病児・家族支援研究室 Lana-Peace(ラナ・ピース)
Lana-Peace 「大切なお子さんを亡くされたご家族のページ」
大切なお子さんに先立たれたご家族のために…
 
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子の最期の瞳が父にもたらした安らぎ

『昆虫記』と聞けば誰もが合言葉のように「ファーブル」の名前を思い浮かべることでしょう。フランスの昆虫学者として大変有名なジャン=アンリ・カジミール・ファーブル氏(1823/12/21-1915/10/11)、彼は生涯で2度の結婚を通じて、10人の子宝に恵まれました。

彼は多くの執筆を手掛けてきましたが、その中で家族について触れられている部分を目にすることができます。有名な『昆虫記』の他に、1867年に出した『植物記』の巻頭では次のように記しています。

子どもたちに

わが家のたから、金髪頭のいたずらっ子たち。きみたちは、そそっかしやさんなのに、おもしろい話かつまらない話かがよくわかってしまう。この本はそういうきみたちのためのものだ。いつかきっと出合うが、出合いはきまって早すぎる厳密な科学を、きみたちに少しずつ無理なく手ほどきしようと思って「樹の話」をしたところ、なにより嬉しいことに、きみたちは熱心に耳を傾けてくれた。きみたちの年ごろはほんとうに素直だからだ。それなら、きみたちと同じように金髪でいたずらっ子のほかの子どもたちも、やはり「樹の話」に興味をもってくれるだろう。パリに向けて旅立つこの本が、きみたちに話したときと同じくらい喜ばれることを祈って私にキスをしておくれ。


引用文献 1:
J‐H.ファーブル著, 日高敏隆・林瑞枝訳(1991)『ファーブル植物記 新装版』平凡社, p.6

1867年当時、ファーブル家には17歳を頭に4歳まで、5人のこどもたちがいました。賑やかなおうちの雰囲気、そして父の話に目を輝かせるこどもたちの姿が浮かんできそうです。

ファーブルは91歳でその生涯を閉じましたが、晩年に至っても研究に情熱を注ぎ続けた人生でした。そうした実り多き人生を長く生きるということは喜ばしい反面、見方を変えれば死に逝く人を自分が見送る側に立つ機会が多かった人生でもありました。ファーブルは妻を2人とも見送り、6人のこどもに先立たれたのでした。人生の中で幾度も訪れた悲しい死別に、ファーブルはどう向かいあっていたのでしょう。これから数回に分けて読み解いていきたいと思います。なお、ファーブル家の家族の名前は各種出典によって若干表記が異なるため、本稿では津田正夫氏の『ファーブル巡礼』の家系図※1を参考にして表記します。

---*---*---*---*---

ファーブルは師範学校を首席で卒業すると小学校の教師になり、1844年10月3日、20歳の時に同じく教師で2歳年上のマリー=セザリーヌ・ヴィラールと結婚しました。そして翌年1845年の7月12日(11日説もあり)、ファーブル夫妻に新しい家族が増えたのです。長女エリザベート=マリー・アンドレアが誕生したのでした。まだ20代前半の若い夫婦にとって、初めての子育ては戸惑いや不安も多かったでしょうが、エリザベートの笑顔と成長が彼らの励みになったことでしょう。しかしその幸せは1年続くことはありませんでした。エリザベートは病気になり、1846年4月30日、息を引き取ったのです。

その9カ月後の1847年1月22日、ファーブル家に新しい産声が響き渡りました。長男ジャン=アントワーヌ・エミール・アンリの誕生です。長女亡き後、再び訪れた新しい命、ファーブルは喜びと共に「我が子を守りたい」その思いを強くしたことでしょう。

彼は1846年から1848年にかけて、学問の土台固めに力を注ぎました。経済的により良い安定した暮らしをするためには、キャリアアップが欠かせないと考えていたからでしょう。当時、小学校教員の給与はあまり高くなく、その支払いも滞りがちでした。また彼の父親は仕事が不安定だったことから、こどもの頃にファーブル自身苦労してお金を稼いでいた経験もありました。我が子にはお金のことで苦労をさせたくない、と思ったのでしょう。彼は大学入学資格であるバカロレアを文学と科学で獲得し、その後モンペリエ大学で数学、物理の学士号も取得し、更にその教員免状を取得しました。3年ほどの間にこんなにも大きく前進できたのは、長女を亡くした悲しみを勉学に向かう力に変えていたからかもしれません。しかし学士号の後に教員免状を…という時期、ファーブルが単身でモンペリエに来て試験勉強に励んでいた時、彼にとってまたもや悲しい出来事が起こったのでした。それはジャンが病気だとファーブルの元に入った知らせから始まりました。

彼の胸の中には、2年前の春に経験した長女との悲しい死別の思いが駆け巡ったことでしょう。心配、不安といった気持ちを通り越して、恐怖に近かったかもしれません。長男を診察した医師はもう手の施しようがない状態だと診断し、何の治療もしないで部屋を後にしました。けれどもファーブルは決して諦めることなどできません。ジャンはきっと元気になる、医師が見放しても、自分が何とか手立てを見つけるからね……そんな強い彼の決意が聞こえてきそうです。彼は尊敬する医学者フランソワ・ラスパイユの著書に書かれていた方法にすがりました。当時のファーブルの心情は弟フレデリック宛の手紙(※2)の中に綴られています。

子どもの病気の正体を見やぶろうと一生懸命になった。ラスパイユのおかげでやっとわかったので、それからは夜となく昼となく、その方針で看護してやった。きょうはやっともう峠をこしたからたすかるらしい。私は往年の名医アンブロワーズ・パレのことば、「余は看護し、神がなおしたもう」ものなることを痛切に味わった。(1848年9月3日、弟への手紙)


引用文献 2:
G.V.ルグロ著,平野威馬雄訳(1988)『ファーブルの生涯』筑摩書房, p.268

親としてできることを精一杯やるから、あとは神様の御力でどうか息子の命を助けてほしい……そういう祈りが聞こえてきそうです。両親の懸命の看病と祈りも叶わず、残念ながら長男は1848年9月6日、1歳7か月でこの世を去ってしまいました。

長女に続き、長男を亡くしたファーブル。どんなにショックだったことでしょう。彼は弟宛の手紙(※3)の中で切々とその思いを吐露しています。気持ちを言葉としてつむぎだしていく中で、幾度となく涙がこぼれ落ちたことでしょう。父ファーブルのその思いは、170年以上過ぎた現代の人々の心にも深く通じるものがあるはずです。

二、三日以来、それとはっきりわかるほどいちじるしく快方に向かい、このぶんならあの子もたすかるな、とすっかり安心していたら、二つの大きな歯がポクリと落ちた……。おそろしいほどの高熱が、三日のうちにあの子をさらっていってしまったのだ。

もちろん、いつまでも忘れることはできない。かわいそうな子ども、私はおまえの最後の瞬間のありさまを、永久に忘れることができない。おまえはぼんやりと、大きな目を空に向け、そして新しい祖国への道をもとめてでもいるようなようすだった……。
あまりの悲しみに胸は涙をたたえ、おまえのゆくえをたずねて、思いはいつまでも宙をさまようだろう……。

しかしながら、ああ! もう二度とふたたびおまえに会うことはできないだろう。それにしてもわずか二、三日まえのことではないか。私がおまえのためにいろいろと、この上もなく心やさしい計画を立ててやったりしたのは……。

私はただ、おまえのためにのみせっせとはたらいたのだ。研究している最中も、しょっちゅうおまえのことばかり考えていて、私はおまえにこういっていた――大きくなっておくれ! そうしたらおまえの魂に、私にとっていちばん値打ちのある知識をすこしずつ、苦しい思いもがまんしてそそぎこんでやるから……。


引用文献:前掲書2, p.52

手紙の前半では彼の慟哭の思いが言葉に滲み出ていますが、中盤から少しトーンが変わっていきます。嘆きの海から一歩進んだ新しい境地のファーブルを知ることができます。もちろんいきなり元気一杯のモードに切り替わったわけではありません。悲しみと新しい境地を行ったり来たりしながら、彼は踏み出して行ったのでした。そしてそのきっかけとなったのは、彼のまぶたに焼き付いた息子の最期の眼差しでした。

だが私は反省によって、さらに高い思想に達していく。わたしは胸に涙をぐっとのみこむ。そして神様がお慈悲をもっておまえにうき世のつらさや、いろいろな悲しい思いを味わわずにすむようにしてくださったのだ……

私はお父さんやお母さんがおまえのそばにいないのがかわいそうで泣けてしまう。そしてそのゆえにこそ、私はおまえのところへ行ってやりたいとあこがれもするのだ。

けれどもおまえはきっと天国でしあわせだと思えば、お父さんは無上にうれしいのだよ……。おまえは幸福なのだ……。それはあまりの悲しみに心をみだされた父親のくるおしい希望なのではない。いいえ、おまえの最後の顔つきが、あのまなざしが、うたがう余地もないほどはっきりと、おまえが幸福なのだと語ってくれたからだ。

ああ! おまえの死のまえの刹那の青白い顔の、なんと美しかったことか! 
ああ! 唇をついて出る息もいまや絶えようとし、目はひたむきに空に向け、そして神様の御手にゆだねられようとする霊魂のなんと美しかったことか!

(1848年8月15日、カルパントラスにて弟へ)

引用文献:前掲書2, pp.52-53

研究者としてのファーブルの姿勢は生涯を通して、地道にこつこつ観察し、事実を積み上げて真理を導き出すものでした。そのようなファーブルにとって死後の世界について信仰以上の確信を得られるとしたら、それはやはり何らかの証拠を手にすることだったのではないでしょうか。その証拠がまさに、死に逝く間際の長男の表情だったのだと思います。これから息子が生きる死後の世界、そこで幸せに充ちて過ごしていけるのだと確信することは、父ファーブルのその後の人生に一筋の希望をもたらすことにもなったのでした。きっとファーブルは胸の中でつぶやいたことでしょう。神のもとでこれから過ごす息子へ、これからもジャンのためにお父さんは研究を頑張るからね、しっかり働くからねと。教え伝えたかった様々な知識をいつか天国で再会した時までに大事にとっておくからねと。

 
<長原 注>
※1 津田正夫著, 奥本大三郎監修(2007)『ファーブル巡礼』新潮社, pp.280-281

※2

ファーブルが病気の我が子のためにラスパイユの著書を頼りにしたことを綴った手紙は 『ファーブルの生涯』(G.V.ルグロ著,平野威馬雄訳(1988)筑摩書房)の中で「彼の最初の赤ん坊」に関するエピソードとして267ページに登場します。第一子の話であれば、ラスパイユの方法で看病されたのは長女になりますが、手紙の日付は長女亡き後、長男が亡くなる前の1848年9月3日です。また同書50ページでは1844年10月3日の結婚後に「まもなく坊やが生まれた」と記されていることから、ルグロの著書内ではやはり長男が第一子とみなされ、文章が記されたのでしょう。したがって、ラスパイユの著書を頼りにした看病は長男に行われたものと見ることが自然だと思います。

※3

長男を亡くした悲しみを綴った手紙の日付は「1948年8月15日」になっています。しかしながら同年9月3日の手紙ではまだ息子は存命中で、回復への望みを持っている父ファーブルの気持ちが綴られており、長男の死も9月6日と伝わることから、8月15日の手紙の日付に疑問が生じます。しかし日にちの真偽はさておき、この手紙は亡くなった我が子に対するファーブルの思いが、非常に溢れている手紙である事実は変わり無いと思うので、こちらへそのまま掲載しました。

 

<参考文献>

イヴ・ドゥランジュ著, ベカエール直美訳(1992)『ファーブル伝』平凡社
G.V.ルグロ著,平野威馬雄訳(1988)『ファーブルの生涯』筑摩書房
今田敏(1956)『ファーブル 上』日本書房
奥本大三郎(1999)『博物学の巨人アンリ・ファーブル』集英社
奥本大三郎(2014)『ファーブル昆虫記 いのちって、すごい!』NHK出版
奥本大三郎(1999)『博物学の巨人アンリ・ファーブル』集英社
露木陽子(1951)『 偉人物語文庫:48 ファーブル : 大昆虫学者』偕成社
平野威馬雄(1965)『世界伝記全集15 ファーブル』ポプラ社
 

我が子は死後も幸せに過ごしている、そのメッセージを親が読み取り、確信することは、親だけでなく子の心にも安らぎをの光をもたらしてくれると思います。

2019/2/6  長原恵子