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病気と一緒に生きていくこと
病気退学が始まりとなった天命への道とたゆまぬ努力

親元を離れて前途洋々、新しい道に進もうと希望と共に始まった新生活。それがある日突然病に倒れ、療養が必要となって長期病欠、実家に戻って過ごす日々…そして送られてきたのは学校からの退学勧告。もしもその事実があなたのお子さんの身の上に起こったら…?

でも、人はどんな時でも苦境をチャンスにする力があると、ある彫刻家の人生を知って強く感じました。彼の名は「北村西望(せいぼう)」。2017年12月の暮れも押し迫ったある日、訪れた山梨県の河口湖湖畔遊覧船乗り場の近くに西望氏の作品「源泉」がありました。それは彼がなんと101歳の時に取り組み始めた作品と知って驚き、一体どういう方なのだろうと彼の生い立ちについて調べ始めたことがきっかけです。

現地の像の解説板によると西望氏は101歳の時に河口湖を訪れ、神秘的な湖の姿と湖の四方を囲む景観とに心を打たれて、制作に取り組まれたとのこと。彼は昭和62(1987)年に102歳で逝去されたので、彫刻家人生の集大成と呼べる作品ですね。

中央の壺は河口湖になぞらえ、知恵、希望、生命、五穀豊穣の泉を併せ持った万物の生命を醸す根源を意味し、「正」と「反」を表す2体の女像に囲まれています。
それはまるで躍動する輪や、陰陽太極図のようにも見えます。

「源泉」
「源泉」

このようにダイナミックな作品を百寿を過ぎても制作しようとするその情熱、とても素晴らしいと思いました。そして彼の一生を調べてみると、それはそれは驚きの連続でした。

---*---*---*---

北村西望氏は明治17(1884)年、長崎県南高来郡に北村陳連氏の四男二女の六番目として誕生しました。父陳連氏は長く村長職についていましたが、篤い信心の浄土真宗本願寺派門徒であったことから、自分で村の家々を回ってお経を上げたり、法座を開くこともありました。西望氏の名前の由来も「夜遅く家路につく時、家の前で「無事にお送りいただきありがとうございました」と御仏に感謝してから家の内に入ったほどで、西望が生まれた時、仏教の「極楽浄土は西方に望む」からまよわず「にしも」と名付けた。」(※1)と伝わっています。西望氏は彫刻で身を立てるようになってから「せいぼう」と音読みされることが多いことから、活動名は「西望(せいぼう)」と名乗るようになったのだそうです。

父は自分で神輿や仏具や欄干の金具をいろいろ作り、彫金を施すほど手先が器用な方でした。それを伝える品として『北村西望百寿の譜』には陳連氏の手掛けた六方棺(葬儀に用いる座棺)が登場します。輿の上に載せられた棺の周りはたくさんの金細工で装飾されているのですが、その蓋屋根の上を飾る迦陵頻伽(かりょうびんが:極楽浄土に住むと説かれる想像上の鳥)は陳連氏70歳の作と紹介されていました。とても一般素人の作品とは思えない立派な彫刻です。
そうした素養を西望氏も引き継いだのでしょう。彼は幼い頃から絵が得意で、高等小学校の頃には切った木の枝に人の形や花を彫ったこともある少年でした。

明治33(1900)年、有馬尋常高等小学校を卒業した16歳の西望氏は、同年12月、小学校準教員免許状を得て南有馬尋常小学校で働くようになりました。臨時雇いの身分で3カ月の奉職後、翌年4月からは母校白木野尋常小学校で「代用及準訓導」として勤め始めました。やがて教師の仕事を続けていくならば正教員を目指したいと考えた西望氏は、明治35(1902)年3月、長崎師範学校に入学したのです。

親元を離れた全寮制の生活、それはまるで軍隊の兵営生活のようでした。そして入学後三カ月ほど経った頃、西望氏の身体に変調が現われたのです。身体に力が入らず、衰弱し、トイレに行って排尿しようと思っても、お小水が出ない。そして力んでみるとあずき色の血の塊が落ちてくる……驚いた西望氏は医師の診察を受けたところ「風土病」と言われ、市立病院に入院することになりました。そして次姉チホ氏の夫で医師の太田斉氏からも「今は勉強より自宅静養が必要」とアドバイスされ、西望氏は実家に戻ることにしたのです。
後になって西望氏はその風土病が「日本住血吸虫病」というものだと知りました。それは日本住血吸虫という寄生虫による病気です。日本住血吸虫の卵は水中で孵化し、水田の溝や浅い小川の泥底に生息する宮入貝に寄生します。そしてセルカリアへと成長した後、淡水を泳いで人間の皮膚を介して体内へと侵入するのです。セルカリアの体長は約0.3 mm(※W1)ですから、気付かぬうちに感染、ということも大いにあるでしょう。

療養生活は半年に及びました。魚を食べては駄目、運動も駄目、読書も駄目といった制限の多い生活で、片栗粉を溶いたお湯を毎日食べさせられる日々。そのうち長崎師範学校からは「仮入学を解く」と退学の通知が来ました。夢を持って入学したはずの師範学校を病気による長期欠席を理由に退学処分となり、どんなに悔しかったことでしょう。

これで、師範での勉強の道も閉ざされたかと、ひどく寂しい思いもした。でも何もしないでは人間過ごせるものではない。
やがて退屈のはてに、私は絵を描き始め、絵を描くのは日課のようになった。


引用文献:
北村西望(1983)『百歳のかたつむり』日本経済新聞社, p. 22

その年の秋、西望氏の体力も回復してきました。ちょうどその頃、父は母屋の隣りに隠居所を建て始めていました。そして欄間の仕事を宮大工に頼もうかとつぶやいていた父の言葉を耳にした西望氏は、ぜひ自分にそれをやらせてほしいと頼んだのです。息子は絵が得意だと知っていた父は、彼ならできるかもしれないと承諾し、イチョウの板と自分の小刀、ノミ、糸鋸をそれぞれ1丁彼に渡しました。構図から考えた西望氏は「葦に雁」「雲に龍」「城に雲」の図柄を彫り起こしていきました。朝昼夜、一心不乱に彫り続け、時にはランプの灯りの下で夜通し彫って朝を迎えることもありました。1カ月近く経った頃でしょうか、西望氏は4枚の作品を成し遂げたのです。
縦一尺二寸、横一間もので「葦に雁」「雲に龍」を1枚ずつ。
縦一尺二寸、横二間もので「城に雲」を2枚です。
後にその隠居所は人手に渡ってしまい、欄間の行方もわからなくなってしまいましたが、後年、西望氏は自分にとっての処女作を見つけ出したいと、広告まで出して探し求めたほどでした。

右写真はその時の作品「葦に雁」です。見事な美しい透かし彫りです。

北村西望 葦に雁

葦の葉に囲まれた2羽の雁。中央の雁は首を伸ばして少し上向きに真っすぐ先を見て、もう一方は振り返るかのように首を後ろに向かせてくちばしを羽の中に埋めるかのような仕草を見せています。一刀、一刀慎重に掘り進める西望氏の真剣な眼差しが、伝わってきそうです。 まだ専門的に彫刻を勉強する前の青年の作品だとは、なかなか信じ難いほどの出来栄えです。まさに天賦の才と言うべきですね。現在は東京の井の頭自然文化園 彫刻館にあります。
「雲に龍」は長崎の島原城の西望記念館にあるそうで、井の頭自然文化園の彫刻館内で視聴できる解説ビデオの中でも紹介されていました。まるで龍の息遣いまでが聞こえてきそうなほど活き活きとした彫りの龍です。
「城に雲」は生家から原城址が望めたことから、在りし日の天守閣の勇姿を偲んで二枚合せの作品を彫られたそうですが、残念ながら行方知れずのままです。

さて、この欄間を見た長姉キハ氏の夫、本多貫一氏が西望氏の素質を見抜き、彫刻の道に進むよう勧めました。そして彫刻に造詣が深く、再三仕事で京都へ行っていた北岡天満宮の藤田神主は、京都に彫刻を教える学校があると教えてくれました。師範学校の学業から遠ざかり、半年近く家でくすぶリ続けていた西望氏にとって、それはまるで大きな岩戸の向こうから差し込む細い光の筋のようだったことでしょう。やがて彼は京都への進学を志すようになりました。しかし如何せん、長く療養生活を送っていた病み上がりの身です。しかも彫刻で生計を立てていくことは決してたやすい道ではないと感じた父は、息子の夢にもろ手を挙げて賛成することができませんでした。母も最初のうちはなかなか賛成できなかったものの、息子の熱心な言葉を聞き続けるうちに、心が動くようになっていきました。

その年の暮れから西望氏は有馬尋常高等小学校の準訓導として、尋常科2年のクラスの担任することになりました。けれども彫刻への決意は揺るぐことはなく、年明けに京都市立美術工芸学校(現在の京都市立芸術大学)へ願書を送ったのです。すると学校からは彫刻科に1名欠員があるため、入学を許可すると連絡が来ました。師範学校を目指した時、彼にとって教職は心から望んだ道ではありませんでした。地主の息子で地元で生きていくには、当時役場で働くか、教師になるか…そうした選択の末の進学だったわけです。しかし今回は違います。自分の情熱が突き動かした進学です。ようやく自分の居場所を見つけた…そんな思いでいっぱいだったかもしれません。そしてついに明治36(1903)年、満18歳の春、彼は京都へと立ちました。なかなか首を縦に振らなかった父も、出発の前日ようやく京都行きを許してくれたのでした。
京都への旅立ちは今では考えられないほど大変なものでした。原城址に近い港から汽船に乗って島原へ向かい、そこから更に汽船に乗って有明海を渡って熊本県の長洲へ向かいます。長洲の沖合は数百メートルも遠浅であることから人力車に乗り換えて岸辺に着くと、今度は長洲から大阪行きの汽車に乗り、大阪では京都に向かう汽車に乗り換えます。初めての汽車の旅、きっと緊張と疲れもあったのでしょう。最後に逆方向に乗ってしまった西望氏が間違いに気付いてようやく京都へたどり着いたのは、もう午後11時を回っていました。その日の宿がなくて困った西望氏に交番の巡査は宿を紹介してくれましたが、部屋がないため宿の家のこどもの部屋に泊まらせてもらったエピソードも伝わっています。彫刻の大家 西望氏の若かりし頃の話は、どこかほのぼのとしたところがあります。

それからの日々、勉学に励んだ西望氏は明治40(1907)年、京都市立美術工芸学校を首席で卒業するのですが、卒業の1年前、西洋画に興味が広がった西望氏は東京美術学校(現在の東京芸術大学)で勉強したいと思うようになりました。父に相談しましたが、隠居の身分でもう費用援助ができないと進学を断念するよう断られました。母は息子の夢を何とか応援したかったのでしょう、西望氏に何かの足しにするようにと、自分が貯めた小遣いを差し出しました。実家の支援を期待できない西望氏は得意の西洋画で生計を立てながら勉強に励もうと考えて、東京美術学校の西洋画科に願書を出しました。デッサンの受験は自信があったものの不合格。そこで彫刻科に願書を出したところ、こちらは試験が無く、欠員があったことから入学許可となりました。
後日談として西洋画科を不合格になった理由として、デッサンの小林万吾教授から「デッサンが出来過ぎているものは進歩の見込みがないから、将来性のあるものをとった」(※2)と聞かされたそうです。西望氏の才能の豊かさはこのような一端にも現われていますね。

その後、西望氏は兵役に就く時代もありましたが、彫刻の道は兵役終了後から本格的に極めていくこととなりました。数々の作品を生み出されましたが、とりわけ有名なものが長崎の「平和祈念像」です。西望氏のお名前を耳にしたことがなくても、平和祈念像と言えば、右手で天を指し原爆の脅威を表し、左手を水平に伸ばし平和を表す平和公園のあの大きな大きな坐像を思い出すことができるでしょう。
その制作アトリエは現在、井の頭自然文化園アトリエ館として残されています。2018年3月、訪れてみました。

天井の高い吹き抜けのアトリエには平和祈念像の1/4の内部構造や石膏像、1/20のブロンズ像の他数々の彫刻と大きな回転台が展示されています。1つの彫刻を作り上げるために、入念に準備が重ねられていたことを知る良い場です。

また彫刻館には自ら考案した石膏直付け法で作った高さ9.7mの平和祈念像原型が鎮座していました。完成までに費やされた5年の歳月は、決して順風満帆だったわけではありません。この大仕事を引き受ける栄誉に対して誹謗中傷も受け、途中長崎市からの予算が打ち切られるかもしれないと心配もあったそうです。しかし西望氏は「孫子の代までかけてでも完成させたい」と西望氏は懸命に取り組んだのだそうです。

彫刻館内の殆どの作品が撮影禁止のためこちらには紹介できませんが、自刻像は撮影可だったので右に出しておきます。30代半ばの西望氏の自刻像、芯がぶれることのない気概と気迫溢れる像ですね。

井の頭自然文化園アトリエ館
 
北村西望自刻胸像 

こちらは井の頭自然文化園本園(動物園)の正門入口から売店「こもれび」の前を過ぎて資料館へ行く方の道の途中(ヤクシカの大放飼場と東屋よりも正門側)に、屋外展示されている西望氏の作品「平和の女神」です。

平和の女神
写真6 「平和の女神」北村西望作

西望氏83歳の年の作品とは思えないほど、躍動感に溢れた作品です。自分の掲げる目標がはっきりすれば、あとはそこに向かってひたすら疾走していく、何かそうした西望氏の気持ちが伝わってくるような像です。
西望氏は90歳を過ぎても、毎年何作も作品に取り組んで発表していきました。彼にとって作品を生み出す内なるエネルギーは、年齢を理由に消えゆくものではなかったのです。

それは一体どういうことなのか?98歳の年、綴られた思いの中にそれを見てとることができます。

しかし芸術の道は長い。これまで五百を超す作品を私は作ってきたが、いまだに気に入る作品がないかなか出来ぬ。昭和四十八年島原市の島原城に西望記念館が建設され、そこに置いた自作自像の台石に、私は記した。

「西望芸術も まだまだ これからだ 健康と共に油断大敵 
たゆまざる 歩みおそろし かたつむり」と。

これはその時の私の心境を述べたものである。だがまた、これは現在の私の心境でもある。


引用文献:
北村西望(1983)『百歳のかたつむり』日本経済新聞社, pp.9-10

98歳にしてなお「まだまだ これからだ」と思える志の高さとぶれない向上心こそが、晩年に至っても制作活動に自分を駆り立てることになったのでしょう。

かたつむりのようにゆっくりと、しかし着実に歩みを進める自分の姿を重ね合わせることを好んで表現した彼は、同年12月、どなたかへ宛てたお手紙の中でも、それを記されています。昔の書面、まるで巻物みたいな横長の紙に毛筆で縦書きされた字はしっかりした筆圧で、味わいある筆跡です。長く芸術家として第一線で活躍する人は、心意気が違うと知ることができる内容です。

「たゆまざる 歩みおそろし 蝸牛」

私はこの言葉が大好きである。いつの間にか百歳になったが自分の足跡のように思えてならない。
百歳と一口に言えば簡単だが、自分の前半戦はそれこそ苦節の幾星霜だった――しかし今想えばすべてがなつかしい思い出ばかりである。

ただこれだけは自分の生きる心情として貫いてきたし今後もやっていきたいというのは、天空に満月あっても池水濁ればその月を眺めることが出来ないのと同じように、人の心に邪心があれば敵人が多いことは世の習いであるということである。

それは芸術の世界だけでなく人間として大事なことだと思っている――清い心と誠実、これが欠けてどれほどの作品を創っても人の心を動かすことはできない。洗心大成の元だし誠心大成の元ではないだろうか――。

一番思い出深いのは「長崎の平和祈念像」を創っていた頃であり、それこそ心骨そそいだ四年間であった。苦しいと言えば苦しい、楽しいと言えば楽しかったが、人間社会に争いを避け平和を訴えるにはどうしたらいいか随分悩んだのもなつかしい。(略)

これからも長生きして世のために尽していきたい。

昭和五十七年十二月

                     百寿 北村西望

引用文献:
北村西望(1982)『北村西望百寿の譜』新三多摩新聞社, p.12

病気療養によって起こった退学当時、渦中の西望氏にとっては五里霧中の心境だったかもしれません。自分の力を持て余すもどかしさでいっぱいだったかもしれません。そして自ら切望した彫刻への道、京都市立美術工芸学校、東京美術学校共に、合格理由は欠員があったからなどという理由は、若き彼の心の中に釈然としない思いを与えたかもしれません。それでもその一つ一つが彼の天命とも言える道の扉を開けることになりました。人生、何が幸いとなるいかはわかりません。あらゆることの側面に、幸せのきっかけがあるということかもしれません。悔しさのままで終わらせるか、幸せのきっかけに転換させていくか、それは自分自身に委ねられているわけですね。そして「たゆまざる歩み」によって自分の前に新たな道が開けてくるのです。そこには他人には窺い知れない本人の大きな努力が隠れているわけですが……。

 
文中引用文献:
※1 北村西望(1982)『北村西望百寿の譜』新三多摩新聞社, p.178
※2 北村西望(1982)『北村西望百寿の譜』新三多摩新聞社, p.189
 
参考文献:
  北村西望(1982)『北村西望百寿の譜』新三多摩新聞社
  北村西望(1983)『百歳のかたつむり』日本経済新聞社
 
引用ウェブサイト:
※W1 国立感染症研究所HP 日本住血吸虫病
 
写真:
写真1 「源泉」ブロンズ, 北村西望作, 河口湖(山梨県南都留郡)
写真2 「源泉」同上
写真3 「葦に雁」 40x110cm, 明治35(1902), 北村西望作
井の頭自然文化園彫刻館 館内パンフレット掲載物
写真4 井の頭自然文化園アトリエ館
写真5 「北村西望 自刻胸像」大正7(1918)年, ブロンズ, 北村西望作
井の頭自然文化園彫刻館
写真6 「平和の女神」昭和42(1967)ブロンズ, 北村西望作, 井の頭自然文化園
  写真1,2 2017/12当方撮影, 写真3-6 2018/3当方撮影
 
向上心とたゆまぬ努力は、一見不幸せに見える出来事を幸せへと転じさせる力を秘めているのかもしれません。その鍵は自分が握っているのです。
長原恵子