病児・家族支援研究室 Lana-Peace(ラナ・ピース)
Lana-Peace 「大切なお子さんを亡くされたご家族のページ」
大切なお子さんに先立たれたご家族のために…
 
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悲しみで心の中がふさがった時
大いなるものとのつながりと安らぎ

お子さんを亡くされた後、「周りの人はあんなに平凡で幸せな日々を送っているというのに、どうしてうちの家庭に限ってこんな悲しいことが起こってしまったのだろう」と深い孤独を感じる方がいらっしゃいます。
お子さんの友達の保護者の方から励ましの言葉をかけてもらったり、メールをもらうと、心強さを感じてありがたく思う反面「でもやっぱり、どうしてうちの子が…」という思いを掻き消せないという方。
そしてお子さんを通してつながっていたママ友達、パパ仲間の輪から自分がはじけ出てしまったような気持ちになってしまうという方。
決して周りの人から冷たくされたわけではないけれど、妙に心は冷え冷えとして、底の見えない孤独に落ちていくという方。
何か大きなところから突き放されてしまい、自分は一人ぼっち、そういった拠り所のなさが、心の不安を助長することがあります。

孤独はある意味、自分の心と向き合う大切な機会でもあります。
でもそれがあなたにとって苦痛しかもたらさないのであれば、その苦痛がどんどん増すのであれば、その孤独はあなたをネガティブな方向に進ませてしまうことになります。

いっときでも良いから、孤独から解放され、安らぎを感じられる瞬間がほしいという方へ。
人間の感情は自分が作り出すものでありますが、先日読んだ本の中にあるヒントになりそうなことが書かれてありました。

アメリカの神経解剖学者のジル・ボルト・テイラー先生は左脳出血に倒れられ、不思議な感覚を感じられるようになったそうなのです。それは、ご自身と周りのものとの境がなく、同じ流れの中にいて、まるでご自分の魂と宇宙が一つであるかのように感じられるという感覚です。
自分は決して孤独なのではなく、自分は世界の一部であり、世界の一部が自分であるという安心感は、テイラー先生に「深い内なる安らぎ」をもたらしたのだそうです。

いったいどういうことなのでしょう。

周囲と自分を隔てる境界を持つ固体のような存在としては、自己を認識できません。ようするに、もっとも基本的なレベルで、自分が流体のように感じるのです。
もちろん、わたしは流れている!
わたしたちのまわりの、わたしたちの近くの、わたしたちのなかの、そしてわたしたちのあいだの全てのものは、空間のなかで振動する原子と分子からできているわけですから。(略)
つまるところ、わたしたちの全ては、常に流動している存在なのです。

左脳は自分自身を、他から分離された固体として認知するように訓練されています。今ではその堅苦しい回路から解放され、わたしの右脳は永遠の流れへの結びつきを楽しんでいました。
もう孤独ではなく、淋しくもない。魂は宇宙と同じように大きく、そして無限の海のなかで歓喜に心を躍らせていました。(略)

わたしたちは確かに、静かに振動する何十兆個という粒子なのです。わたしたちは、全てのものが動き続けて存在する、流れの世界のなかの、流体でいっぱいになった嚢(ふくろ)として存在しています。異なる存在は、異なる密度の分子で構成されている。
しかし結局のところ、全ての粒は、優雅なダンスを踊る電子や陽子や中性子といったものからつくられている。

あなたとわたしの全ての微塵(イオタ)を含み、そして、あいだの空間にあるように見える粒は、原子的な物体とエネルギーでできている。
わたしの目はもはや、物を互いに離れた物としては認識できませんでした。それどころか、あらゆるエネルギーが一緒に混ざり合っているように見えたのです。視覚的な処理はもう、正常ではありませんでした(わたしはこの粒々になった光景が、まるで印象派の点描画のようだと感じました)。


引用文献:
ジル・ボルト・テイラー著, 竹内 薫訳(2009)『奇跡の脳』
新潮社, pp.72-73

美しい点描画で知られる19世紀の画家ジョルジュ・スーラ氏も、もしかしたら、テイラー先生と同じような感覚を持っていたのかもしれませんね。
さて、そうした不思議な感覚が、どのように起こったのでしょう。
決して、それは何か薬物を投与された結果ではありません。

神経解剖学的な見地からは、左脳の言語中枢および方向定位連合野が機能しなくなったとき、わたしは右脳の意識のなかにある、深い内なる安らぎを体験することができたのです。


引用文献:前掲書, p.165

身体の境界を認識する働きは、脳の「方向定位連合野」という場所で司られています。テイラー先生は脳出血によってそこが機能しなくなったわけですが、健康な方も健全な方法で、そうした状態に至ることができるそうです。それは病的に機能しなくなる、というわけではなく、一時的にその働きをある程度抑制する、という表現に近いと思いますが…。

アメリカのアンドリュー・ニューバーグ先生らの研究によると、左脳の言語中枢の活動が減少し、次第に左脳の頭のてっぺんの後ろ寄りにある方向定位連合野の活動も減少すると、大いなるものとの一体感を得られるのだとか。それらはニューバーグ先生の本(※)に詳しいので、後ほど取り上げようと思いますが、その部位の血流が低下することによってそうした感覚が得られるのだそうです。そしてそのような生理的な変化のきっかけは、何と祈りや瞑想によってもたらされるもの。
心を掻き乱す心配事をひとまずどこかにおいて、心の動きを一休みさせること、或いは心を預けて祈ることにより、左脳の言語中枢や方向定位連合野への血流低下が起こり、周りと一体化したような深い安心感が引き起こされるのでしょう。

※アンドリュー・ニューバーグ他著,茂木健一郎監訳, 木村俊雄訳(2003)『脳はいかにして<神>を見るか』PHP研究所

もちろん、車の運転中など、周囲の状況をしっかり把握すべき時にお勧めできる方法ではありません。しかしながら、自分がひどく孤独を感じる時、おうちのお部屋の中で静かに座ったり、横になっている時には、試してみる価値があると思います。
様々な心配事は心の隅に追いやって、ただひたすらこうあってほしいと願うことを心の真ん中で思い描き、祈るだけ。

祈りや瞑想をしたからといって何が変わるのか、という声もあるでしょう。確かにあなたが孤独を感じる根本の問題(お子さんの死という事実)を解決してくれるわけではありません。でも、純粋に何か一心不乱に祈る時には、他の感覚を感じるような心の余裕はでてきません。それだけに集中する時間を持つことができます。
そして、別の見方をすれば祈りの間だけは、孤独や怒りや憤りといった感情を心の真ん中に持ってくることができないのです。
そういう状態を心に覚えさせていくことは、必要なことでしょう。なぜなら休みなく働き続けた心は、本来の心地良さの状態を忘れてしまっているのですから…。

孤独の闇への落下は加速度を増して、あなたを追い詰めることになってしまいますが、祈りや瞑想の行為は、孤独の渦の深みにはまっていこうとするあなたの手をつかみ、あなたがそれ以上落ちていかないように引き留める時間を与えてくれることになるのだと思います。

それは、あなたの心に静かな滋養をもたらします。
もうさんざん傷つき、苦しみ、孤独だったのですから、あなたはそれを時間をかけて癒す必要があるのです。

いろいろな思いに惑わされる心はひとまず預けてください。
ただひたすら、あなたがお子さんに向ける祈りは、きっとお子さんに届きます。そしてあなたの心を大いなるものへとつなげます。それを人は神、仏、天使そんな風に表現するかもしれませんが、きっと人次第。
あなたをがんじがらめにしていた孤独から解き放たれ、何かに見守られているような、つながっているような感覚を得ることによって、段々と心のギアを切り替えるチャンスがやってきます。

 
あなたの心の安らぎが、これからの活力へつながりますように。
2014/8/25  長原恵子