病児・家族支援研究室 Lana-Peace(ラナ・ピース)
Lana-Peace 「大切なお子さんを亡くされたご家族のページ」
大切なお子さんに先立たれたご家族のために…
 
ご案内
Lana-Peaceとは?
プロフィール連絡先
ヒーリング・カウンセリングワーク
エッセイ集
サイト更新情報
日々徒然(ブログへ)
 
エッセイ集
悲しみで心の中が
ふさがった時
お子さんを亡くした
古今東西の人々
魂・霊と死後の生
〜様々な思想〜
アート・歴史から考える死生観とグリーフケア
 
人間の生きる力を
引き出す暮らし
自分で作ろう!
元気な生活
充電できる 癒しの
場所
お子さんを亡くした古今東西の人々
珈琲と娘

今日は『開国五十年史』の編纂に携わり、また日本とインドとの交流の懸け橋として設立された日印協会で理事をされ、晩年の樋口一葉との交流も伝えられる副島八十六(そえじま やそろく)氏の長女五十枝さんのお話をご紹介したいと思います。

数え年25歳であった五十枝さんは、大正14(1925)年4月下旬より体調を崩され、5月初旬より床に臥せるようになりました。発熱の様子から、チフスではないだろうかと心配した父八十六氏は、主治医に見てもらうことにしました。チフスではないとの診断を受けましたが、それでも不安に堪えなかった八十六氏は、別の医師に診察を依頼したところ、チフスが疑われたのです。五十枝さんは5月21日午後、ようやく病室の空いた大学病院へ入院することとなりました。

チフスとは感染症の一種であり、衛生環境が整備された現在の日本では、随分少ない病気となりました。国立感染症研究所 感染症情報センターの発表によると、平成22(2010)年の我が国での発症数は全国で32例(※1)ですから、病名を耳にしたことがないという方も多いでしょう。発熱、腸出血、腸穿孔などの症状を伴う病気です。五十枝さんの当時の頃を知るために、インターネットで公開されている岡山県の『大正十年膓チフス患者調査表』(※2)を見てみますと、腸チフスに罹患された方のうち約7割の方は、日々の生活で衛生を大変注意していた方、あるいはやや注意していたという方々で占められていますから、当時の上下水道の整備や衛生面では、いくら注意していても、防ぎきれるものではなかったことがわかります。
また五十枝さんと同じくらいの年齢の方、前述の記録によると、岡山県では21歳以上30歳以下の女性は罹患された方163名のうち、約3割の方が亡くなられたそうです。当時八十六氏がチフスではないかと心配し、セカンドオピニオンを求めて再診を受けさせたのは、そういった当時の厳しい背景があったからでしょう。

※1 http://idsc.nih.go.jp/disease/typhoid/typhoid2010.html
※2 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/910021 

入院した頃、五十枝さんの心臓は、もう大分弱っていらっしゃったようです。いろいろと力が尽くされた治療を受けましたが、入院からわずか3日後の5月24日朝、五十枝さんは永眠されました。
臨終が近い頃の心境を、父八十六氏は次のように記されています。

診察のある毎に私は必ず医局員の後に尾いて戸外に出で低声で見込を訊く。する必ず数時間後が峠だといふ話を聞く。
此の峠とは生死の境といふ意味で、或はそれから良い方に転回するのでは無いかと考へ、悲楽両観の分岐点とも思ひ取り、其処に一縷の望を繋けて万一の僥倖を祈つた。
之も凡俗の悲しさである。
斯う迄気をあせる此の一昼夜の間といふものは、全く自分自身が一寸試しにさいなまれつゝある様に感ぜられた。

引用文献:
副島八十六「長女五十枝の死に直面して」,
村田勤・鈴木龍司編(1937)『子を喪へる親の心』岩波書店, p.60
(※WEBの表示上、旧漢字は当方が改めています)

「峠」と表された言葉は、医師の立場からは、ある意味ご両親に覚悟の準備を促す言葉ではありますが、「良い方に転回する」境目だと考えて回復を祈った父八十六氏の気持ちは、病気のお子さんのご両親には大きくうなずける部分だろうと思います。

五十枝の死は私に精神上の一大革命を惹起した。(略)即ち幾多の逆境と戦ひ、あらゆる辛酸の試練を受けて来て居るので、最早や大抵の事には降参せぬ積りで居た。
所詮馬上禅で十分に鍛錬し上げた筈であつたが、今度といふ今度は、実に有体に白状する。 全く弱つた。(略)
此感じは到底口語るべからず、筆写すべからず。

之が為に今迄相当に築き上げた筈の私の人生感、宇宙観は其の根底から突き崩され、がらりと一変して仕舞つた。
即ち久しい以前の事乍ら私はキリスト教に入つた経験を持ち、続いて近年は仏教思想に傾き、漸次に仏典に親む様になり、宗教には全然門外漢では無いのだが、然し此の宗教思想が今度の一撃を喫して著しく変化した。此間までは、仏典や聖書を読んでも、其読み方が兎角客観的であつたものが、今は全く主観的と変り、以前に味ひ知らぬ微妙な感じを味得するに至った。

引用文献: 前掲書, p.63

エッセイ「父母を教えた智識の孝子」で取り上げた、高楠順次郎先生の場合、ご夫妻で浄土真宗の教えに信心を持たれていました。そして「阿弥陀様の御力によって信心を持つ者は皆浄土へ救われる」という真宗の考え方が、いつもより、一層ありがたいように感じられ、そうした教えを知っていることにより、自分たちは心の慰めや安らぎを得られるという気持ちが記されていました。
八十六氏の場合、五十枝さんが亡くなる以前、読まれていた仏教の教えは「兎角客観的であつた」とあるように、自らの信仰として読まれていたというよりは、八十六氏の教養、心の滋養を得る手段の一つとして読まれていたのだと思います。五十枝さん亡き後は、自分の心が強く求めていたような教えの形へと、解釈を進めることができたのでしょう。
でも、必ずしも宗教がすべての救いになるわけではありませんでした。

今にして思へば、斯う迄父子の間に宿世の縁薄く、早く此世を去ると知つたならば、今少し優しくもしてやつたものをと、又返らぬ繰言に悲みを新にする。能く世間の人は日を経る儘に悲みは薄らぐなどいふが、それは信ぜられぬ。
少なくとも私の此度の経験に於ては、此の悲みが却つて日一日に深くなり行くばかりである。
比先書物を読むにも、旅行をするにも種々の機会は種々の追憶を喚起して、一層濃厚にのみなりまさる事を怖れて居る。(略)

此頃の私は、毎朝五十枝の好きであつた珈琲を其の霊前に分けて供へる事、隔日に墓参する事、それから生前私の為に筆記の労を執つてくれた礼心に、今度は朝夕の小閑を偸んで、宛も篤信の人が写経する心地で、五十枝の遺稿を書写する事が殆ど日課となつた。

引用文献: 前掲書, pp.67-68

人それぞれ、悲しみや寂しさをどうやりすごしていくのか、その方法は異なりますが、自分にとっての心の落ち着く方法を見つけ出し、それを続けていくことにより、自分の心が支えられていくのだろうと思います。
お金、時間、特別な機会がなければ達成できないようなことではなく、生活の中で少しずつ、続けることのできる何かは、大切です。
日々の暮らしの中で、お子さんに向けた自分の気持ちを、形に表すということは、自分の心を解放するきっかけを常に得ていることだと言えるのですから…。

 
あなたも何か心安らぐ時間が得られる方法が見つかり、お子さんを思い出す時間が、苦痛の喚起にならないように…と思います。   
2014/3/22  長原恵子