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自分自身を突き動かす心のエネルギーによって、人は人生をいかようにも変えていける…そう感じられるお話を、今日はご紹介したいと思います。超新星1987Aの爆発により地球にやってきたニュートリノ(電気を持たない、小さい粒子=素粒子)を、世界で初めて観測し、新しい学問の境地を開拓され、2002年にノーベル物理学賞を受賞された小柴昌俊氏(1926年〜)のお話です。

3つの文献から引用するので、紛らわしくならないように、ここで文献をABCと割り振っておきます。

引用文献
小柴昌俊(2004)『やれば、できる。』新潮社
小柴昌俊(2006)『「本気」になって自分をぶつけてみよう 人生を抜群に面白くする私の20の方法』三笠書房
産経新聞文化部編(2010)『わたしの失敗 II』「小柴昌俊」文藝春秋

陸軍軍人を父とする家庭に生まれた小柴少年は、幼い頃から軍人になるように言われて育ちました。中学に進学する頃、満州に渡る父に同行せず、一人、横須賀の親戚の家に預けられたのは、陸軍幼年学校を受験するよう、父の命があったからです。親の定めた軍人としての進路、「当時はそういう時代だった」とご本人は振り返りますが、実は音楽の道にも憧れがあったのだそうです。中学の入学祝とお年玉を貯めて初めて買ったレコードは、チャイコフスキーの『白鳥の湖』。それほど、クラッシック音楽が大好きでした。そして作曲の道に進むには楽器が必要だと思い、ピアノにするか、バイオリンにするか思案していたこともあったのだそうです。

しかし、そのような将来の夢が一変したのは、小柴少年が中学一年生の秋でした。十月のある朝、全身に寝汗をかいて目覚めた小柴少年は、意識がはっきりしているというのに、急に手足が全く動かなくなっていたのです。かつがれて医師の元へ向かい、小児麻痺(ポリオ)と診断されました。治療として行われることは、マッサージしかなく、2、3日自宅で養生していたところ、今度はジフテリアに感染していることが分かり、横須賀市立病院へ入院することになったのです。2016年現在、日本で生まれた赤ちゃんは生後3か月から、ポリオやジフテリアを予防する不活化ワクチン(四種混合 DPT-IPV)を無料で受けることが出来ますので、そうした病気の発症自体、聞き慣れないことかもしれません。しかし当時はそのような予防接種の制度自体、まだ整っていなかったのです。

元気いっぱいだった中学一年生が、突如床に臥せるようになり、病床で過ごさなければならない日々…夢にあふれていた将来と、思うように自由の利かない身体という現実。あまりに厳しい時間に直面することになったのです。その頃の気持ちを、小柴先生は次のように回想されています。

人生の目標が次々と打ちくだかれ、一生で一番つらい時期だったかもしれません。※1)

いずれにせよ、入院してしまって試験を受けられなかったことで、陸軍幼年学校への進学は断念せざるをえなくなりました。
それこそ自分の運命と思って進もうとした道が閉ざされてしまい、中学生ながらに大きな挫折感を抱きました。※2)

陸軍幼年学校も受けられなくなってしまって、人生の目標がつぶれてしまった。こんな体でどうやって生きていけばいいんだと、だいぶ迷いました。一時は模型飛行機屋になろうかなと。右腕が不自由でも、模型飛行機ぐらいだったら作れるんですよ。※3)


※1)引用文献 A, p.21
※2)引用文献 A, p.23
※3)引用文献 C, p.305

そうした病床の小柴少年の気持ちに、ひとときの安らぎをもたらしてくれたのは、中学の担任だった数学の先生でした。活字に飢えて、手当たり次第むさぼるように本を読んでいた小柴少年に、『物理学はいかに創られたか』というアルバート・アインシュタインの本をプレゼントしてくれたのです。『物理学は…』は専門家ではない読者向けの入門書、と言えども、特殊相対性理論、一般相対性理論といった専門的な内容が書かれてある本。病床の中学一年生が気分転換を図るために読む本とは、言えないかもしれません。でも小柴少年は慕っていた先生からのプレゼントが嬉しくて、とにかくその本を読みました。それがきっかけで物理学の道に進もうと考えたわけではないそうですが、興味の扉は少し開いたようです。

身体をマッサージしてもらったり、自分でも動かすようにしていたところ、両足と左手は少しずつ動くようになりました。まだまだ元の動きには及びませんが、発症から2カ月後、その年の暮れに小柴少年はようやく退院することが出来たのです。
しかし、自宅に戻った生活は決してたやすいものではありませんでした。親戚家族の手を煩わせたくないと思ったのでしょうか、あるいは元々気骨のある少年だったからでしょうか…。80年近く前の小柴少年の頑張りは、決して色褪せることなく伝わってきます。

家から横須賀中学までは一里(四キロ)の道程で、入院するまではバスで通っていたのですが、退院後はなんとバスのステップに一人で昇ることが出来なくなってしまったのです。時間をかけるか、他のお客さんに手伝ってもらえればバスには乗れるんですが、そういうことは嫌だったので、思い切って徒歩通学することにしました。物は考えようで、今で言うリハビリを兼ねて歩こうと思ったんですね。

それでも、以前のようにぐんぐんと歩けるわけではないので、とにかく時間がかかりました。速く力強く歩くには、足の歩みと一緒に手をしっかり振ることが大事なんですが、両手の動きも不自由だから、ほんとうに幼児のヨチヨチある気のような感じでした。

ある日、登校の途中で少し小高い道を上ろうとしたとき、バランスを崩して転んでしまったことがありました。
そうしたら、なんとだるまさんのように起き上がれなくなってしまいました。天を仰ぎ流れる雲を眺めながら、ああ、ぼくはどうしようもないんだなといった絶望感が襲ってきたことを思い出します。立ち上がることも転がることもできないまま、じりじりと時間だけが過ぎていきました。

その後、たまたま通りかかった男性が助け起こしてくれたんですが、あのときほど情けなかったことはありません。


引用文献 A, pp.24-25

バスの昇降は出来なくても、平らな通学路は歩ける、そう考えて歩いた四キロもの道。転んで天を仰ぎ見続けたその時間は、一時間半くらいに及んでいたのだそうです。
そうした悔しい経験をしながらも、小柴少年は不登校になることはありませんでした。諦めず、毎日歩いて学校へ通い続けたのです。その努力もあて、両足の麻痺と左腕の動きは良くなっていきました。

しかし、決して順風満帆だったわけではありません。中学四年生の時、二高を受験して失敗し、五年生の時に一高を受けて失敗し、高校浪人をすることになりました。しかし徴用で工場で働くことをが嫌に思っていた小柴青年は明治工業専門学校(現在の明治大学理工学部)に進学しました。
横須賀から一時間半かけて通学し、半年間必死に勉強し、翌年、一高に合格したのです。

ただ、右手の麻痺は残ったままでした。うまく腕が上がらないため、黒板に字を書くにはとても苦労されたようです。一高に進学した小柴青年は、板書しなければならなかった物理の力学演習はさぼりがちで、落第点をつけられたこともありました。その先生は小柴青年の身体の事情を知らなかったわけですが…。右手の麻痺は、大人になって、大学教員になってからも続き、板書が一番の苦手だったそうです。
しかし、あらためて右手が不自由という現実に直面し、小柴青年は将来の岐路に立たされることとなりました。

右手に後遺症が残っているので、もう軍人にはなれない。
自分が何となく思い描いていた「わたしの未来」は永久に失われてしまった。
自分は何をやりたいのか、何をやったらいいのか、そのときのわたしにアドバイスをしてくれる人はいなかった。


引用文献 B, p.14(太字箇所は原文も太字です)

思春期で夢断たれた時に自分がどうすべきか、苦しみに晒された時間は、私たちが想像する以上にきつかったことだろうと思います。
目標を見失った小柴青年に転機が訪れたのは、一高の寮の風呂で偶然耳にした会話でした。終戦間もなく、まだ各家庭に風呂が整っている所が少なかった頃、高校の寮の風呂に入りにきていた教員が、小柴青年の進路について話していたのです。それは決して喜ばしい内容ではなかったのです。

大学入試の時期が近くなった冬のある夜、高校の寮の風呂でのこと。湯けむりの向こうから、誰かがわたしのことをはなしているのが聞こえてきた。

「小柴君はどこを受けるんでしょうね」

そう言っているのは、私の一級上の先輩の声のようだ。

「小柴は物理ができないからな」

応えているのは物理の先生。その先生はわたしに落第点をつけたことがあった。終戦間もないその頃は、自宅に風呂がある人は少なく、教師やその家族も、寮の風呂に入りに来ていた。もうもうとした白い湯気の中で、わたしは思わず聞き耳を立てた。

「インド哲学か、ドイツ文学か、どこへ行くかわからない
けれど、まかり間違っても物理へ入ることはあり得ないよ」

と、その先生は続けた。
これを聞いたときには、なぜか悔しい思いが熱く胸の中にこみ上げてきた。

「こんちくしょう、入ってみせてやろう」

そう決心した。
わたしは二人と顔を合せないよう、こっそり風呂から出た。

引用文献 B, pp.16-17

当時、小柴青年は勉強に割く時間はほとんどありませんでした。なぜなら家族の生計を支えるために、一生懸命アルバイトをしていたからです。横浜の港で日雇いの荷揚げをしたり、出版社の編集部の手伝いをしたり、家庭教師の仕事をいくつも掛け持ちしていました。ですから学校に行けるのは週に一、二日だったのです。

金を稼がねばならなかった。戦争に負けて、軍人の家族は収入がなくなりましたから。でも、自分一人がひどい立場とは思ってませんでした。そういう時代でした。


引用文献 C, p.306

湯けむりの中での会話から、奮起した小柴さんは、優秀な友人に家庭教師になってもらい、猛烈に勉強を始めました。そして、見事、東京大学の物理学科に合格することが出来たのです。

よい友人に恵まれたことは大きいと思う。でもそれ以上に、
「くやしい」と思う気持ちが原動力になった。「負けられない」と思うと、自分でも思いもよらないエネルギーが出てくるものなのだ。
(略)

頑張るきっかけなんて、何でもいい。
不純な動機であってもいい。

マイナスのエネルギーも使いようによっては、ものすごくプラスになるのだ。

引用文献 B, p.19

感情のエネルギー、それは小柴先生が示されているように、マイナスをプラスの方向に変えていけば、どれほど道が変わってくことでしょう。
悔しくて現状に不満だらけで愚痴を言ったとしても、一日。
何か自分を望む方向に変えるためにエネルギーを使っても、一日。
同じ人間にとって、人生の中の同じ「一日」ならば、プラスの方向に使った方が、はるかに良い!って思いませんか?

自分がやりたいことは何だろう。
自分は何のために生まれてきたのだろう。

人間、誰にも夢がある。わたしは何度も挫折し、その夢をあきらめかけた。しかし、執拗に、執拗に追い続けた。※4)


わたしは生来不器用で、「頑張り方」だって上手くない。ただ、やりはじめたからには、できないなりに「本気」になって取り組んだ。思い切ってぶつかってみた。準備が必要なら、とことん準備した。そうすると面白いことが次々に起こった。

「これはおれの仕事だ。おれにもできるぞ」というものに不思議に出くわすのだ。そしてハードルを一つクリアするごとに、たとえ小さな自信でも本物になり、その自信によってもっと「大きな舞台」に挑戦できるようになった。

いま、物事が自分の思い通りに運ばずに悩んでいる人や、境遇に不満がある人もいるだろう。そういうときでも、目の前には必ず「それを解決すべき何か」があるはずだ。その前で、物怖じしないで一歩を踏み出してみるだけでいい。

そうすれば、頭で考えていたときには見えなかった「面白いこと」がきっと起きる。毎日が文句なしに楽しくなってくる。

なぜ、こんなに楽天的なことが言えるかといえば、あなたがいま生きているということだって、奇跡のような幸運だと思うからだ。(略)

人生はやってみなければわからない。否、自分をぶつけてやってみて、はじめてわかるのが人生だ。

とにかく「本気」になって「勇気ある一歩」を踏み出すこと――考えてもみなかったおもしろいことが起きてくる。

今日がその日だ。※5)


※4)引用文献 B, p.1
※5)引用文献 B, pp.2-4

人生、何が正解かなんて誰にも分からないし、正解自体も存在しないのだろうと思うけれど、自分が納得して、自分が踏み出した一歩ならば、きっとそれが正解になっていくのだろうと思います。

 
病気でいろんな気力を失くしてしまったあなた、立ちはだかる障壁の向こうには、洋洋たる可能性が開けてくることを、忘れないで。
2016/9/15  長原恵子