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気管支喘息は医師から指示された吸入、内服等を確実に行い、発作を誘発するアレルゲンを避け、誘発しやすい環境に対策をとっていくことで、より良い時間を過ごすことができる病気です。つまり自分の力によって自分の人生をいかようにも作り上げていくことができ、夢を叶えていくことがきでると表現できるかもしれません。気管支喘息を抱えつつ、スピードスケート選手として世界のトップアスリートの中で競い合ってきた清水宏保氏の軌跡が清水さんの自著『ぜんそく力』の中に綴られていましたので、そのお話を取り上げたいと思います。

ぜんそく力
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清水宏保氏は1974年、北海道帯広市に生まれました。帯広は北海道の真ん中よりも少し南に下った辺り、西は日高山脈、北は石狩山地に囲まれた広大な十勝平野に位置します。帯広の冬は降雪量が少なく「十勝晴れ」「十勝ブルー」と呼ばれる晴天に恵まれますが、寒さがとても厳しいところです。そのため学校の校庭では雪を固めた上に水を撒き、凍らせて作った天然スケートリンク場が設けられ、スケート教育が盛んな地域でもあります。私は40数年前に北海道の滝川市で4年間小学生時代を過ごしたのですが、当時滝川でも校庭にスケートリンクが登場していました。寒さの中、氷上でくるっと1回転して見たり、普段地上ではできないバッククロスの動きをすると、ワクワクした気持ちになって薄暗くなるまで滑って遊んでいたことを思い出します。

清水さんはアトピー性皮膚炎があり、風邪をひくことも多かったそうですが、3歳の頃より咳がひどくなり、ある日大きな発作を起こしました。そこで初めて気管支喘息と診断されました。当時清水さんのご両親が選んだ治療法は民間療法と漢方薬であり、喘息克服のために体力増進にも目を向けられ、剣道、柔道、サッカー、水泳、スケート等、清水さんは様々な運動に取り組むようになりました。中でもスケートは幼い頃から頭角を現していたようで、まだ誰も滑り方を教えていない頃に一人でよちよちと滑り始めたそうです。清水さんのお父様は息子にスケートの才能を見出し、指導に情熱を注ぐようになりました。厳しい指導ではあったけれども、清水さんは滑る楽しさを覚えるようになりました。しかしながら吸い込む空気の温度や湿度は、喘息発作を誘発する一因にもなり得ます。清水さんはスケートの練習を終えて自宅に戻ると、喘息発作がよく起きました。発作後しばらく安静にしている間、清水さんは何だか自分一人が取り残されたような気持ちになり、とても辛かったのでした。

清水さんは普段病院の西洋医学を頼らず、発作が起きた時は病院で気管支拡張薬を投与、という形で過ごしていましたが、幼稚園、小学校時代は発作が頻繁に起こっていました。スケートの名門中学に入学後、スケート部に入部しましたが、中学時代は1年に1、2回位の発作頻度に落ち着くようになりました。清水さんは高校時代、インターハイのスピードスケート部門に3年間連続出場し、見事な成績を収めています。そして高校3年生の頃、ついにアルベールビルオリンピックの国内選考会に参加しました。しかし不運なことに風邪をひき、レース前日に喘息発作が起こってしまったのです。万全の状態でレースに臨むことができなかった清水さんは4位となり、オリンピック出場のチャンスは失われたのでした。

この悔しい経験が清水さんに大きな転機を与えてくれました。気管支喘息と自分がどう向き合って生きていくべきか、切実に考え始めたのです。そして大学入学後、監督から紹介された専門医を訪れ、新たな一歩を踏み出したのです。清水さんはそこで初めて喘息の成り立ちや発作の起こるしくみ、そして予防策として用いられる吸入ステロイド薬について知りました。更に大学3年の時には解剖実習の授業を受け、そこで見た献体の肺や気管支が病気の理解を更に進めてくれました。
清水さんは吸入ステロイドを使い始め、慢性的に存在する気管支の炎症が抑えられるようになっていきました。そして発作への不安もかなり解消されました。大学卒業後、実業団に入った清水さんが長野オリンピックに向け、猛烈に練習を積み重ねることができたのも、日常的に気管支喘息の手当がきちんとできるようになったことが大きいと思います。清水さんは最新の注意を払い、風邪をひかないように、喘息発作を起こさないように体調管理を続けていきました。

そして迎えた1998年の長野オリンピック、清水さんは男子500mスピードスケート1回目の滑走で1位、翌日2回目の滑走では前日より17秒も記録を縮め、オリンピック新記録を出して1位となり、最終結果として金メダルを獲得したのです。更にその5日後、男子1,000m決勝では銅メダルを獲得しました。

苦労がようやく報われたのですから、どんなに嬉しかったことでしょう。清水さん本人は感動したけれども「肉体や精神の限界をまだ突破していない」という気がして、達成感が得られなかったそうです。そこで他の選手が破れない前人未到の記録を出すことをテーマに努力を続けました。そして満を持して迎えた2002年のソルトレイクシティオリンピック、清水さんは男子500mスピードスケートで1回目、2回目共に2位となりました。どちらも前回の長野オリンピックの自己記録より1秒以上早い記録です。最終順位は2位で銀メダル獲得となりました。それはオリンピック記録を出した金メダルの米国の選手から0.03秒という僅差でした。気管支喘息を抱えながら壮絶なプレッシャーの下、強靭な身体能力と精神力を維持、いや、維持ではなくそれ以上のハイレベルさを追求していくことの困難は他人には決して容易に想像できるようなことではありません。他のライバル選手たちとの闘いだけでなく、自己との闘いを続け、その成果を発揮してきたことは実に大きな感動に値します。

清水さんは自身の気管支喘息をどう考えているのでしょう。

人から「もし生まれ変わったら、健康な肺がほしいか」と聞かれることがあります。しかし私の答えは「NO」です。たとえぜんそくの肺でも、鍛えれば健康な人以上の肺を手に入れられると考えているからです。もちろんそのためには過酷なトレーニングが求められますが、ひとつひとつクリアしていくことによって、レースに勝つために不可欠な強靭な精神力が養われます。それは、アスリートにとってかけがえのないものなのです。


引用文献:
清水宏保(2011)『ぜんそく力 ぜんそくに勝つ100の新常識』ぴあ, p.187

こどもの頃から度重なる喘息発作により、清水さんはこのまま死んでしまうのではないかと思ったこと何度もあったそうです。しかしそれゆえ自分の身体感覚が鋭くなったと捉えるようになりました。例えば筋肉の一本一本も知覚できるようになったそうです。また、初めはできなかったことがトレーニングによってできるようになると、自分の中で肺が育っていると考えました。気管支喘息ではない選手と戦う中で、心肺機能が低い自分は彼らより上回る練習をしなければ太刀打ちできないと考え、自ら過酷な練習を課しました。そうした練習は自分に精神的な強さを生乱してくれたと捉えるようになったのです。

症状をコントロールできれば、ぜんそくはハンデにはなりません。私は、ぜんそくという持病があったことで金メダルを手にすることができました。ぜんそくの患者さんにも、ぜんそくであることがよかったという生き方をしてほしいのです。

引用文献:前掲書, p.18

他人から見たらネガティブに思えることを逆手にして、そこから自分の限界を超えて、どんどん可能性を広げていく。途中で諦めず、投げ出さず、自分で道を開いてく。そういう清水さんの姿勢は病と共存しながら成長していくこどもたちにとって、力強いメッセージです。

 
写真:
写真1 清水宏保(2011)『ぜんそく力 ぜんそくに勝つ100の新常識』ぴあ
 
病気とうまく共存しながら生きて、全力を尽くして夢を追いかけることは人の思考さえも大きく変え、様々な苦労に向かい合っていける人間の大きさを作り出していくのだと思います。
2020/9/26  長原恵子