病児・家族支援研究室 Lana-Peace(ラナ・ピース)
Lana-Peace 「大切なお子さんを亡くされたご家族のページ」
大切なお子さんに先立たれたご家族のために…
 
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日本の古代の事柄を知る上で、その当時書かれた書物をあたることはとても役に立ちます。読書を通して現代と当時の時空を瞬時に往来できることは楽しくて、非常に有意義な知見を与えてくれるものの、漢文で書かれた書物を読むことはなかなか骨が折れます。30代後半から4年在籍した京都造形芸術大学の通信制歴史遺産コースでは、古文書の授業や卒業論文を通して随分鍛えられましたが、時代背景や様々な知識を動員したうえで読み進めないと、文意を十分理解するにはまだまだ程遠い道のりだなあと思います。そうした私にとって刊行されている現代語訳は、とても力強い助けになります。

先月掲載した大伴家持と大伴坂上大嬢に関するエッセイ(※1)を執筆時、当時の人物の官職任命等を知る上で参照したのが『続日本紀(しょくにほんぎ)』だったのですが、原文を読みつつ大いに助けられたのが講談社から出ている宇治谷 孟(うじたに つとむ)先生の『続日本紀 全現代語訳』(※2, 3, 4)でした。宇治谷先生は『続日本紀』及び『日本書紀』の現代語訳に取り組まれた国文学者です。現代ではなかなか耳にしない事柄を実によく練られた言葉で表わされることにより、内容がすっと頭の中に入ってきますし、適切な助詞や接続詞等が採られているため、文の前後関係の意味合いがわかりやすくなっているのが理由だと思います。古代の律令国家は21世紀の日本社会に引けをとらない、あるいはそれ以上に立派なところがあったのだ、と感嘆することしきりでした。宇治谷先生の現代語訳と原文と見比べてみると、訳すことの奥深さをとても感じますが、古代の息吹を現代社会に活き活きと蘇らせた類まれなる才能だけでなく、膨大な作業を地道にこつこつと積み上げてきたその努力に対し、尊敬の念を抱かずにはいられません。

ある日『続日本紀 全現代語訳』下巻の巻末ページをめくっていた時のこと、そこに記された「あとがき」があまりに衝撃的で、思わず手が止まってしまいました。息を吞む、という表現がありますが、まさにそういう感じでした。あとがきの冒頭は宇治谷先生の訃報から始まり、1995年8月31日、奥様の宇治谷 輝千代氏によりに記されたものだったのでした。

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宇治谷先生は勤務先から帰宅される途中に交通事故に遭い、1992年11月5日、脳挫傷のため亡くなったことが記されていました。几帳面で用心深かった宇治谷先生は横断歩道の端で待ち、ツーリングをしていたバイク集団の先頭バイクが停止したのを見届けてから、二、三歩進んだ時、猛進してきた次の集団の大型バイクに撥ねられてしまったのです。

これも運命と諦めますものの、撥ね上げられるその瞬間、夫の脳裡を何がよぎったであろうか、ひょっとすると執筆中の原稿のことでなかったかと、夫の無念を推し量り、今も考え込んでしまいます。
この年のカレンダーの十一月十日の欄には、「続紀中巻刊行」と書き込まれていました。夫はその『続日本紀』中巻の出来上がりも見ずにあの世へ旅立ったのです。

引用文献 A:
宇治谷孟 訳(1995)『続日本紀 下 全現代語訳』講談社
宇治谷 輝千代「あとがき」, p.480

その年の6月10日、講談社学術文庫から『続日本紀 全現代語訳』の上巻を出された宇治谷先生は中巻発売予定が迫った同年11月、上巻・中巻が共に書店に肩を並べる日を心待ちにしていたことでしょう。本当に残念でなりません。

宇治谷先生は当時『続日本紀 現代語訳』の下巻準備に取り掛かっていたところでした。草稿はざら紙に書き、書斎には下巻用の表紙と綴じ紐も用意されていました。『続日本紀』は全40巻、文武天皇元(697)年8月から延暦10(791)年12月までの100年近くに渡る事柄が記録されたものです。このうち原文の30巻(称徳天皇・神護景雲3年7月)から40巻(桓武天皇・延暦10年12月)が宇治谷先生の現代語訳下巻に相当していました。『国史大系 第2巻 続日本紀』(※5)を元に原文を参照してみると、下巻相当箇所は280ページにも及び、上・中・下巻の中でも最も文量が多いところです。宇治谷先生により既に清書原稿はあったもののそれは一部のみであり、書斎に遺された大量の資料集、メモ類、訳文の草稿等をどう組み合わせ、どうまとめて清書していけば良いのか、本人しか分からないことも多数あったことでしょう。未完の原稿をどうするか、輝千代夫人は講談社学術文庫の編集長と話し合い、下巻を世に出すことが決まりました。そこで宇治谷先生の遺されたものを元に夫人が清書し、その原稿を日本史専攻で古代史にも関心があった宇治谷先生の兄の宇治谷義雄氏(社会福祉領域の教育者)が目を通す二人三脚の形をとられることになりました。

輝千代夫人はまず『続日本紀』の原文を読むことから始めました。それは実に骨の折れる大変な作業でした。当時の様子を次のように振り返られています。

夫の下書きには、まだ修正や脱落箇所があるやも知れず、そのまま写すのはどうかと思われましたので、原文を一字ずつ読んでいくことから始めました。漢字の羅列追っていくことは、国文学を専攻し、一応教壇に立った経験があるとはいえ私にとっては難解そのものでした。たった一行を読み取るのに、どれだけ多くの時間がかかったことでしょう。何度も挫折しそうになりました。そんな時、夫の「がんばれ」と促す声が聞こえてくるようで、また辞書を引き始めるのです。

引用文献:前掲書A, p.481

輝千代夫人が夫の草稿を元に原文と辞書と格闘していくことは、夫の生前の歩みを追随することにも通じます。亡くなった後も、互いに心が通い合う機会が奪われることはないのだと改めて思います。亡き夫からの励ましは夫人にとってどんなに心強かったでしょう。先立った家族の思いが現世の人々にも通じる例として思い出すのが土井晩翠氏の例(※6)です。土井氏はホメーロスによる古代ギリシヤの長編抒情詩『イーリアス』の日本語訳に取り組んだ時、病気で先立たった長女照子さん(享年27歳)、長男英一さん(享年23歳)が夢の中に表われ、自分たちの分までしっかりやってほしいと応援され、頑張ることができました。

輝千代夫人がかつて教職経験者で専門知識に長けていた方だったとしても、突然夫がこの世から消え去った後に引き受けたその仕事は、随分心の負担が大きかっただろうと思います。死別後しばらくの間は思考がうまくまとまらず、理解が進まず、時には感情が激しく揺さぶられ、長く集中して机に向かうこと自体が難儀なことだったと思います。自分にやり遂げられるのだろうかと気弱になる時もあったことでしょう。夫の代わりに成果を世間に発表する大きなプレッシャーは、他者が計り知れないものと思います。輝千代夫人がそれらを乗り越え、自分を奮い立たせられたのは、現代語訳に対する夫のひたむきな姿勢を誰よりも近くでずっと見てきたからでしょう。夫の使命とも言えるこの仕事を道半ばで閉ざすわけにはいかない……そう覚悟したのかもしれません。愛の形の一つとも言えます。宇治谷先生が現代語訳に取り組まれた原点となるエピソードは、夫人によるあとがきの中でも紹介されていましたが、宇治谷先生の気持ちを含めもっと深く知ることはできないものかと探してみたところ、1986年、宇治谷先生が初めて創芸出版から『日本書紀』の現代語版を出された時のあとがきの中に見つけることができましたので、ご紹介したいと思います。

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宇治谷先生は法政大学国漢科を1941年に卒業後、早稲田大学文学部に進学されました。時はまさに第二次世界大戦の真っ只中、いくら勉学に集中したくても、それが許されるような時代ではありませんでした。兵力補強として学徒出陣が行われ、当時の孟青年も1943年、早稲田を繰り上げ卒業することになったのです。早稲田大学国文科の窪田空穂(くぼた うつぼ)教授の記紀歌謡の最後の授業に出席された時、窪田教授は学生たちに『日本書紀』『続日本紀』への思いを語りかけました。正しい日本の歴史理解のため、これらを易しい現代文に訳したいけれども、自分は時間がなくて手をつけることができない、そこで誰か学生の中からやってくれる人が現れたら嬉しいのだと。窪田教授と目が合った孟青年は、そのメッセージが自分に向けられたものではないかと気になっていましたが、やがて徴兵され初年兵として教育を受けるようになり、アカデミックな文学の世界からかけ離れた日々に身を置くことになったのでした。

孟青年が初年兵一期の教育をようやく終えた頃、海上輸送中の撃沈を想定し、毎日完全武装してプールに組まれた櫓(やぐら)の頂上から水中に飛び込む訓練が行われていました。そしてついに隊長から頭髪の一部と爪を包んだ遺書を用意するよう指示されたのです。南方孤島へと向かう命令が下ったのでした。孟青年は兵営の売店の二階で遺書の文面を考えながら窓の外に視線を向けました。すると兵営内の広場の一隅に、咲きかけた桜のつぼみを見つけたのです。もう桜もこれで見納めかと観念し、瞑想を始めました。

営庭に整列した塀を前に、隊長は言った。「お前たちの命はこのワシが貰った。日頃訓練の成果を、お役に立てる時は来たのだ」と。(略)そのうち、無性に己が哀れになり、腹部で腸がねじちぎれるような、激しい波動が繰り返し起こった。断腸ということばを思った。

さねさし相模の小野の 
燃ゆる火の火中に立ちて
問いし君はも

ふとこの歌が浮かび上ってきた。

引用文献 B:
宇治谷 孟(1986)『日本書紀 全訳‐現代文 下巻』創芸出版, あとがき「わが遍歴」, pp.340-341

「さねさし相模の……」は倭建命(やまとたけるのみこと)が荒れ狂う走水(はしりみず)の海を渡る時、海神の怒りを鎮めるために妃の弟橘比売(おとたちばなひめ)が自分の身を捧げようと申し出て、入水する時に詠んだ辞世の句として『古事記』に登場する歌です。
「私はまさにこれから海の中へ飛び込んで命を終えようとするけれども、今心に浮かぶことがある、それはかつて相模で火攻めに遭った時、あなたが燃え盛る炎の中に立ち、私の安否を気遣ってくれたこと。私はあなたの愛を決して忘れない。」そういう気持ちが込められた歌ですね。愛のために入水する者もいれば、敵国の攻撃により海の藻屑として消え行く己もいる。理不尽な事実を承知の上で派兵されることへの悔しさや憤りを胸に、自分はどう言葉を書き残せば良いのか、そういう気持ちだったのではないでしょうか。

この歌は窪田教授の講義でも取り上げられた歌の一つでした。窪田教授は斬新な解釈を示され、そもそもこの歌は焼畑農業の面影をひく農民の労働歌から生まれたものであり、宮廷に繋がる物語作者が関係ない倭建命や弟橘比売をうまく盛り込んだものにすぎない、と主張されていたのです。戦時下の社会では記紀を神典とし、批判が一切許されなかった時勢であったということですから、大胆な発言を放つ窪田教授の講義は孟青年の心の中に一石を投じることになったはずです。いざ遺書を書こうとした時、ふと浮かんだこの歌は「まさに命が絶える瞬間、人が何を思うのか」というテーマが通じる、といえばそうかもしれませんが、孟青年が究極の場面で「自分の人生でやりたかったことは何か」を炙り出すために必要な象徴的な歌だったのかもしれません。

こうしたものを解きほぐして、一つ一つ分類し、系統づけた説明のできるようにすることは、至難のわざとは言え、是非試みなければならぬことであり、自分がやり遺す仕事としたいと思っていた。遥か後になって気づいたことであったが、私が当時の兵隊として、とても許されないような批判言動をやった源流の一つは、遡れば先生につながるものがあったようである。

引用文献:前掲書B, pp.342-343

その後、孟青年の人生は思わぬ方向へと舵が切られました。出陣前の最後の身体検査で重度の衝心性脚気(しょうしんせいかっけ)と診断され、出動編成から外されたのです。聞き慣れない病名ですが、ビタミンB1欠乏による心不全であり、当時の偏った食糧事情に基づくものと考えられます。孟青年は班長から部屋に呼ばれました。

これには班長の温情があったことも確かである。部屋に私を呼んだ時「全く犬死に行くようなもので残念だ。君は信念に従って、死に甲斐のある場所を見つけて働いて貰いたい」と言われ、胸がつまった。

引用文献:前掲書B, p.343

南方への編成部隊から外された孟青年は在中国派遣教官として任務にあたり、終戦の翌年引き揚げてきました。そして日本の戦後復興でようやく食糧難も落ち着いてきた頃、歴史上の事実に対して人々が正しく捉え、考えるために尽力したいと考えるようになったのです。

敗戦を機に歴史観は一変した。渡来文化の正確な認識なくしては、日本歴史の成立は語り得ない。書紀の記載を仔細に点検すれば、我が国の文物制度の整備発展は、大部分が韓国文化の恩恵を蒙っていることは、何人も否定し得ない。にも拘らず、これらの国を属国視して、すべて朝貢国の如き記述をとっているのは、何に由来するものであろうか。われわれがこの際忘れてならぬのは、日本が宗家と考えた中国の、所謂中華思想というものである。(略)日本の為政者は、この中国方式をそのままお手本とし、外交とはかくあるべきものと弁(わきま)えたのでないかと思われる。

引用文献:前掲書B, p.344

歴史誤認が人々の中に巣食い、定着し、受け継がれることの危険性を宇治谷先生は憂いたということでしょうか。窪田教授の最後の授業のメッセージを折に触れ、思い起こしたとしても情熱だけでは物事をどうにかすることはできません。多忙な身でありながら時間をどう工面するのか、家庭に皺寄せが行くのではないか、それでも自分が取り組まなければ……そんな逡巡を何度も重ねたことでしょう。ある日、宇治谷先生は輝千代夫人を北海道旅行に誘いました。そして札幌へ向かう機内で自分の思いを打ち明けたのです。

――先生は僕に言われたのかもしれない――あの時以来このことが気になっていた。応召した時は、約束を果たせないまま死ぬのではないかと苦しんだ。幸いにも生き延び家庭を持つ身となったが、仕事が忙しくて取り組む時間がない。あのクラスの誰かが、もうすでにやっていないかと書店を探すのだが「日本書紀」訳は出ていない。自分が取りかかるためには強固な意志がいる。私は、それでクラーク博士の銅像に誓いに行くのだ」。夫の顔は真剣そのものでした。

引用文献:前掲書A, p.482

そして北海道の旅から戻った後、宇治谷先生は出勤以外ずっと書斎にこもり、『日本書紀』『続日本紀』の順で現代語訳に取り組むようになったのです。夫が身体を壊さず、現代語訳の作業に集中できるようにと輝千代夫人は宇治谷先生を陰日向になり支えてきたことでしょう。

日本書紀を”象牙の塔”から引き出し、大衆の所有とする働きがあってもいいのではないかというのが、永年に亘る筆者の思いであった。肩の凝らない、かといって通俗に走らない、そんな現代訳日本書紀を持ちたいという願いから、この試みとなった。

引用文献:前掲書B, p.332

実に素晴らしい偉業に取り組まれたわけですが、宇治谷先生はそれを鼻にかけるわけでもありません。あとがきに記された思いには宇治谷先生のお人柄が実によく現れています。

さて、私はいま、文献としての日本書紀を、なんとか理解し易いものにできたという段階に過ぎない。言ってみれば、足許の整理をお手伝いしただけである。しかし想念は自由気ままに進展していく。愚者の恐いもの知らずということもある。

引用文献:前掲書B, p.345

 
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宇治谷先生が逝去されてから2年、『続日本紀』の現代語訳を終えた輝千代夫人は、奈良に足を運びました。隣に立つ夫の姿は今はもうないけれども、夫婦で巡ったその地は確かにそこにあり続けていた。そして流れた2年の月日の中で、自分は夫から心の支えを得ながらついに大仕事を成し遂げることができた、その事実をしみじみ噛みしめていたことでしょう。

今回は、『続日本紀』下巻の時代に崩御された称徳・光仁両天皇の御陵を参拝し、最後に平城宮跡に佇みました。以前、夫とそこへ参りました時は特別に何の感慨も抱きませんでしたのに、この度は、『続日本紀』で読み取りました様々な事がまなかいに浮んで、懐かしささえ感じました。

「これが朱雀大路で、そちらが左京、こちらが右京、……」運転手さんの説明に頷きながら、官人の行き交う往時に思いを馳せておりました。そして何時しか私も古代史の世界に引き込まれ、夫と心を通わせている喜びに気付いた一日となりました。

 何度もくじけそうになる私の心を支えてくださったのは、編集部に寄せられる「下巻」を一日も早く読みたい、という読者の皆様のご声援と、夫の無言の励ましでした。このような形で刊行の運びとなりましたことを夫に報告できまして、なによりも幸せと思っております。

引用文献:前掲書A, pp.482-483

亡き夫の仕事を引き継いだおかげ実に思い出深い地が増え、古代史の世界を一層知ることができ、夫と心通わせられる喜びに気付いた輝千代夫人。机に向かった時間の積み重ねは夫人の心を醸成させ、新たな己の一面を築くことにも繋がったと言えます。

窪田先生の思いから始まった「正しい歴史理解のために、適切で易しい現代文訳を行う」その偉業はこうして宇治谷 孟先生、そして輝千代夫人によって実現されました。早稲田の学窓での窪田教授の最後の授業から、かれこれ50年以上の歳月が流れたことになります。戦争や死といった様々な苦境が立ちはだかっても、そこにある繋がる思いは何と力強いものだろうかと驚くばかりです。この世で得られる肉体の命には限りがありますが、亡き後に思いが受け継がれることは、新たな命の形と場を得たと言えるのではないでしょうか。それは医療では成し得ない領域の命だとしみじみ思います。

 
<引用/参考文献・資料, ウェブサイト>
※1 Lana-Peaceエッセイ「親と亡き子を繋ぐ「後瀬」への思い」
※2 宇治谷孟 訳(1992)『続日本紀 上 全現代語訳』講談社
※3 宇治谷孟 訳(1992)『続日本紀 中 全現代語訳』講談社
※4 宇治谷孟 訳(1995)『続日本紀 下 全現代語訳』講談社
※5 国立国会図書館デジタルコレクション『国史大系 第2巻 続日本紀』経済雑誌社 (1897)
※6 Lana-Peaceエッセイ「様々な距離を越えて、続く命ー土井晩翠 長女 照子さん・長男英一さんー」
   
参考文献
A 宇治谷孟 訳(1995)『続日本紀 下 全現代語訳』講談社
宇治谷輝千代「あとがき」, p.480-483
B 宇治谷 孟(1986)『日本書紀 全訳‐現代文 下巻』創芸出版, あとがき, pp. 331-350
 
お子さんが亡くなり、生きがいや目的を見失った時、お子さんのやり残したことを完成させることは、苦しい時間を過ごす時に力になってくれます。そのあなたの姿をきっとお子さんはそばで見守っているはずです。
 
2021/6/17  長原恵子