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歌手の西城秀樹さんは2003年6月に脳梗塞を発症した時、あきらめない」という言葉を胸に、辛く苦しい日々を乗り越えていったことをこちらでご紹介しました。その後、秀樹さんは懸命にリハビリに取り組んだ結果、歌手としてステージに戻り、コンサートも開催し、ドラマやミュージカルにも出演していました。またNHKの「趣味の園芸 やさいの時間」にも司会で登場するようになり、活動の幅を広げていました。テレビ画面に登場する野菜作りに挑戦する秀樹さんの姿は、ステージのスターとは違った人間味あふれる素朴な感じが伝わり、とても驚いたことを思い出します。

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秀樹さんは2011年12月、東京と大阪で開催されるクリスマスディナーショーに向けて、練習に励んでいました。一週間ほど風邪気味で、医院で処方された薬を内服していましたが、薬が切れてしまったことから、補充してもらおうと同月19日、自宅の近所の医院まで出かけました。その帰り道のことです。どうも足取りがおかしく、千鳥足になり、突然足に力が入らなくなったのです。自宅地下への階段を下りた時、秀樹さんは崩れ落ちてしまいました。足元がふらつきながらも自分で立ち上がることはでき、幸いにも大きなけがをしていなかったことから、秀樹さんは車まで歩き、そこからディナーショーのリハーサルに出かけました。その日は通しリハーサルを二回行う、要の日でもありました。秀樹さんは一回目のリハーサルを何とかやり終えたものの、ふらつきと眩暈を感じていたことから、急遽病院へ向かったのでした。

そこは八年前に脳梗塞の診断を受け、入院治療が行われた病院でした。当初風邪の影響で三半規管に問題が生じたのかもしれないと言われましたが、念のためMRIがとられました。しかしその時は悪いところは何も見つからなかったのです。それにもかかわらず、秀樹さんにふらつきがあるのはおかしいと医師から指摘され、半ば強制的に経過観察のために入院することになりました。その夜、秀樹さんはベッドから降りる時、図らずも崩れ落ちてしまい、立ち上がろうとた時、足に力が入らず、這うようにしてベッドへ戻りました。そして翌朝には、自分でベッドから起き上がることも難しくなっていたのでした。MRI検査が行われ、2、3mmの脳梗塞みつかりました。
最初の脳梗塞発症から、秀樹さんはずっと日常生活上、気を付けていました。それでも起こってしまった脳梗塞。主治医からは寒暖の差が引き金になったのだろうと説明されました。

二度目の脳梗塞の恐怖について、秀樹さんは次のように気持ちを綴られています。

一度目のときは、脳梗塞という病名さえよく知らず、この病気について何も知識がなかったために、恐怖心はあまり感じずにすんだ。
しかし、この病気の恐ろしき、やっかいさを知ってしまった二度目の発病時は、その何十倍ものショックに襲われた。一度目の発病でアッパーカットを見舞われた気になっていたが、あれは軽いジャブで、本当のアッパーカットは二度目に食らったことを思い知ったのだった。


引用文献:
西城秀樹(2012)『ありのままに 「三度目の人生」を生きる』廣済堂出版, p.25

再発の大きなショックと恐怖の中、秀樹さんの右側の手足の硬直は次第に進み、自由に動かせなくなりました、そうした変化を自分の言葉で伝えたくても、唇や舌がうまく動かず、説明しにくい状態になりました。どんなに怖かったことでしょう。秀樹さんは主治医から、一度目も二度目も言語を司る神経領域が侵されて、ろれつが回らなくなる構音障害が生じたものの、二度目の場合は脳梗塞の起きた部位が運動神経を司る神経領域に近く、身体の動きにも強く影響が現われたと説明を受けました。

秀樹さんは今回の再発は前回よりも一層症状が重いと自覚し、ますます追い詰められていったのです。

ぼくの頭に「植物人間」というフレーズが浮かんできた。もちろんそこまで重い状態ではなかったが、言葉は理解できても、体や言葉でうまく返答できずにいたぼくは、植物状態と呼ばれている人たちと同じ苦しさ、無念さを味わったと感じている。

引用文献:前掲書, p. 27

入院したばかりの頃は、心がすっかり後ろ向きになっていた。「一から再スタート」と思って入院したのに、実際は「マイナスからの再スタート」だったと思い知らされ、やる気が失せてしまったのだ。

引用文献:前掲書, p. 32

入院して治療を受ける日々の中、迎えた12月24日。その日は都内のホテルのクリスマスディナーショーで歌っているはずでした。その翌日は大阪のホテルでも、ディナーショーのスポットライトを浴びているはずでした。それなのに病室のベッドで迎えた24日。秀樹さんはどれだけ無念だったことでしょう。テレビをつけるとそこにはフィギアスケートの全日本選手権、女子ショートプログラムが放映されていました。それが秀樹さんに大きな転機をもたらしてくれたのです。

これが見たくてテレビをつけたわけではない。テレビでも見て気を紛らわせていないと、悔しさや怒りや悲しみが押し寄せて、胸がつぶれてしまいそうだったからだ。
テレビの画面では、浅田真央ちゃんが氷上で舞っていた。およそ二週間前の12月9日にお母さんを亡くしたばかりの真央ちゃんは、その数日後から練習を再開し、この大会に臨んだという。彼女は確かこのときまだ21歳だったのに、大きな悲しみを乗り越えてチャレンジしていた。

それを見た僕は、「何てすごい女性なんだ!」と感動し、大きな勇気をもらった。二度目の闘病生活の中で、真央ちゃんの頑張りを見たあの瞬間は、一つのターニングポイントになった気がする。


引用文献:前掲書, p.28

もどかしさと焦りに駆られて自分が苦しい時には、ちょっとその場から離れてみる、視線を他に向けて、他を知ることにより、何か道が見えてくることがあります。
自分とは異なる境遇であっても、それぞれの大変さを抱えながらも頑張っている人の存在を知ることが、閉塞感でいっぱいだった自分の気持ちに風穴を開けてくれたわけですね。

そんな風に秀樹さんは気持ちを立て直していきましたが、そこから待ち受けていたリハビリの道は手ごわく、決してポジティブな気持ちだけで過ごせるものではなかったのです。年が明けた2012年1月4日、秀樹さんはリハビリテーション専門病院へ移りました。それはショックの連続の始まりでもありました。どんなに有名なスター歌手だといっても、治療上、特別扱いされるわけではありません。秀樹さんは他の入院患者さんと共に、同じリハビリ室でリハビリメニューをこなしていくことになりました。その事実にショックを受けた秀樹さんでしたが、個室からリハビリ室へ移動する際、マスクで顔を隠すのはやめました。なぜなら、そうすることがかえって目立つと思ったからです。

これから数週間にわたってみんなと一緒にリハビリをするなら、逃げ隠れしたってしかたがない。そう覚悟はしたものの、リハビリルームに行くと、やはりつらさを感じた。好奇心いっぱいの視線が、そこかしこから僕のほうへ伸びてくる。それがぼくの体に突き刺さるように痛かった。
「あっ、西城秀樹だ。歌って」などというおばあちゃんもいた。やめてくれ、晒し者じゃないんだ、見ないでくれ!
激しい屈辱感を覚え、心の中で叫び続けていた。動かない手足は、緊張と拒絶感でますます固くなっていくようだった。

引用文献:前掲書, pp.29-30

リハビリ中、周りから注がれる視線だけでなく、リハビリ内容も秀樹さんにとってはショックでした。なぜなら、それは幼いこどもが遊ぶ仕草を取り入れたメニューだったからです。麻痺した右手や指先の運動機能を回復するためだと、秀樹さんはわかってはいても、屈辱的に感じられました。

「何だって? ボールを持ち上げる? お金をつかむ? おはじきをする? 冗談じゃない、何で俺がそんな幼稚園児みたいなことをしなくちゃいけないんだ! やってらんないよ、まったく! 」

もちろん、これも心の中の声だ。
ぼくにこんなことをやれと命令する療法士さんに対して、怒りに似た感情が込み上げてくる。

だがしかし、もっと腹が立つのは、言われたことがまったくできない自分に対してだった。

引用文献:前掲書, p.30

リハビリメニューの中には習字の練習もありました。習字と言っても、そこには様々な要素が含まれます。まずは筆を持つことから始まります。親指、人差し指、中指で筆の軸をしっかりと持ち、薬指、小指を軽く曲げて筆を支えること、これだけでも麻痺のある患者さんにとっては至難の業です。秀樹さんも筆を持てるようになるまでに、一週間かかりました。

そして筆先に墨汁をつけ、半紙の上で滑らせて文字を書くことも、容易なことではありません。筆圧の力加減も大変です。一つの文字の中でも次の一画へ進む時には、筆先を一旦半紙から浮かさなければいけません。文字の途中で墨がかすれてしまえば、筆先に墨汁をつけ直すことも必要です。墨汁のつけすぎを調節するには、腕の力も求められます。また墨汁のシミはかなり落ちにくいもの。しっかり筆を持って字を書かないと、墨であちこち汚れてしまいます。そう考えると、習字はリハビリを行う本人にとっては、実に難易度が高いものです。秀樹さんはまず大きな文字を書くことから始め、段々小さな文字を桝目に書いていく練習を行いました。

脳梗塞で麻痺した体の機能を回復させていくリハビリは、生やさしいものではない。まずは思うように動かなくなった自分の手足を呪ってイライラし、訓練のために幼稚園のお遊戯のような動作を命じる療法士さんを鬼のように感じ、あげくの果てに、そんな単純な動作さえできない自分に焦りや怒り、絶望感が一緒になったような感情を抱く。多分あのとき、ぼくは自分自身に嫌悪感を抱いていた。

引用文献:前掲書, pp.32-33

できない現実を目の当たりにしたことにより、秀樹さんの心はどんどん落ち込んでいきました。

幼稚園児がするようなことを命令されてもできない今のぼくは、幼稚園児以下ということか? このままでは家族にも周りの人にも迷惑をかけ続けてしまう。仕事だってもうできない。そんな状態でも生きている価値、があるんだろうか?

またしても絶望感に襲われ、生きているのがいやになってしまった。

特に夜がいけない。昼間は「一人にしてくれ」「ほっておいてくれ」と思い続けているのに、消灯時間が過ぎ、暗闇で一人横たわっているとマイナスのことしか考えられない。夜の闇が、果てしない底なし沼へ、ぼくを引きずっていくようだった。

「ぼくは家族にとっても病院にとってもお荷物でしかない。いっそ死んでしまいたい」

そう思ったことも一度や一度ではない。
こうした感情は脳梗寒を起こした人の大半が体験するうつ症状によるもので、いつかは必ず脱出できる。といってもこれは今だから言えることで、その最中は、永遠にプラス思考になどなれない、精神的にも肉体的にも二度と立ち直れない気がしていた。

引用文献:前掲書, p. 31

そのような葛藤を繰り返しながら、秀樹さんはリハビリを続けていきました。やがてその努力の成果として、少しずつ形を成すようになっていったのです。

子どもの頃、初めて鉛筆を握って字を書いたときのことはまったく覚えていない。
多分、たいした苦労もなくできたからだろう。だが、手や指先に神経を集中させ、同じことを幾度となくくり返してようやくできたことには、大きな感動を覚える。

引用文献:前掲書, p. 33

できたこと、それは秀樹さんにとって身体の機能回復を意味するだけではありませんでした。自分の心をリセットする良いきっかけになったのです。喜びを得た事により、心が一段上にステップアップできたという感じかもしれません。

ここまでくると、周囲の人の視線も気にならなくなる。というより、「晒し者になっている」という感覚から、ようやく解放された。と同時に、ぼくも周囲の人をそれとなく観察できるようになった。

若い20〜40代、ぼくと同じ50代、さらに上の60〜80代と思われる人まで、実にさまざまな人が、それぞれの症状を好転させようと闘っている。
ぼくが出会ったのは、たまたま同じ時期に同じ病院でリハビリをしていた人だけだが、きっと日本中には、病気や怪我でリハビリをしている老若男女が数えきれないほど大勢いるに違いない。そんなことを想像して、会ったこともない人たちに仲間意識を感じたりもした。

若くして体が不自由になった人を見ると、「もしかしたらぼくよりつらい思いをしているんじゃないかな」、同じ病気の高齢者を見れば「あの年齢で発症したなら、ぼくよりリハビリの進みが遅くて苦しいだろうな」と、ほかの人の気持ちを思いやることもできるようになってきた。怒りと絶望感だけに支配されていた時期を終え、一緒にリハビリ室に集う人たちを「同志」と感じられるようになったのだ。

引用文献:前掲書, pp.33-34

ステージパフォーマンスで魅了していた孤高のトップスターから、一人の人として患者さんたちの中に溶け込めるような気持ちになり、連帯感を感じられるようになったことは、秀樹さんに更なる変化をもたらしました。理学療法・作業療法士からの屈辱的のように思えたリハビリ指示にも、秀樹さんは素直に気持ち良く返事をし、集中してリハビリに取り組むようになったのです。そうするうちに、秀樹さん自身もリハビリの効果が高まってきたと実感するようになりました。

「病は気から」「気は心」などと言うが、自分の体をコントロールするには、「気持ち」「心持ち」が非常に重要であることを、ぼくはリハビリ病院に入院したことで教わった。
それに、「素直さ」が人間を前進させてくれることも――。

引用文献:前掲書, p. 35

秀樹さんは自身の体験から、リハビリシューズの企画にも取り組むようになりました。それはリハビリの世界全体が、少しでも明るくなればいいなあという思いからでした。脳梗塞再発がわかった当初、マイナスからの出発だ、と落ち込んでいた秀樹さんが、こんなにも大きな飛躍をされたのでした。

つらいことをただつらいとだけ受け止めるのではなく、見る角度を変えてそれを楽しめるようにしたほうがいい。
ぼくは最近、頭の切り替えが早くなって、どんな状況の中からでも楽しみを見つけられるようになってきた。

引用文献:前掲書, p.177

病気によってできないことが多くなってしまうと人は自信を失い、自分は何もかもできない、と無力感に苛まれてしまいます。でも、そうした時にこそ、たとえ小さなことであってもできた事実をしっかり認識し、それを素直に喜べる気持ちを持てることは本当に大切だと思います。 秀樹さんが「「気持ち」「心持ち」が非常に重要」と気付かれたように…。

 
参考文献:
西城秀樹(2004)『あきらめない ー脳梗塞からの挑戦ー』二見書房
西城秀樹(2012)『ありのままに 「三度目の人生」を生きる』廣済堂出版
 
喜びによって人は気持ちが段々動かされ、前向きな姿勢に切り替えることができるようになります。できなかったことを数えるよりも、できたことを数える方が、遥かに建設的な時間を導くことにつながります。そして、そのカギを握っているのは自分自身だと思うのです。
2018/8/31  長原恵子
 

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