研究に役立つ情報ではないか、と思ったクレールは、アシの茎の切れ端を詰めた束を手紙と共に父に送りました。

その時の喜びをファーブルは次のように記しています。

まず最初にざっと見て、私は非常に満足した。そこには私の青春時代の情熱を再び呼びさましてくれるだけのものがあったのである――いまや獲物籠と化している巣の小部屋、獲物のそばでもうすぐ孵りそうになっている卵、最初の獲物に噛みついている生まれたばかりの幼虫、大きくなりかけの幼虫、繭を造りはじめて糸を吐いている幼虫、欲しいものはすべてそこに揃っていた。

私の庭の腐植土の山の中にいるツチバチを除けば、幸運がこれほどのものを私に授けてくれたことはかつてなかった。順々にこの豊富な資料について詳細な目録を作ってみよう。


引用文献 1:
ジャン=アンリ・ファーブル著, 奥本大三郎訳(2007)『ファーブル昆虫記 完訳 第4巻下』集英社, p.23

そして父親として娘に向ける慈愛の眼差しと共に、研究に取り組む仲間としての視線も向けられていたのでした。

彼女は現場におり、この研究の対象である、記憶すべき事件の起こる鶏小屋に毎日出入りしているのである。そうしてこれが何より大きなことだけれど、彼女は頭がよく、私の役に立ちたいと思っていることを私はよく知っていた。
私の厄介な頼みをクレールは熱心に果たしてくれた。私のほうでも、できることなら虫を飼育し、観察してみたいと思っていた。それで、お互いに事を急ぐあまり、事実の評価について影響しあったりして、あとで疑問が残るというようなことがないよう、双方が確信をもつまで、互いの結果を秘密にしておこうと話を決めたのである。

引用文献:前掲書1, p.43

オウシュウハムシドロバチが獲物のドロノキハムシを運んでいると考えたファーブルは、オウシュウハムシドロバチの獲物確保の詳細を知りたいと思いました。そこで観察に役立つアドバイスを送り、クレールに観察を続けるようお願いしたのでした。父の期待に応えたい一心だったのでしょうか、クレールは川辺でたくさんのドロノキハムシの幼虫がいたポプラの若木を見つけると、慎重に根元から土の塊ごと引き抜き、自宅まで運んだのです。そしてオウシュウハムシドロバチの巣がある鶏小屋の前に、ポプラの木を植えました。なんと力強い行動力でしょう! そしてクレールはポプラのそばの茂みに隠れると、朝から一日中見張りをして、オウシュウハムシドロバチの活動を観察し始めました。なかなか根気と体力の求められる仕事です。ようやく3日目になって、鶏小屋のオウシュウハムシドロバチ達は獲物の存在に気付いて活動を開始しました。きっとクレールは心躍ったことでしょう。オウシュウハムシドロバチが獲物を捕らえる様子を熱心に観察しました。現代であれば一般の人でもスマートフォンで気軽に、リアルな瞬間を録画できるような時代です。しかし当時はもちろんそんな便利なものはありません。カメラと言っても今のように現像代を気にせず何度もシャッターを切れるデジタルカメラではありません。頼りにできるのはまさに、自分の肉眼なのです。小さなハチたちの生態を一つも見逃すまい!そんな彼女の気概が伝わってきそうです。あまりに熱心に観察を行ったため、クレールは何日か床につくほど重症の日射病になってしまいました。父ファーブルはこう記しています。

もっともクレールは、こうなることをあらかじめ覚悟していた。父親の例を見ているから、情け容赦のない太陽の下での観察の御褒美とは大抵こんなものであることを、よく知っていたのである。
科学の世界での称讃が彼女の頭痛を少しでもつぐなうものとなりますように!クレールの観察の結果があらゆる点で私のそれと一致しているので、私は自分自身で見たことを語りながら、彼女の得た結果もまた伝えることにしようと思う。


引用文献:前掲書1, pp.45-46

ファーブルがどれほどクレールの努力をありがたく思い、そして研究のパートナーとして大いに期待していた様子は、1889年6月23日、クレールに宛てた手紙の中にしっかりと現われています。

おまえもわかるだろう。生命の研究においてはどんな問題も別な問題を生じさせるのだ。そしてつながった一連の問題が終わりになることはけっしてない。今度おまえがセリニャンに帰ってきたら、おまえの発見や獲得できた結果について、思う存分話しあうことにしよう。


引用文献 2:
イヴ・ドゥランジュ著, ベカエール直美訳(1992)『ファーブル伝』平凡社, p.188

父の研究にとても尽力したクレールですが、この頃、彼女のプライベートで起きていたことを知ると、その一生懸命さが実はとても悲しい出来事に絡んでいることがわかります。
上の手紙が綴られた一年ほど前のこと、1888年6月9日、クレールは第一子となるジャンヌ・アンリエット・マリーを出産しました。父の大反対の末にようやくできた結婚、そして迎えた我が子の誕生です。クレールにとって1887年から1888年は本当にめまぐるしい日々だったのでした。そして新米ママとなり、ジャンヌを愛情深く、懸命に育てたことでしょう。しかし笑顔に充ちた日々は長く続くことはできなかったのでした。
次の手紙はファーブルがクレール宛に1889年綴ったと伝わる手紙ですが、そこには孫ジャンヌが体調を崩し、瀕死の状態にまで至っていることを心配すると共に、母である娘クレールの胸中を察するファーブルの気持ちが溢れています。

親愛なるクレールへ
小さな病人がよくなったのではないかと期待して、天気が良い日がくるたびに、おまえたちが来るのを待っていた。そうしたらどうだ、痛ましい手紙を受け取ることになってしまった! 瀕死の状態というじゃないか!しかし、まだ希望は捨てないことにしようね。これまでにも、医者がけっして間違いをおかさぬ権威者であったわけではないのだから。

とはいえ、絶望はしないにしても、おまえの苦痛を心から分かち合うよ。ああ、私はおまえを知っているもの、どんなにかたいへんな苦痛を味わっていることか。こんな不幸は人生の一つの挫折だ。そうだとも、おまえの言うことはぜったいにもっともだ。まるでこの世が似つかわしくないとでもいうように、むごたらしい運命が真っ先に奪ってゆくのは、素晴らしい知性をもった者たちなのだ。我が家でもそのひどい例が一つあったね。

あれから12年の歳月が流れたというのに、今だに心がうずくよ。あの頃、私がおまえたちに朗読させたマレルブのたいへん感動的な詩のことを思い出してごらん。

「もっとも美しいものが
最悪の運命をもつような世界に
バラは属していたのだ
そしてバラは、バラたちの人生を生きた
朝という束の間の人生を」

人生の突発時は、いかに許しがたくとも、よそにつぐないをもつものだ。これは私の心底からの確信だ。そして、いろんなことを経験して、毎日その確信が大きくなってゆく。この確信をおまえももっている。この確信のなかだけに、一時の苦しさに対するいくらかの慰めを求めるべきだし、慰めが見つかるはずだよ。どんなことが起きようとも、愛しい娘よ、勇気をお出し。人生のつらい試練はどこかで説明がつくはずだ。われわれが失ったものは、また見つかるはずだ。われわれがとても愛したものは、われわれに返ってくるのだ。悲劇的な事件には勇気をもってあたること。

だいいち、苦痛の極みのなかで、かえってこの悲劇を先取りしすぎているようなところがあるのかもしれないよ。もう手のほどこしようがないところでは、少なくとも精神力で闘おう。われわれを押しつぶす逆境よりも強いことを示そう。おまえのような広い心の持ち主なら、こうしたことが理解できるはずだ。苦痛はわれわれを高尚にするものであって、打ちのめすものではない。勇気をお出し! そして、致命的な打撃を受けねばならないものなら、つねに新たな闘いをする覚悟で、毅然として受けなさい。

おまえも私同様に知っているだろう、人生は逆境の連続にすぎないということを。それなら、また新たな逆境がやってくるのにそなえて、いくらか力を蓄えておこう。おまえは勇敢な娘だったのだから、勇敢な女性におなり。そうすれば、未来が報いてくれるだろうよ。

おまえの手紙をマリーに見せたら、とても可哀相がって、思わず、おまえのところに行って一緒に泣こうと言っていたよ。彼女の善良な心から出た思いつきに、私は負けてしまった。一緒に涙を流すことも一つの慰めだろうね。
さようなら、愛しい子よ、あの世が今の責め苦をつぐなってくれるだろう。


J ・H・ファーブル

引用文献:前掲書2, pp.189-190

ファーブルは手紙の中でクレールにポジティブな気持ちで過ごすよう、思考の立て直しをするようアドバイスし、励ましています。しかしながら最後には「一緒に涙を流すことも一つの慰めだろうね。」と結んでいます。どれほど立派な人間で高尚な思考ができたとしても、やはり一人の人間です。ショックな状況に追い込まれた時、そうたやすく気持ちを切り替えることなどできないですものね。

この手紙には「あれから12年の歳月が流れた」とあります。1877年9月14日、16歳で他界したファーブルの次男ジュールのことを指しているのだと思います。ジュールが亡くなった時、姉であるクレールは当時22歳でした。彼女にとってもその記憶は、12年経ったと言えども鮮明に残っていたことでしょう。

ファーブルはどうか孫ジャンヌが病気から回復し、娘クレールが辛い死別の経験をすることのないように……と願っていたことでしょう。
ジャンヌがいつ亡くなったのか、記録を探し出すことはできなかったのですが、クレールのこどもは生後数ヵ月で命を終えた(※1)と伝わっています。つまりクレールが屋外で日射病になることも厭わずハチの観察をした頃には、既に亡くなっていたと考えられます。それにもしも1歳のこどもがいたならば、何日も続けて、朝からずっとクレールがハチの観察を行うことはとてもできなかったでしょう。

ハチを観察した時期は、ジャンヌ亡き後、まさにクレールが自分の情熱を注ぐ何かを求めていた、と言えるかも知れません。もしジャンヌが生きていたら、1歳のお誕生日を迎えたばかりの頃。賑やかなジャンヌの声が家の中にも、庭にも響き渡っていていたことでしょう。ポプラの近くの茂みに一人隠れてハチの動きをずっと待っていたクレールの胸には、常にジャンヌへの思いが去来していたかもしれません。

それと同時にファーブルにとっては、かつて自分が三度も経験した我が子との悲しい死別を、今度は我が娘が味わうことになり、居ても立っても居られない、なんとか娘の力になってあげたい、そういう気持ちが起こっていたのではないでしょうか。娘がどんな助けを必要としているのか考える時、まさに過去の自分が答えを導いてくれたのかもしれません。没頭できる研究があること、それが悲しみに暮れる心をなんとか引き上げてくれたのですから……。

クレールはこのあと第二子を出産しましたが、その子も数カ月で亡くなり(※2)、クレール自身も1891年6月22日に亡くなりました。あと2ヵ月ほどで36歳の誕生日を迎えようかという若さでした。どれほど無念だったことでしょう。11歳年上だったクレールの夫は40代半ばで妻と二人の子に先立たれてしまったのでした。

---*---*---*---

さて、ファーブルには2歳年下の弟フレデリックがいました。強い信頼関係で結ばれたフレデリックには、心の内を素直に語ることができたのでした。ファーブルが長男を亡くした時、弟宛に書いた手紙を読むと、彼は悲しみに揺れる心情を吐露しながら、何とか明日につながる道を見つけ出そうとしていたことが伝わってきます。
さて70代を迎えたフレデリックが、妻と長女をほとんど同時に失った時、兄ファーブルは次の手紙を送りました。

おまえの上にふりかかったこんどのつづけさまの不幸について、私はなんのおくやみもしなかったけれども、けっして悪くとってはくれるな。

わたしもこれまでに、家族の死という苦しい味はたびたび味わってきている。だから、なまじっかのなぐさめのことばなどなにもならないということが十分にわかっているので、最良の友であるおまえにそんなことをいおうとは思わなかったのだ。

すべてをやわらげてくれるのはただ時だけだ。こうした心のいたでをやわらげてくれるのはただ時だけだ。

それから仕事だ。さあ、おたがいにやっていけるかぎりせっせとはたらこうじゃないか。仕事にもましてすばらしい気つけ薬がほかにあるだろうか?

(1898年10月10日、弟に)


引用文献 3:
G.V.ルグロ著,平野威馬雄訳(1988)『ファーブルの生涯』筑摩書房, pp.377-378

この手紙を書いた頃、ファーブルは既に6回も家族の死を見送っていました。最初の妻と5人のこども(長男・次男、長女・次女・四女)に先立たれた彼の経験から出て来た言葉です。特に次女のアンドレア=アントワーヌ(アントニア)が亡くなったのは、弟に手紙を書いた日から、わずか5カ月ほど前のことでした。彼にとって死別は決して他人事ではなく、まさに我が身のことでもあったのです。

妻と娘を近い時期に亡くした弟に送った手紙の中身が 「慰めの言葉よりも時間と仕事」そんな風に聞くと、中にはファーブルのことを冷たく思う人もいるかもしれません。しかし悲しむ人の心の状況によって、欲しているものは変わるのです。

悲しくても、辛くても、それでも自分にはこの世の人生の時間がまだ残っている。その時、自分はどう生きていくのか。悲しみを能動的に受け止めようと決めた人にとって「時間と仕事」はとても助けになることなのかもしれません。ファーブルの『昆虫記』はこのあと1900年以降から1909年にかけて、6巻から10巻が刊行されました。時間と仕事、それは本当にファーブル自身にとって心を立て直すための手段だったのです。

逆に自分でこの状況を何とかしたい、そういう気持ちがまだ持てない段階では、時間と仕事に期待を寄せることは難しいでしょう。心が欲しているのは能動的な癒しではなく、周りからの慰めの言葉による包み込まれるような心の癒しかもしれませんから……。

 
<長原 注>
※1 前掲書2, p.191
※2 前掲書2, p.191
 

<参考文献>

イヴ・ドゥランジュ著, ベカエール直美訳(1992)『ファーブル伝』平凡社
G.V.ルグロ著,平野威馬雄訳(1988)『ファーブルの生涯』筑摩書房
今田敏(1956)『ファーブル 上』日本書房
奥本大三郎(1999)『博物学の巨人アンリ・ファーブル』集英社
奥本大三郎(2014)『ファーブル昆虫記 いのちって、すごい!』NHK出版
奥本大三郎(1999)『博物学の巨人アンリ・ファーブル』集英社
露木陽子(1951)『 偉人物語文庫:48 ファーブル : 大昆虫学者』偕成社
平野威馬雄(1965)『世界伝記全集15 ファーブル』ポプラ社
 

何か一生懸命打ち込めるものを見つけること、それは悲しみに心惑う自分をひととき、強く支えてくれるのだと思います。

2019/3/23  長原恵子
 
関連のあるページ(昆虫学者ファーブル)
「子の最期の瞳が父にもたらした安らぎ」
「子を亡くした心の疼きを感動へと変えた父」
「悲しみに心惑う時、支えとなる何か」※本ページ