病児・家族支援研究室 Lana-Peace(ラナ・ピース)
Lana-Peace 「大切なお子さんを亡くされたご家族のページ」
大切なお子さんに先立たれたご家族のために…
 
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悲しみで心の中がふさがった時
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先立ったお子さんを思い出す時、悲しい気持ち、悔しい気持ち、いろいろな気持ちでいっぱいだと思います。でもそうした思いがあまりに強く、お子さんの人生における成長に思いを馳せる機会が少ない方がいらっしゃいます。お子さんの人生は決して「不憫」という言葉だけで表現されるような人生ではなかったことに目を向けてほしいと思います。

今日は、幼い頃から病気だったからこそ、誰よりも時間を大切に考え、その時間の中で精一杯自分の夢を追求した方をご紹介したいと思います。

棋士 村山聖(むらやま さとし, 1969-1998)氏はネフローゼ症候群と診断され、入退院を繰り返しながらも、猛烈に努力を積み重ね、17歳でプロ棋士となりました。
聖さんは昭和44(1969)年6月、広島県で生まれました。少し年の離れたお兄ちゃんの仲間に入って一緒に山登りに行ったり、池の鯉を捕まえるために1時間以上も池の中で鯉を探すような元気いっぱい、腕白なところもあれば、寝る前にお母さんが読み聞かせてくれた童話が悲しいと、泣き出してしまうような感受性豊かなところもありました。そして年下のこどもを皆が感心するほどいたわる優しいお子さんでもありました。

ネフローゼ症候群による入院生活の中で聖さんは、同室の仲間が亡くなっていくことも経験していました。その仲間の姿は、聖さんの心に大きな問いかけを遺していったのだろうと思います。

中学生の頃、髪やひげも伸び放題で、爪を切ることさえも嫌がっていた聖さんでしたが、将棋を指すうえでは爪は切った方が良いとアドバイスする師匠の森信雄氏に対して聖さんはこう答えました。

「どうして、せっかく生えてくるものを
切らなくてはいけないんですか。

髪も爪も伸びてくるのにはきっと意味があるんです。
それに生きているものを切るのはかわいそうです 」

引用文献:
大崎善生(2000)『聖の青春』講談社,p.87

伸びてくる爪や髪の1本が、まるで自分の仲間のように感じていたのかもしれません。ある時、淀川での溺死記事を新聞で見た時、ティーンエイジャーだった聖さんは、泳げなくても自分は助けに行く、と話しました。聖さんのお母様は、飛び込んでも助けられないなら、無意味だと行った時、聖さんはこう切り返したのです。

「なぜ? 
そんなことを言って、結局は弱い者や困っている人を
見殺しにするだけじゃないか。

何だかんだいっても遠巻きに見ているだけで、
大人は何もしない。

でも僕は違う、
僕はたとえ自分がどうなっても助けるために川に飛びこむよ」

引用文献:前掲書, p.125

またこんなエピソードも伝わっています。奨励会の3年先輩であった方を聖さんのアパートに招いた時のことです。2人でカップラーメンをすすった時、先輩はどうもお尻が痒いことに気付きました。部屋にダニがいるのではないかと疑った先輩は、聖さんに殺虫剤を使った方が良いと勧めましたが、聖さんは納得がいかなかったのです。

「だって、生きているものを殺すのは
かわいそうじゃないですか」


引用文献:前掲書, p.143

そのように生命を慈しむ気持ちは、自分の死をいつも隣り合わせに感じていたからでしょう。 平成4(1992)年10月、奨励会の仲間と飲みに行った聖さんは、その日、土気色の顔でこう言ったのです。

「僕はいつも苦しみながら将棋を指している。
自分のそんな気持ちは元気な人たちに
永遠にわからないでしょうね」


引用文献:前掲書, p.178

そして店を出た後、聖さんは一万円札を5、6枚取り出して「こんなもん、何の意味もない。何の意味もないんじゃ。」とびりびり破ってしまいました。自分の対局料からストリートチルドレンのために、こつこつ寄付をしていた聖さん。その聖さんがお札を破ってしまうとは、相当心が追い詰められていたのでしょう。ふらついた足元で「生きている人間にはいるけれど、死んでしまう人間にはこんなもの何の意味もない」と言う聖さん。友人は、苦しんでいるのは病身の聖さんだけではないのだと叱咤しましたが、聖さんはこう答えたのです。

「僕には時間がないんだ。勝ちたい。
そして早く名人になりたい」


引用文献:前掲書, p.181

幼い頃から、病気を患っていた聖さんにとって、時間の経過は何より切実に感じるものだったことでしょう。その3年前、聖さんは平成元(1989)年6月、20歳になった時、師匠の森氏にこんな風に言っていました。

「20歳になれて、嬉しいんです。
20歳になれるなんて思っていませんでしたから」

引用文献:前掲書, p.161

聖さんの心の中はいつも死と隣り合わせで、「時間がない」という思いは、ずっと巣食っていたのでしょう。

お札を破ってしまった時から遡ること8か月前、平成4年の2月、聖さんのアパートを訪れたお母様は、次のように書かれた聖さんのメモを見つけたそうです。

<何のために生きる。
今の俺は昨日の俺に勝てるか。
勝つも地獄負けるも地獄。
99の悲しみも1つの喜びで忘れられる。
人間の本質はそうなのか?
人間は悲しみ苦しむために生まれたのだろうか。
人間は必ず死ぬ。必ず。
何もかも一夜の夢>


引用文献:前掲書, p.173

聖さんがいつ書いたものかわからないそうですが、聖さんは人間は必ず死を迎える、ということ、その死をいつも念頭に置きながらも、1つの喜びを目指しながら将棋を指していたのでしょうね。

平成8(1996)年の冬、聖さんは血尿が出始めました。大きな病院を受診したそうですが、特に検査が施されず、精神性のものだろうと医師から言われました。しかし血尿が止まらないため、聖さん本人は、がんではないかと疑い始めました。そして平成9(1997)年春、別の病院で検査を受けた結果、聖さんは医師から、膀胱にポリープがあること、そして2つのうち1つの腎臓は既に機能していなくて、もう1つもかなり厳しい状況であると説明を受けました。そこで腎臓から直接尿を排出する手術を受けたのです。聖さんの血尿を精神的なものだと言った医者の名を尋ねられても、即座に「もう忘れました」と答えた聖さん。その後、病室に戻ってお母様に向けた言葉は、強さと悲しさの響きを伴った言葉でした。

「人間はいつかは死ぬ。僕は死ぬのは少しも恐くない」
と言った。

「ただ、つらいのは嘘をつかれることだ」と。

 引用文献:前掲書, p.270

その数日後、聖さんは膀胱がんと宣告されました。ポリープと言われた数日後に、がんと言われたこと。嘘をつかれるのは辛いと言っていた聖さんの胸中はどんなに苦しかったことでしょう。手術を勧められましたが、聖さんはなかなか首を縦にはふりませんでした。医師から手術による全快の可能性や将来の体外受精の可能性などについて、何度も説明が行われました。そこでようやく聖さんは決断し、同年6月16日に膀胱摘出手術を受けました。聖さんは頭と将棋に悪影響を及ぼすことはしないでほしいと、抗がん剤、放射線などを拒否しました。そして自分自身の力で闘うことを望み、点滴に頼らず自分で食べて栄養をつけたいと頑張りました。再発したらその時また、考えればいいと心に決めたのです。聖さんはそのような体調を押して、病院から大阪に向かい、手術の翌月、7月14日、丸山七段と、そして同月25日、田中九段との順位戦に対局しました。病身の聖さんが長時間将棋盤の前に座って、集中力を保ち、将棋を指していくことは、どれほど大変なことだったでしょう。でも聖さんにとって、将棋は幼い頃から心の支えであり、自分が自分らしくあるためのものだったのです。どんなに苦しくても、対局できることに喜びを感じていたことでしょう。そして同年8月上旬、広島の病院から退院した聖さんは、大阪の自分のアパートへと向かったのです。

聖さんは将棋に励む日々をおくりましたが、周りは聖さんの将棋の実力以外のことに注目するようになっていきました。それは聖さんの本意ではなく、葛藤を抱いていたようです。しょんぼり、こんな風に話して黙り込んでしまったそうです。

「あの。
最近僕の体のことや手術で膀胱をとったことまでマスコミに
書かれているんですが、そんなんでいいんでしょうか」
「困るの?」
「いやなんです」
「そりゃそうだろうね」
「膀胱をとったことを描かれるのもいやだし、
それでもがんばる と書かれるのが悔しいんです」

引用文献:前掲書, pp.284-285

病身の大変さと付き合いながらも、自分の打ち込めるものを見つけ、大阪で努力してきた聖さんでしたが、平成10(1998)年4月、聖さんは広島で生活をしたいとご両親に話しました。そして同時に、聖さんはがんの再発もお話されたのです。同月下旬には検査の結果、がんが予想以上の速さで広がっていることもわかりました。自宅で療養していた聖さんは悲鳴をあげるほどの高熱が出ても解熱剤を拒否し、自分の治る力を信じて安静にすごし、熱が下がったら古本屋めぐりをして過ごしたそうです。また聖さんは遺言を託す弁護士事務所を電話帳で調べ、そのページを破いて持ち歩いていたのだそうです。そして5月半ばにはお父様に、自分を密葬にしてほしいと頼んだのです。その2日後、聖さんは入院し、放射線治療が開始されましたが、ついに1998年8月8日、旅立っていかれました。

その年の将棋年鑑のアンケートに聖さんはこう答えたそうです。

<今年の目標は?
土に還(かえ)る

行ってみたい場所は?
宇宙以前>

引用文献:前掲書, p.311

まるで砂時計の砂が落ちる様子を、常に視野に入れていたかのように、自分の残された時間と、自分のやりたいこと、なすべきことを考えていた聖さん。努力し、信念を通した聖さんの人生。
それは一本立派な筋の通った、意義深い一生だったと思います。

 

お子さんが人生の中で大切にしたことに思いを馳せてみてください。お子さんは嬉しく思い、魂はあなたの心に遊びに来ているはず。 

2016/3/10  長原恵子