病児・家族支援研究室 Lana-Peace(ラナ・ピース)
Lana-Peace 「大切なお子さんを亡くされたご家族のページ」
大切なお子さんに先立たれたご家族のために…
 
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亡き子との対話と永遠の命

今日は19世紀のドイツの詩人 ヨーハン・ミヒャエル・フリードリヒ・リュッケルト(1788/5/16-1866/1/31)のお話を取り上げたいと思います。19世紀に活躍したドイツの詩人といえば、ゲーテの名前を挙げる人が多いとは思いますが、ゲーテはリュッケルトよりも40年ほどさかのぼった時代の人となります。

フリードリヒ・リュッケルトは生涯に十人もの子宝(七男、三女)に恵まれました。しかし四十代半ばの頃、大きな試練を迎えました。三年間毎年相次いで、幼いこどもが亡くなってしまったのです。

1832年1月6日、リュッケルト一家に、六男カール・ユリウスが誕生しました。その数か月前、1831年8月、父フリードリヒは父親を亡くされていたので、六男の誕生は、多くの喜びを添えることとなったでしょう。ちょうどその前月、リュッケルトは孔子によって編纂されたと伝わる『詩経』の訳を完結したばかりでした。大きな仕事を成し遂げた後の達成感も、喜びの輪を一層広げることになったことでしょう。しかし天の采配は、あまりにも無情でした。せっかく生まれたカール・ユリウスは、誕生の三日後、天に還ってしまったのです。

そして翌年1833年、年の瀬も迫った頃、猩紅熱がリュッケルト一家のこどもたちを襲いました。その猛威はすさまじいものでした。
12月22日の朝、夢を見た3歳の長女ルイーゼは、母ルイーゼ(母と長女は同名)にその内容を教えてくれました。夢には何十万もの天使と一台の黄金の馬車が登場し、ルイーゼの元にやってくるというのです。夢の中でルイーゼは、一本のロープを伝って、天使たちのいる場所へ上って行きました。クリスマスの時期ですから、母はこどもたちにクリスマスにプレゼントをくれる天使クリストキントの話をよくしていました。ルイーゼが天使の夢を見たのは、きっとその影響だろうと、母は思いました。まさかこれから長女の身の上に大変なことが起こるなんて、誰が予想したでしょう。その頃、部屋の中で楽しく遊ぶ元気がありましたから。新しいゆりかごに人形を寝かせ、ゆりかごをゆすり、まるで自分が母であるかのように寝かしつけるルイーゼ。彼女は母に促されると、人形の寝具をちゃんと整えてあげるような、しっかりものでした。

代母(こどもの洗礼式に立ち会い、神との契約の証人を務めた女性)がルイーゼに、クリスマスプレゼントを持ってきてくれました。しかし代母は少し心配でした。ルイーゼの体調が、どこか良くないように感じられたからです。リュッケルト夫妻は、娘が特に重病とは思いませんでした。その頃、猩紅熱で前の週から寝ていた三男アウグストが、ようやく回復の兆しをみせましたが、家の中で楽しく人形とお母さんごっこができるくらいなら、長女は大丈夫だろうと判断していたのかもしれません。しかし、代母の言葉は何となく気になったのでしょう。ルイーゼを家の中で過ごさせるようにはしました。

その翌日の朝、ルイーゼの兄で四歳の五男エルンストが、母の元にルイーゼを抱きかかえて連れてきました。兄はこどもなりにも、何やら妹が調子悪いと気付いたのでそしょう。エルンストは母に「今日のルイーゼは怒りっぽい」と言いました。息が荒く、汗をかき、身体は発疹で赤くなっていたルイーゼを、母はベッドに寝かせました。そして食後、医者の往診を受けさせました。その日の夜、ルイーゼは熱でのどが乾き気味だったのか、ずっと水を欲しがっていました。そして、看病する父母を優しくなでたり、母が少しでも外に出ようとすると、母を呼んでいました。心細かったのかもしれません。母は熱のあるルイーゼのために、ビスケットを水に浸し、柔らかくして与えました。しかしルイーゼの食はなかなか進まず、半分食べただけで「もういらない」…母の耳にはそう言ったルイーゼの声が、いつまでも響いていました。それでも、せめて薬だけはちゃんと飲んでほしかったのでしょう。内服を嫌がるルイーゼの口を、母は力ずくで開け、薬を飲ませました。そして脱水にならないよう、夜も少しずつ、水を与え続けました。さらにルイーゼの胸の上に蛭(ヒル)を置き、当時行われていた瀉血療法も行われました。

ルイーゼの呼吸は悪くなる一方でした。そして12月30日、呼吸はますます弱くなり、まるで気管がふさがったようになりました。そんな娘の様子に父は、もう命が長くないと悟ったのでしょう。12月31日の午前0時、父はルイーゼに別れを告げました。そして娘の顔が死によって歪められることのないようにと、神に祈りました。苦悩の表情はルイーゼにわずかばかり残っていましたが、父の願いが聞き届けられたのでしょうか、口元はかわいらしいままでした。心身ともに疲労困憊した父は部屋を出ていきました。

母は、最後まで娘が回復する希望を手放してはいませんでした。午前2時、母の口から、口移しで娘に薬を飲ませました。そして15分後、再び薬を飲ませました。しかし、それがルイーゼにとっては最後の薬となりました。午前2時半、ルイーゼは猩紅熱のために、息を引き取ったのです。

母はルイーゼに対する自分の関わりを振り返り、後悔と苦悩でいっぱいになりました。 次のような手記を残しています。

……3年半、私の愛する娘は、私の喜びの天使だった。
人生の天使と 私はお前を呼んだ。喜びだけで苦労はほとんどなかった。なのに、私はこの3年半に、あれや これやと苦情をいい、他の人を苦しめ、自分にたくさん悪いことがあると感じることができた。 私は愚か者だ。

もし私がお前たち愛する魂を再び持てるなら、私は自分をもっとも幸福な者だとみなし、すべての人に対し善良で忍耐強くありたい、お前たちを再び得るために、毎日を大きな苦悩を持って私の心の血のしずくをお前たちのために絞ってもらえと言うならば、喜んでそうさせるでしょう。


引用文献:
渡辺国彦「『子供の死の歌』に表れた1つの面」(2013)東京音楽大学 研究紀要, 37,p60

母は長女ルイーゼが一番好きだった白いドレスを着せ、額を冠で飾りました。こどもたちと植えたヒヤシンスが、赤い二輪の花を咲かせていたことから、ルイーゼの胸に飾りました。そしてルイーゼはたくさんの人々の献花により、埋め尽くされました。その姿はまるで「天使の花嫁」のようでした。そして1834年1月3日午前9時、ルイーゼの棺は運ばれていったのです。

猩紅熱は、リュッケルト家の四男レオも襲いました。レオは少しの間、耳が聞こえなくなりましたが、快方に向かっていきました。そして息つく暇もなく今度は五男エルンストの体調が悪化したのです。エルンストの全身は鮮やかな赤色に包まれ、ずっとうたた寝した状態でした。母はエルンストのそばのベッドで過ごしていましたが、時折、エルンストは激しくうなされて「お母さん、お母さん」と叫びました。そしてエルンストは自分の体調が悪いにもかかわらず、そばで泣く母に「そんなに心配しないで」と、もつれる口で声をかけました。そんな息子の優しさに、母は胸が締め付けられたことでしょう。

やがて長女ルイーゼが天使の夢を見たように、五男エルンストにも不思議な予兆が起こりました。
「なぜ鐘が鳴っているの?誰かが埋葬されているんだ。」
母にそう尋ねるエルンスト。でも鐘などちっとも、鳴っていなかったのです。

彼の迫り来る死の予感が、心をよぎった。すでに最愛の娘を差し
出したのだから、神がそのような過酷さを背負わさないだろうとわが身を慰めた。......カロリーネは、後で私に語った。頭に冷たい氷のうを載せたとき、彼は「僕をそんなに苦しめないで、僕は死ななければならないのだから」と彼が言ったと。

ある午後彼は私に頼んだ、「お母さん、僕と一緒に祈って」。
私は彼に向って祈りを唱えた。心の底から。ただ回復を祈って。彼はもつれる口でしかし正確に後をつけた。
……主よ、あなたの道は計りがたい。しかしあなたの意思なくてはわれらの頭から髪の毛も落ちないという信仰を、ますます深く私の心に刻んで下さい。


引用文献:前掲書, p.61

何とか持ちこたえていたエルンストでしたが、1月14日になると、もう話をすることができなくなっていました。ついこの前のクリスマス・イブには、母に「お母さん!」と元気に飛びついて抱きしめ、キスをしていたというのに…。病気のためにまったく変わってしまった声で、息子から「お母さん」と声をかけられる母。それでも母は、息子が回復する希望を持ち続けていました。そして1月16日の深夜、母ルイーゼは突然、自分を上に引っ張り上げるような何かを感じたのです。それは、エルンストとのお別れが近いことを、天使たちが知らせに来てくれたのかもしれません。ついに1月16日午前3時半、エルンストは息を引き取りました。

こうして半月の間に、二人のこどもに先立たれてしまったリュッケルト夫妻。父フリードリヒの悲しみのはけ口は、詩作に求められました。長女ルイーゼが亡くなった1833年の大晦日から、翌月五男エルンストが亡くなり、そしてその年の6月末までに、563もの詩『子供の死の歌』が綴られたのです。こどもを亡くし、心の中に様々な感情が溢れ出て渦巻く時、それを一つずつ言葉にして外に出していくことは、父の心には大きな意味があったのかもしれません。まるで心の中の洪水を、少しずつ掻き出すかのように…。あるいは、文字という手段によって、夭逝した子の生きた証を、残しておきたかったのかもしれません。更に、自分がその子の親だったという証しも…。

父フリードリヒ・リュッケルトの苦悩の軌跡として生まれた詩集『こどもの死の歌』ですが、母ルイーゼはそれを出版することに反対しました。こどもたちのことを、夫妻の胸だけにしまっておきたかったのかもしれません。うつろう心の有り様を、公にさらけ出してしまうことを怖く思ったのかもしれません。
また、詩人にとって詩集の出版は、すなわち印税収入を手にすることへとつながります。悲しみがやがて、お金に変わってしまう…それは、どんなに母ルイーゼが、詩人という夫の職業を理解し、尊重していたとしても、耐え難いことだったのかもしれませんね。それらの原稿は出版されることなく、ルイーゼに贈られました。

やがてルイーゼは1857年に他界し、その9年後の1866年、フリードリヒもこの世を去りました。そして6年の月日が流れ、詩集『こどもの死の歌』は1872年、出版されることになったのです。ルイーゼとエルンストの死から40年近い月日が流れていました。

更にそこから約30年後、新たな展開が生まれます。フリードリヒ・リュッケルトの『こどもの死の歌』が、オーストリア人作曲家のグスタフ・マーラーの目にとまったのです。たくさんの詩の中から選ばれたものに曲が添えられ、連作歌曲『亡き子をしのぶ歌』として、この世に出ることになりました。猩紅熱によって命をさらわれた幼い命。二人の生きた証は、活字となって、そして歌声によって世界各地に届けられるようになったのです。

フリードリヒの詩『今ようやく私はわかったのだろうか』の中には、次のフレーズが登場します。

歌の中にそれは記されるのだ
一番美しいものが生きていたということが、
私にとってどんな時もそれは歌の中に生きるのだ。

引用文献:前掲書, p.67

父にとって一番美しいもの、それはまさにこどもたち。ルイーゼとエルンストの命は、父の手によってこの世に再び、生を与えられたと言えるでしょう。その詩集が読み継がれる限り、そして連作歌曲が歌い継がれる限り、時を越えて、二人の人生が語られるのですから……。

フリードリヒの詩『私はお前を愛していた、私の小さな娘よ』の中では、こんなに早く逝ってしまうのなら、もっと優しい愛情を示せばよかったと後悔と自責の念に苛まれた、父の心が現れています。

(略)
お前はしかし、死に絡みつかれながら、
まだお前の父をうれしがらせた、
曇りゆく目で父をながめた、
死にゆく小さな手でなでた。
この手はなでながらなにを私に言ったのか、
もう話すことが お前にはできなくなっていたときに。
お前は、よきと思いながらもお前を苦しめる
この無分別を許したと言いたかったのか。

今、私はお前にすべての過酷な言葉を詫びる、
お前を脅かした言葉を。
お前はその言葉を あそこでは忘れてくれていてほしい、
あるいはその言葉の 本当の意味をわかっているのかもしれない。

引用文献:前掲書, pp.66-67

父フリードリヒの厳しさは、決してこどもへの冷めた愛情によるものでもなく、ましてや虐待でもありません。彼は弟一人、妹五人の長兄として育ちましたが、そのうち三人の妹はいずれも幼児期に亡くなりました。妹 アンナ・マルダレーナ(1793-95) 妹 エルネスティーネ・ヘレネ(1795-97) 妹 ズザンナ・バルバラ(1797-1801)の亡くなっていく姿は、少年フリードリヒの心に強く残っていったことでしょう。だからこそ、我が子が皆、健やかに育ち、大人になるのだと強く信じ、念じていたのかもしれません。そして成長した暁は立派に生きてほしいと願い、幼い頃から厳しく躾をするあまりに、時には厳しい言動をとることもあったのでしょう。

フリードリヒのこの詩を読むと、彼は心の中で、ずっと亡くなった我が子と対話し続けていたことがわかります。こどもを亡くした悲しみ、寂しさだけでなく、悔恨、懺悔、そして伝わりきらなかったかもしれない愛情…そうした思いを言葉に乗せて書き綴ることは、彼にとって大きな意味があったことでしょう。だからこそ、こどもを亡くして半年あまりの時期に、五百以上もの詩が生み出されたのだろうと思います。

こどもが亡くなった後、気持ちを綴ることは亡き子の追悼や、自分の気持ちの整理の意味を持つだけではありません。母ルイーゼは次のように記しています。

私のために以下のことを書きたいのではない。
なぜなら私の心には消しがたい文字でつらい日々が刻まれているからだ……
そうではなくお前たち残った子供のために書く……
そこから、いかに忠実に母の心がお前たちから離れることはないのがお前たちはわかる。

なぜならふたりの先に行った者を悲しむように、(もしそのような状況だったら)お前たちのひとりひとりを悲しんだであろうから……

引用文献:前掲書, p.59

きょうだいに先立たれたこどもたちにとっても、そうした親の思いが伝わると良いですね。あまりにも悲嘆にくれる親の姿を見て、「○○ちゃんじゃなくて、自分が死んだ方が良かったんだ」などと誤った方向へ考えてしまうお子さんもいますから…

 
言葉にして思いを語ったり、気持ちの行方を書き表すことは、できなかったお子さんとの対話を続けるためのチャンスだと思うのです。
2017/1/17  長原恵子